現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

オーバールール

2014-10-07 | Weblog

街中をぶらりと散策していると、2階建のアパート。1Fのドア横の軒下に、一槽式の洗濯機が置いてある。なつかしいと感じる。なんか生活が現れていて親しみを感じる。そうかと思えば、一戸建てで、玄関、駐車場までホコリ、塵ひとつ落ちてない家がある。よほどのきれい好きの御仁が住まわれているのだろうと想像される。このような風景に接すると、それほどの年月が経っていないように一瞬思われるが、それなりの長い時間が過ぎ去ってしまっている。そういう時に、ふと頭によぎるのが、自分が新人のころに周囲にいた人たちの顔だ。同期、1年先輩、2年先輩、全員がそんなに違いがなかったように思えるのに、風の便りに「ええっ?あの人が?」と思うような人が、組織の上部に位置するので驚かされる。なんでも大きな声で、自分の正当性をアピールしていた者たちばかりが浮かんでくる。

学校で、物を盗んではいけないとか、信号、交通ルールを守ろうとか教えてもらう。ルールだけでなく、こういうときは友達だったら助けてあげようとか、何か見返りを期待して行動するのではないとか、人から見られている、見られていない関係なくとか、いろいろ教えられることと思う。家の中ではどうだろうか? 基本的には学校と同じような事柄を教えられていくように思う。社会人になったら、どうだろうか。自分の経験から言うと、あまりルール、ルールと言われた覚えがない。それ以前に、いわゆる仕事のやり方ということを中心に教わってきたように思う。もちろん、そういった中には、ルールに関連することも含まれていたように思うが、普通にマネジメントされた多くのことは、仕事をどうのようにこなしていくかということだったように思う。ルールの類というのは、あくまでも処理的な事柄で、それが主役になるような話ではなかったように思えるのだが。今の時代、何か周りに漂うものが殺伐としたものばかりで、潤いがないように感じるのは自分だけなのだろうか? 慈愛といったものが全く感じることができない。おそらくだが、みんな心の中では同じような感度でもって、同様の雰囲気を感じ取っていると勝手に想像はしているが、それを吐き出すところがない。それが高じて、あきらめ、厭世の思いの領域に達してしまっているのではないかぐらい思ってしまっている。そのようなエネルギーの1つのはけ口が、今は、ツイートとなっていなくはないとも考えられるが、これは小生のひとりよがりの考えゆえ、的を射てるのか、それてしまっているのか、よくわからない。ルール論議がマネジメントすることだと、あたかもそれが正解でまかり通っているような向きもなくもないが、それであれば、教則本をみんなが1冊ずつ持てば、それで済んでしまうことと、単純な頭の小生には思えてしまう。偉そうなことは言えないとは思うが、自分自身の社会での関わってきた経験から、いかに様々な現実的事柄の対応に腐心する、それがオーバールールとなる場合でも、それが人の道だろうということを説く。真のマネジメントとは、その点にあるのではと考えている。