(愛知県新城市八名井・宝飯郡一宮町金沢 県指定史跡 1992年4月23日再踏査)
元亀四年(1573)野田城の戦いの際、徳川家康勢三千が陣を敷いたという旗頭(はたがしら)山(98m)は、吉祥山(382m)の支丘であり、古墳時代終末期の積石塚である尾根古墳群が存在する山でもある。その旗頭山も、連なる山と共に古墳群の文化財指定範囲外は年々採石によって縮小していっている。かつては吉祥山側に連なる茶臼山支丘(154m)にかけて36基があったとされるが、採石等により滅失し、現存は24基となっている。更には茶臼山支丘の対岸、大入山支丘にも10基の積石塚が存在した(大入山古墳群)。旗頭山尾根古墳の内訳は、一宮町側の標高の低い地点から1号墳で始まり、16号墳までが土と石を混ぜて造られた半積石塚、17号墳以降は全て石だけで造られた積石塚であり、25号墳以降は採石によって滅失した。但し26号墳は滅失直前に発掘調査が行われ、調査後に市内桜淵公園に移設復元されている。積石塚の形式は高句麗地方特有の形式であり、日本では地域が限定されているため、渡来人の墓とされる考え方もある。
4号墳
5号墳
本宮山と18号墳
25号墳
桜淵公園内に移築された26号墳(1982年7月撮影)
(関連記事:旗頭山平成十七年 段林5号墳 段林遺跡 旗頭城)
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます