京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

妙心寺塔頭 東林院 梵燈の明かりに親しむ会

2018年10月18日 08時22分29秒 | 日記
都草の歴史探訪を終えて向かったのが妙心寺。
塔頭の東林院では毎年、この時期に「梵燈の明かりに親しむ会」を催されておられます。





東林院は通常非公開寺院ですが、1月の小豆粥で新春を祝う会、6月の沙羅の花を愛でる会と年3度公開されます。

さて、今回の会は"ともしび"と名付けられ、梵燈に 苔庭揺れし 心観る"の句の通り、ご住職自ら製作の明かり瓦「梵燈」に小さなあかりが揺れています。それは、あなたの心の揺れかも知れません、、、
芯(こころ)を燃やして温かく、そして回りを明るくしてくれる"ともしび"、、、、小さかあかりたけれどもなくてはならない"ともしび"、、、







煩悩を消し去る寺の鐘を梵鐘というように、お寺の明かりの意味を込めた「梵燈」のもと、和やらかなろうそくのあかりに包まれた空間に身を置き、ここから静かに自分を見つめて下さい。





心優しく、そして、回りを明るくするような〈ヒント〉がこの"ともしび"の中にあるかもしれません。 以上、ご住職が書かれた「梵燈」から引用させて頂きました。

ご住職は妙心寺の料理方を長年されておられたのでお料理は鉄人レベルです。毎週、火曜、水曜には「精進料理を体験する会」と題して料理教室を催されておられます。
また、宿坊もされおられます。時には拝観者もいなくて、テレビもないお寺で一日を過ごし、自分自身を見つめ直してみるのも貴重で有意義な時間になるのかもしれないです。

この会は3度目の参加ですが、いつも心静まる、とてもいい会です。来年も楽しみにしています。
今度はカメラなしで訪れ、もっと風の音を聴き、虫の音を聴き、揺れる燈を見つめ、自分自身をかえりみる機会にしたいと願っています。(カメラがあると、いい写真が撮りたいと、煩悩だらけになってしまいます。)
まだまだまだ、人間力不足ですね!






紫の地に歴史の栄枯の足跡を巡る

2018年10月17日 22時27分13秒 | 日記
今日、10月17日は、僕が所属する都草の歴史探訪会に参加しました。



まずは興聖寺です。慶長8年(1603)古田織部正重然(しげなり)が、自分自身の余生を送るつもりで創建した臨済宗興聖寺派の本山で、のちに後水尾天皇の勅願所ともなった寺院で通称おりべ寺とも呼ばれています。





古田織部は、江戸時代初期の慶長年間に活躍した我が国を代表する茶人であり芸術家です。
利休の弟子の七哲のひとりで、利休が秀吉の勘気に触れ堺で蟄居を命じられた折、伏見の港まで赴き、細川忠興とふたりで利休を見送っています。他の弟子達は秀吉の目を恐れ、見送りには来ていません。

徳川の世になっても秀忠に茶の湯を指南し、その権威は頂点に達します。しかし、大坂夏の陣の折、豊臣恩顧の大名であった織部は内通を疑われ、これを基に大坂城落城の6月、伏見屋敷で切腹を命じられました。享年73歳でした。

墓は、ここ興聖寺の墓地にあります。









織部の墓にふさわしく花入れは織部焼です。

また、墓地には江戸時代中期から後期に活躍した曽我そう白の墓もあります。





百万遍知恩寺所蔵の奇怪な人物画「蝦蟇鉄拐図」などを参考にしながら狂人の表情、獣の手足、乞食の衣を着けた人物群像を作り出しました。画風は奇妙で大胆、グロテスクと評され、荒々しい筆使いと極彩色の作品が特徴的です。
しかし、そう白は「異端」「狂気」の画家として位置づけられ、京都では疎外されていました。
しかし、明治に来日したフェノロサとビゲローによって作品が評価、収集され、ボストン美術館にその多くが収蔵されています。

また、本堂前にある涅槃堂の天井には花の格天井画「四季花卉図」が描かれています。







こちらの花卉図は都草の会員の山本喜康さんが興聖寺開山四百年を記念して平成15年(2003)に描かれ奉納されたものです。山本さんは手描友禅の画工を道一筋に歩まれた方で格天井40面には四季の花々をそれぞれ十点ずつ描かれており、配置も古代思想に基づく五行哲理から「四神相応」に習い、北側を冬に、東側を春に、南側を夏に、西側を秋に配置されています。画材は、退色、剥落しないアクリル顔料が使われています。

こんな凄い方もおられるんですね。都草 恐るべしです。

興聖寺さんは先代のご住職が門戸を開けられなかったので拝観が叶いませんでしたが最近に代わられ40代のご住職が職に就かれ、早朝座禅会や達磨忌などで一般の方々も受け入れられるようになってきました。また、インスタグラムでも情報を発信されています。僕も時折、コメントをさせて頂いています。



本堂の裏手には藤袴が咲いており、珍しく地植えされていました。







歴史探訪はまだ続きますが、続編は後日に書きたいと思います。

大覚寺 戊戌開封法会(ぼじゅつかいふうほうえ)

2018年10月12日 19時43分18秒 | 日記
びわ湖疏水船で大津まで来ました。本来なら三井寺、近江神宮、石山寺と巡りたいところですが大覚寺で10月1日から11月30日まで60年に一度、嵯峨天皇が書写れた般若心経が公開されています。





嵯峨天皇がご在位された平安時代は作物の不作による飢饉や干ばつ、また河川の氾濫、疫病の流行など多難な時代でした。
仏教に深く帰依していた嵯峨天皇は弘法大師空海の勧めで般若心経を書写され国家の安寧と平安を祈られた弘仁9年(818)から丁度1200年に当たります。
既に1200年も経ているため、傷みが激しく檀林皇后が書かれたと伝わる仏様の部分は、ほとんどが剥落していました。
しかし、金泥で書かれた般若心経は、平安時代の三筆にあげられた嵯峨天皇の宸翰だけに気品を感じます。







また、宝物殿では五人の天皇の宸筆の般若心経も展示されていました。化学も医学もない時代ですから天皇とはいえ、仏教の法力に頼る以外になかったのでしょう。


また、大正天皇がご病院の際、田邊朔郎が天皇の病気平癒を祈り般若心経を書写し皇室に奉納したものも展示されていました。大正天皇が崩御の後に本人に戻され、後日、大覚寺に奉納されました。

また、12日〜14日まで「いけばな嵯峨御流創流1200年記念華道祭」の展示があるため、関係者の方々はお忙しそうでした。












びわ湖疎水船 10:45蹴上発〜大津(上り)

2018年10月09日 21時00分37秒 | 日記
今日は念願叶ってようやく、びわ湖疏水船に乗船することが出来ました。この秋の予約は8月13日からでしたが、ちゃんと手帳にメモっていたのに気が付いたのが15日!既にほぼ満席でした。

根気よくサイトにアクセスしていたら、時折キャンセルが出ています。11日に空きが1席出たので直ぐに予約したした次第です。





設計は赤坂迎賓館、東京国立博物館、京都国立博物館などを設計した片山東熊です。

上の写真は、旧御所水道ポンプ室と第三トンネル西口です。前者は、御所の防火を目的とした施設でここから鉄管を埋設し蹴上との高低差を利用し放水する防火施設です。



手前が平成号、奥が明治号で乗客の定員は12名です。





トンネル内には側壁に2本目のロープが張られおり一本は上りの時に人力で舟を大津側に上げるためのロープです。もう一本は後から設置された電線です。





第三トンネルを抜けた所に架かっている第11号橋は日本最初の鉄筋コンクール橋です。船は山科疏水エリアへ。周りにはモダニズム建築で登録有形文化財の栗原邸、天智天皇陵、本圀寺があります。
また、毘沙門堂へ通じる毘沙門通りに架かる安朱橋をくぐると桜や紅葉のほか、地域の方が育てている菜の花やコスモスなど四季折々の花が綺麗です。



やがて、船は最後の第一トンネルへ。琵琶湖疏水の建設はこの全長2436mの長等山のトンネル工事から始まりました。工期を短縮するため、第一竪坑、第二竪坑の2本を掘り、山の西側、東側の計6カ所が掘り進められましたが、電力も重機もない時代、全ては人力で行われました。湧水や硬い岩盤など一番の難工事でした。主任技師の田邊朔郎は昼夜、工夫たちの元を訪ね、労をねぎらい、疏水の意義を説いてまわったそうです。





上の写真は田邊朔郎博士の銅像と、殉死した工夫たちを慰霊するため、田邊が自費で建立した慰霊碑です。

船はやがて、大津の乗下船場に。





第一トンネル東口には伊藤博文の「気象萬千」の扁額が掲げられており"さまざまに変化する風光はすばらしい"という意味だそうです。



上の写真は大津閘門です。門扉を開閉することで水位を調節し、水や舟を行き来させていました。

琵琶湖第一疏水は、当時の金額で125万円、京都府の年間予算の約半分の巨費、三年の工期をかけて作られた明治の一大事業でした。ちなみに今の金額に直すと約1兆円にもなるそうです。

滋賀県民と京都市民の間でよく「琵琶湖の水 止めたろか、、」の会話がありますが、京都市は年間2億2千万円の「疏水感謝金」を支出しています。

約30分の船旅でしたが今まで主任技師 田邊朔郎、京都府第三代知事 北垣邦道の事を学んできたので、先人達の疏水に対する思い、先見性、またその努力、強い意思に思いを馳せる事が出来たいい船旅でした。

今度は大津側からの下り便に乗ってみたいと思い、大津を後にしました。



無鄰菴文化財講座-技術編「現代から見た植治の庭」

2018年10月04日 20時36分54秒 | 日記
少し前の記事になりますが9月9日午後2時から無鄰菴で行われている講座に参加しました。
今回は「植治」の屋号を持つ造園業の次期十二代目に決まっている小川勝章さんが講師を務められました。
進行役は菅沢 茂さんです。







京都好き、庭園好きの方なら「植治」と言えば、七代目小川治兵衛を思い浮かべる事でしょう。
明治23年には琵琶湖疏水が竣工し、南禅寺の広大な境内地は国の上地令により、その2/3が上地されました。この敷地に琵琶湖疏水からの水で大型の水車を回し、その動力を活用して、一大工業地帯とする計画でした。しかし、アメリカのアスペン水力発電所を見学した琵琶湖疏水の主任技師、田邊朔郎は、これからは水力発電の時代と、当時の京都府知事北垣邦道に進言し、その結果、南禅寺の塔頭跡の界隈は景観を保存すべく別荘地として開発されました。
その第一号が、山縣有朋の別荘の無鄰菴です。その山縣に抜擢されたのが七代目小川治兵衛です。





山縣は、今までの京都の代表的な庭園、枯山水や露地庭園ではなく、遠く借景の東山から水が流れて来て、三段の滝を落ちた水が遣水となって苑内を流れ、しかも、苑地には芝を貼った開放的な庭園を目指しました。その水を琵琶湖疏水から引いた第一号が無鄰菴です。
しかし、疏水の利用には規定があり、庭園に引く目的だけでは許可が下りず、防火用水として許可されています。
なお、本当の第一号は「植治」の邸宅のお隣の並河靖之邸です。こちらも「植治」の作庭ですが、七宝焼を製作する際に必要な工業用水として許可されています。



当時、琵琶湖疏水の完成の恩恵をフルに活用したのもまた、「植治」でした。当時から高価な貴船石や鞍馬石を使わず、琵琶湖の西岸から産出される安価な森山石を使用し、それを琵琶湖疏水で運びました。

この無鄰菴の開放的な庭園の評価が高まり、その後、財閥を中心に次々と別荘が造られました。のちに、南禅寺界隈別荘群と言われ、その多くが「植治」による作庭です。
その「植治」を抜擢した山縣の見識にも素晴らしいものがあります。

今の当主は十一代目小川治兵衛さんで御苑の西にある旧有栖川宮邸の庭園を復元されたり、新たに庭園を造られ「平成の植治の庭」と呼ばれています。また、「植治」作庭の洛翠の維持管理をされています。以前は食事を頂き、庭園を散歩することが出来たのですが、今はオーナーが日本調剤に代わり入ることが出来なくなったのが残念です。一般にも開放して欲しいものです。
庭はみんなが集い、楽しみ、育んでいくものです。