現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

歩くということ

2014-10-01 | Weblog

小学生の遠足などの時に、列が詰まったときなど、「止まらないで、歩きなさい」 と、せかされたものだ。そういえば、「歩く」という漢字は、「止まるのを少なく」 と書くとフト思った。小学生のころは、遠足それ自体は、学校での授業より、はるかに嬉しかったものだが、長時間歩かされることは嫌だった。おそらく大半の子供は、そう思っていたに違いない。さらに目的地と言えば、お寺や神社。引率の先生や、行った先で、一生懸命説明してもらうが、頭の中は、昼の弁当や遊びのことで一杯だ。そもそも神道、宗教、などとの人間の関わりなど、全く理解していないのだから、ミクロ的に、ピンポイントで説明を受けても、日常生活とどう関わり合っているのかすら実感できないのだから、良さや伝統の重み、重要性など全く理解できていなかったと言っていいだろう。

時は今、これほど 「歩く」ということが、人間の基本的な機能として大切と実感せざるを得ない。今まで「歩く」ことが楽しいなどと、心底考えたことはなかったが、今は、多少の義務感めいたものは残っているものの、「歩く」ということへの積極的な気持ちが湧いていることも事実だ。15年前あたりは、まだ地元のバドミントンの試合にもかなり積極的に出ていたものだが、10年前ぐらいからばったり運動らしき運動から遠ざかったものだ。(ゴルフすら、やめてしまった。)それでも、走ったり、いきなりのダッシュもなんの違和感なくできたものだ。正直、なんら身体の変化など、ほとんど自覚していなかった。それから10年経った今、走れない自分に気づく。フットワークで、膝のバネで体重を支えられないことに愕然とする。ボーリングで、つっかかる。どうして? 自分でも理由がわからない。要は、筋力も低下しているし、あまりにも日常の中で、鍛錬することがなくなったからだと気づいた。だから、走ろうとする。信じられないが、スムースに走れない。何故かぎくしゃくする。これじゃダメだ。どうする? しばらく経ったら、走れることを信じて、「歩く」ことからスタートさせるしかないのかなと、自分の中で考える。そしたら、それを実践するしかない。心の本当のところは、今の自分を受け入れ難く、打ちのめされているのが本音だろうが、年を重ねていくことには抗うことはできない。ああすればよかった、だとか、ずっと続けていればよかった、だとか、あれこれ省りみることも、気持ちの上では多少の慰めになるかもしれないが、何も現状を改善することにはならない。腹筋や背筋をやろうなんてことも何度考えたかもしれない。しかし、やってこなかった。ジョギングもまたしかり。基本の基本、「歩く」ぐらいすら出来ないのであれば、自分でも救いようがないと考える。先の結果は見えないが、とりあえずは継続することを強く決意したいと思う。

先の上手な説明のしかただが、さすがに人気の予備校の講師陣の教え方に共通していることは、脈絡を押さえていることだと感心している。別の言い方をすれば、ストーリーを組み立てているとも言えるし、難しいことを、具体的な身近なことに例えてわかりやすくとも言える。放送大学というか教育的なTVの中で、数学や語学の教え方の中で、難しいことを、そのまま難しい言葉で言っているものもたくさんあって、だんだんと興味が薄れていってしまう。中国語や韓国語の文法用語など、用語自体が、そんな日本語があるの?って感じだ。修飾なんとかと言われても、形容詞ぐらいまでならわかるが、それ以上は全く意味不明だ。数学についても、極限をとって積分なんとかと言われても、それが日常の何と結びついていくのかがピンとこない。高等な脳みそを持っていれば理解できるのだろうが。そうは言っても、やはり聞き手にわかるように伝えるというのが、真の教育者ではないかとつい思ってしまう。

全然話がそれるが、アジア大会の水泳代表が、窃盗事件を起こしたことだが、全く手が届かない品物というなら、それはそれでそういう気持ちを抱くことを理解しないでもないが、今の時代、クルマが買える程度のものなら、イマドキ、カードローン組んででも買えるだろうにと思ってしまう。一見、単純に見えるが、解析しえない何か深いものが潜んでいるのだろうか?

代々木の国立競技場だが、あまりにドデカイものを作ってしまってから、現在の東京の日本橋と首都高の関係のようなことにならなければいいかと懸念するが、それが問題化する頃には、この世にいないから関係ないか。