京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

紫の地に歴史の栄枯の足跡を巡る③最終

2018年10月20日 21時31分23秒 | 日記
次に紫明通、堀川通を渡り玄武神社を訪ねます。こちらは初訪問です。
その前に紫明通は、京都を「山紫水明の地」と言った事に由来します。元々は琵琶湖疎水の第二疏水分線で、蹴上から松ヶ崎・下鴨を経て賀茂川をサイホンでくぐり堀川まで繋がっていました。



その後、賀茂川以西は埋め立てられ、第二次大戦中の防火帯設置のため強制疎開が行われ紫明通となりました。
しかし、平成21年に第二疏水分線を復活させ、紫明通、堀川通を経由して今出川通から御池通の堀川の開渠部に導水し、せせらぎを復活させ、水辺空間の整備がおこなわれました。





堀川
平安京の一条通東北部には平安京以前に自然の河川が流れており、その川床を利用して平安時代に堀川を造り、これを東堀川と名付けられました。同時に西堀川(現在の紙屋川)も掘られました。東西両堀川の開削は、京都の北部の山林で伐採した平安京造営に必然な木材の運搬が目的であり、この両河川に挟まれた地域に大内裏が建設されました。

玄武神社
祭神は惟喬親王。
駒札によると元慶年間、星野茂光が惟喬親王を祭神として創建したとあります。



惟喬親王は第55代文徳天皇の皇子でしたが母の身分が低く皇太子になれませんでした。
親王には腹違いの弟、惟仁親王がいて、生母は藤原良房の娘、明子(あきらけいこ)で生後9か月で皇太子になりました。
父、文徳天皇が崩御した時はまだ9歳でしたが天皇に即位しています。





父、文徳天皇は惟喬親王を深く愛し、天皇位を継がせたかったのですが藤原氏の勢力に従わざるを得ませんでした。



失意の惟喬親王は晩年出家し、比叡山の西麓小野に隠棲しました。「伊勢物語」に冬の雪深い小野の地に在原業平が惟喬親王に逢いにやってきて歌を詠んだことが書かれています。

忘れては夢かとぞ思ふ 思ひきや
雪ふみわけて 君を見むとは
(古今和歌集十八巻)

最後の目的地の大徳寺塔頭 雲林院です。
雲林院
天長年間(824〜834)、淳和天皇が紫野に造営された離宮・紫野院の跡地です。





淳和天皇はたびたび紫野院に行幸し、釣殿を見物、雅楽の演奏、文人に作詞等をさせました。
天長9年(832)には皇后正子が行啓し、周辺で耕作する様子を見物。
淳和天皇が退位され上皇となった後に仁明天皇のなり、その後に仁明天皇の第七皇子の常康親王に伝領されました。





仁明天皇の崩御後、常康親王は出家し雲林院に隠棲しました。貞観11年(869)親王没後に遍昭僧正に付託されました。
遍昭は、仁和2年(886)に毎年3月21日に仁明天皇の忌日に金戒明経を転読する勅許を得て、花山元慶寺の別院としました。
遍昭亡き後、子の素性法師が住みました。
釣殿は930年に廃絶。村上天皇の御願により多宝塔が応和3年に落慶し興隆しましたが、中世以降、寺運は衰微し、後醍醐天皇の御代に寺地は大徳寺に施入され、消滅するに至ります。

往事の雲林院は4町四方の寺領を有し、桜や紅葉の名所として知られていました。
中世には謡曲「雲林院」の題材にもなり、また、源氏物語の「賢木」の巻や「大鏡」にも登場しています。

少しレアな内容になりましたが、それぞれの神社、寺社には様々な紆余曲折な歴史があり今日まで存続している事を学びました。

都草 歴史探訪会西部会の皆様、お疲れ様でした。

法然院塔頭 金毛院(浄土宗寺院大公開)

2018年10月20日 20時48分04秒 | 日記
10月17日は、法然院塔頭 金毛院が浄土宗寺院大公開でこの日だけ公開されました。事前予約制で1日3回、各回20名限定でした。
都草の歴史探訪会が13時からなのでその前に10時からの拝観をお願いした次第です。





小さな門の入口からして苔むした参道に飛び石が打たれており、露地庭園の雰囲気が満載です。
玄関で記帳し本堂に案内されます。まずは各自、ご本尊の阿弥陀如来様にお参りをし、ご住職による曼荼羅の絵解きがありました。







その後、お茶室に通されお薄の接待がありました。四畳半の本格的なお茶室で、お軸を初めお道具も立派なものばかりでした。







ご住職のお点前も素晴らしく、袱紗の使い方や清める所作の説明もして下さりました。
その後は自由にお庭も回って下さい。とおっしゃって下さり雪駄をお借りして美しい露地庭園を拝見しました。









この様な機会を与えてくださった、ご住職、奥様に感謝申し上げます。ありがとうございました。

大徳寺 瑞峯院

2018年10月20日 00時41分35秒 | 日記
9月17日は、東林院を拝観するまでの時間を利用して瑞峯院を訪ねました。





大徳寺で通常公開されている3つの塔頭のひとつです。瑞峯院は室町時代の九州豊後の守護大名で洗礼を受けキリシタン大名として有名な大友宗麟公の創建です。
方丈は禅宗の典型的な建物で、室中には開祖の大満国師の木像を安置、方丈正面の、瑞峯院の額は後奈良天皇の宸翰です。





方丈前の庭園は独坐庭と名付けられており、寺号の瑞峯をテーマにした蓬莱山式庭園です。右側の立石と苔からなる蓬莱山の険しい山岳、そこから延びる半島を表しています。





海を表す白砂の砂紋が深く感じられます。それだけ蓬莱山周りの海の荒々しさを表しています。
仙人が住み、不老不死の妙薬があると言われる蓬莱山、そう易々ては辿りつけない様も表していると感じました。作庭は名作庭家、重森三玲です。

大徳寺は千利休が帰依したお寺だけに、それぞれの塔頭には複数の茶室があります。「大徳寺の茶面」と言われる由縁です。

こちら瑞峯院にも3つの茶室があり、通常公開されているのは安勝軒です。





表千家惺斎宗匠好みの茶室で、大徳寺山内唯一の、逆勝手席です。

方丈裏側の庭園は閑眠庭と言われています。
開基の大友宗麟公が、晩年キリスト教を保護し、宣教師フランシスコ・ザビエルに洗礼を受けたりキリシタン大名であることから中庭にあるキリシタン灯籠を中心に、七個の石組みで十字架を表しています。





また、庫裏と方丈の間にある坪庭もシンプルですが禅寺らしい、いい庭です。