ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

倭語論17  「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」倭語母音論 

2020-03-16 12:42:21 | 倭語論
 この小論は2018年12月に沖縄方言の分析として書いた「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」を拡張し、2019年7月に書いた「古日本語5母音論」をベースにして、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本:2019年12月)での「奴(な、ぬ)」「原(はら、はる)」などの分析を追加して書き直したものです。
 最初、琉球方言から「あいうえお」5母音は倭語時代には「あいういう」5母音ともとれる「あいういぇ(ye)うぉ(wo)」であったと考えてきましたが、もっと多様な母音の発音があり、そこから母音併用が起ったのではないかという仮説に達しました。
 そもそも母音が5音で構成されていたのかなど、言語学の分野では素人であり、専門家による本格的な研究を期待して、私の仮説を提案しておきたいと思います。なお、「古日本語」「和語」は「倭語」に統一しています。 雛元昌弘

1 倭語「あいういぇうぉ」5母音説―「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」(181210→190110)より
 琉球弁と倭語の分析から、倭語は「あいういぇうぉ」と発音され、後に「あいういう」3母音と「あいうえお」5母音が併用されていたという結論に達しました(添付資料参照)。「い=え、う=お」です。
 沖縄では「あいういう」3母音が今も残っています。雨(あみ)、酒(さき)、風(かじ)、心(くくる)、声(こい)、夜(ゆる)などです。

琉球弁「3母音化説」(通説)と本土弁「5母音化説」(筆者説)



2 倭語「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」母音説
 さらに、倭語の分析を進める中で、次表のような母音の併用例が見つかり、もともとの倭語母音は「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」があり、表記される時に「い=あ、え、お」「う=あ、え、お」「お=あ」とされ、現代に引き継がれたと考えます。
 なお、私はスサノオの「委奴国(いなの国)」の5代目の倭国王・師升(すいしょう:淤美豆奴(おみずぬ)の時には「倭国:いのくに」と称していたが、後に後漢側の発音の「倭国:わの国」と呼称を変更し、「美和(三輪)」を拠点としていた大年(大物主:スサノオの子)が「和国(わの国)」と漢字表記を変えたと考えており、縄文時代から続くスサノオ・大国主王朝(記紀では神話時代)の文字表記・発音は「倭語」とします。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」倭語母音の表記例


倭語の「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」母音表記の変遷(仮説)



3.「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」母音からの古代史の見直し
(1) 「海(うみ=あま)」読みからの「海=海人」族の「天」神話化
 記紀神話の一番大きな歴史の改ざんは、「海・海人(あま)」族のスサノオ・大国主の建国を認めながら、地上の「筑紫日向(ひな)」にあった高天原を天上の国とし、天皇家をその子孫(天孫族)としてその支配に「神権」的な性格を与えたことです。「うあ」母音が後に「う」「あ」に、「いあ」母音が後に「い」「あ」に分かれ、「うみ」と「あま」に発音が併用されたのです。
 壬申の乱(反乱)で弘文天皇(大友皇子)から権力を奪った文武に優れた大海人(おおあま)皇子は、五十猛(いたける=委武、壱武)、熊曾建(くまそたける)、出雲建(いずもたける)、倭建・日本武(やまとたける)らの名前を受け継ぎ、「海人武(あまたける)」と称し、諡号(死号)で「天武:てんむ」と漢字表記されたと考えます。

(2) 「委奴国王」の「奴」の「ぬ、の、な」読み、「城」の「き、け」読み
 紀元1世紀に「委奴国」、紀元3世紀に「奴国」と記録された「奴」はどのように発音されていたのでしょうか? これは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)をまとめる時の最大の難問でした。
 「委奴国」「奴国」を「いなの国」「なの国」と読んで分析していたのですが、8世紀の記紀や万葉集では「奴」は「ぬ」と呼ばれ、スサノオ2代目「八嶋士奴美(やしまじぬみ)」、3代目「布波能母遲久奴須奴(ふはのもぢくぬすぬ)」、5代目「淤美豆奴(おみずぬ)」、筑紫大国主4代目「早甕之多氣佐波夜遲奴美(はやみかのたけさはやぢぬみ)」などの王名にも使われています。
 さらに、スサノオ5代目の淤美豆奴(おみずぬ)は『出雲国風土記』では八束水臣津野(やつかみずおみつの)と書かれ、「奴(ぬ)=野(の)」だったのです。
また、宗像大社の近くには5~6世紀の「奴山(ぬやま)古墳群」(『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群に)があり、「奴=ぬ」だったのです。
 さらに魏書東夷伝倭人条の伊都国から奴国、奴国から不彌国のそれぞれ「百里」を短里76・77mで正確に当てはめると、奴国の王都は福岡市早良区の「野芥(のけ)」、不彌国の王都は現在の奴国王都想定地の春日市の「須玖岡本遺跡」になります。
 この「野芥(のけ)」は当時の母音では「野(の)=奴(ぬ)」「芥(け)=城(き)」であり、「奴城(ぬき)」であった可能性があり、奴国の王都はこの地にあった可能性が高いと考えます。この地には野芥櫛田神社があり、吉野ヶ里遺跡近くの佐賀県神埼市の櫛田宮(くしだぐう)の祭神がスサノオ・櫛稲田姫夫婦と日本武であり、福岡市の櫛田神社にもスサノオが祀られていることからみて、この野芥櫛田神社の背後の小山には奴国王の墓がある可能性が高いと考えますが、そうすると「奴国」は「ぬの国・のの国」と呼ばれていた可能性が高いと考えます。
 私はスサノオ時代の「ぬの国・のの国」が後に「なの国」に変わった可能性が高いと考えますが、いずれにしても、倭国の分析には当時の母音での検討が不可欠と考えます。
なお、「奴国論」については『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』で明らかにしましたが、いずれブログで紹介します。

(3) 「奴(ぬ)」は「玉」の可能性
 大国主が妻問いした沼河比売は奴奈川姫とも書かれ、ヒスイ(霊吸い)のとれる奴奈川(糸魚川市の姫川)の地名からの名前であり、倭人にとって「奴」は玉であり、奴奈川は「玉の取れる奈(那:場所、国)の川」であったと考えます。
 漢字では「奴(ド)」は「女+又(右手)」で奴隷を表すとされていますが、「姓」が「女+生」、周王朝が姫氏(女+臣)の国、「魏」が「禾(稲)+女+鬼」で「鬼(祖先霊)に女が稲を捧げる」であることなどからみて、母系制社会であった周王朝では「奴」字は「女+又」で子孫を産む女性器を表しており、春秋・戦国期に入り男系社会となり奴隷制が生まれるとともに、女奴隷を表す字に変わったと考えています。
 周王朝を理想とした孔子が住みたいと憧れた「道(礼と信)の国」である倭国は母系制社会であり、「奴(女+又)」は霊人(ひと)の霊(ひ)が留まる女性器であり、奴(ぬ)=玉は霊(ひ)=魂が宿ると考え、委奴国(いぬの国、いなの国)名として「委(禾(稲)+女+女+又」の国、「玉=魂に女性が稲を捧げる国」であることをアピールした可能性があります。
 これまで「委奴国」「奴国」の「奴」は匈奴と同じく中華思想の後漢が、四夷の国々に対して「卑」や「奴」などの文字で国名として押しつけたという被虐史観でとらえられていましたが、委奴国側が自ら付けた国名と私は考えています。
 57年のスサノオの遣使は「委奴国」の国書を持参しましたが、「奴(ド)」が奴隷の意味であることを知り、次の107年の淤美豆奴(おみずぬ)王は、「人+委」=「倭(い)」の中国風の1字国名に変えたのではないでしょうか。

(4) 倭語・倭音による文献分析へ
 8世紀の記紀の頃まで日本人は文字を知らなかったとし、呉音・漢音でスサノオ・大国主の「葦原中国」「豊葦原の千秋長五百秋水穂国」が使用していた「倭語・倭音」により中国側文献や記紀などを分析しないと、紀元1~4世紀の古代史の解明はできないと考えます。
 例えば「投馬国」は、呉音だと「ズメコク」、漢音だと「トウバコク・トウマコク」ですが、宮崎県西都市の「妻」「都万」、鹿児島県の「薩摩(さ・つま)」地名から見て和音では「つまのくに」であり、「たちつてと=たちつちつ」5母音から、「つ」音に「投(トウ)」字を、「ま」音に「馬」字をあてたと考えられます。
 「出雲」についても、「まみむめも=まみむみむ」5母音から、「いつむ」発音であった可能性もあり、「委=倭=壱(い)の国」の「頭(お・つむ)」であった可能性があります。
 これまで、私も和語・倭音読みを意識せずに古事記などの分析を行ってきており、気づいたところから修正していきたいと思います。