和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

力走/六十二〈小説「新・人間革命」〉

2016年06月06日 05時54分14秒 | 今日の俳句
力走/六十二  法悟空 内田健一郎 画 (5819)

 山本伸一は、任用試験の会場を提供してくれた、保育園の園長である高原嘉美の自宅も訪問した。試験会場を提供してもらったことに心から感謝を述べ、用意していた色紙に、「光福」などと揮毫して贈った。
 高原は、自分の四十余年の人生を振り返りながら、その歩みを語っていった。
 彼女は、結婚後、貧乏と家庭不和に悩みながら幼子を育て、半身不随の舅の面倒をみた。釣瓶で水を汲み、薪でご飯を炊き、家族の朝食の世話をする。自分は残り物を口に入れると、農作業に飛び出す毎日であった。
 身も心も、へとへとに疲れ果て、なんの希望も感じられなかった。その時、実家の母の勧めで入会した。義父母からは「嫁が先祖代々の宗旨を変えるとはもってのほかだ」と叱られた。近所からは「あそこの嫁がナンミョーに入った」と嘲笑され、村八分にもあった。
 “信心をやめよう”と思い悩む日が続いた。しかし、学会の先輩が足繁く訪ねて来ては、「この信心は正しく、力があるから、魔が競ってくる。あなたが変われば、必ず環境も変わる」と確信をもって指導してくれた。
 励ましによって、人は師子となる。
 “よし! どんなに苦しくとも頑張ろう。この信心で、宿命を転換していくんだ!”

 高原は、信心で、逆境を一つ一つ乗り越えていった。そのたびに確信が増した。
 ある時、持っていた土地が高く売れた。それを資金にして、家の周りの土地を購入し、保育園をつくろうと思った。地域の人たちの要請であった。保育園の開園は、順調に進んだ。献身的な職員にも恵まれた。地域の人びとも、さまざまに尽力し、守ってくれた。
 高原は、喜びを噛み締めながら語った。
 「山本先生! 入会前には、思ってもいなかった幸せな境涯になれました」
 「断固として信心を貫いてきたからです。だから、周囲の方たちも協力してくれるんです。信心こそ、一切に勝利する力なんです」
 妙楽大師は「必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し」(御書一一八六ページ)と。




【「聖教新聞」2016年(平成28年)6月6日より転載】


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五月富士/今日の俳句 ≪第2159号≫

2016年06月06日 05時42分43秒 | 今日の俳句
≪2016年(平成28年)6月6日(月)≫(旧暦5/2)



 目にかゝる時やことさら五月富士
         松尾芭蕉

 鳶の輪の上に鳶の輪五月富士
        大木あきら

 苗代の規矩の正しき五月富士
         遠藤梧逸

 羽衣の天女舞ひ来よ五月富士
         小倉英男

 みづうみの底の胎動雪解富士
         保住敬子


※ 五月富士・皐月富士・雪解(ゆきげ)富士・夏富士
 陰暦五月頃の、雪解けもかなり進み、裾野の新緑も濃くなって、夏らしくなった富士山である。(雪解富士」は、明らかに雪解けの始まったことが判るころの富士山であり、「富士の農男」・富士の農鳥」などの雪形が現れる。「夏富士」は、雪もすっかり消え、登山客で賑わうころの富士山である。現在では、残雪と岩肌のコントラストが鮮やかな陽暦五月の富士山を「五月富士」と使ったりしている。


【「新版・俳句歳時記/第四版/監修・桂信子ほか」(雄山閣)より転載】




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       ※☆*今週のことば*☆※



  わが地区・ブロックこそ

  広宣勝利の電源地なり。

  皆が正義の開拓者だ。

  先師の如く勇敢に

  いざ仏縁の拡大を!


       2016年6月6日




       ※☆*寸 鉄*☆※



 牧口先生の生誕145周年。正義を貫いた死身弘法の大生涯。魂は後継に燦然
      ◇
 埼玉に堂々、師子の陣列。鉄桶の団結で勝ち進め!栄光の最高峰へ加速せよ
      ◇
 兵庫の播磨・姫路総県が猛進。弾ける生命で圧倒的拡大を!皆が凱旋待つ
      ◇
 「ついには・たのしかるべし」御書。最後に勝つ信心だ。潔く大確信で挑戦
      ◇
 食べられるのに捨てる食品ロスが6百万トン超と。公明主導で本格対策急げ



【聖教新聞:2016年(平成28年)6月6日(月)付】





      ※☆*名字の言*※


日本で最初に「乳児死亡率」をゼロにした岩手の沢内村(合併して現在は西和賀町)を以前に小欄で紹介した

同村は、最新設備のある大病院を誘致したわけではない。長く医師すらおらず、「死亡率ゼロ」達成の数年前まで、10人に1人近くの乳児が、1歳に満たずに亡くなった。1年の半分近くを雪に閉ざされ、「雪・病・貧の三重苦」の村といわれた

1957年、深沢晟雄氏が村長となって行った試みが、成果をもたらした。保健師の採用である。後に村にできた病院で副院長、院長を務めた増田進医師は「保健師活動の始まりとともに、死亡率が急激に下がった」と証言する

保健師が何を行ったか。それは、徹底した家庭訪問だった。一人一人の健康だけでなく、生活、家族の人間関係も詳細に把握。だから、信用もあり、現場に即した発想も出た。「住民と対話している強みです。医師は技術者として保健師さんの意見に従い、いい結果が出た」と増田医師。「死亡率ゼロ」は、保健師採用のわずか5年後のことだった

次元は違うが、広布の活動にも通じよう。誠実、丁寧な日々の励ましが、同志にどれほどの安心をもたらすことか。そして、地域の未来を開くアイデアも、そうした膝詰めの語らいから、生まれるに違いない。(哉)



【聖教新聞:2016年(平成28年)6月6日(月)≫付】



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