京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

紫の地に歴史の栄枯の足跡を巡る

2018年10月17日 22時27分13秒 | 日記
今日、10月17日は、僕が所属する都草の歴史探訪会に参加しました。



まずは興聖寺です。慶長8年(1603)古田織部正重然(しげなり)が、自分自身の余生を送るつもりで創建した臨済宗興聖寺派の本山で、のちに後水尾天皇の勅願所ともなった寺院で通称おりべ寺とも呼ばれています。





古田織部は、江戸時代初期の慶長年間に活躍した我が国を代表する茶人であり芸術家です。
利休の弟子の七哲のひとりで、利休が秀吉の勘気に触れ堺で蟄居を命じられた折、伏見の港まで赴き、細川忠興とふたりで利休を見送っています。他の弟子達は秀吉の目を恐れ、見送りには来ていません。

徳川の世になっても秀忠に茶の湯を指南し、その権威は頂点に達します。しかし、大坂夏の陣の折、豊臣恩顧の大名であった織部は内通を疑われ、これを基に大坂城落城の6月、伏見屋敷で切腹を命じられました。享年73歳でした。

墓は、ここ興聖寺の墓地にあります。









織部の墓にふさわしく花入れは織部焼です。

また、墓地には江戸時代中期から後期に活躍した曽我そう白の墓もあります。





百万遍知恩寺所蔵の奇怪な人物画「蝦蟇鉄拐図」などを参考にしながら狂人の表情、獣の手足、乞食の衣を着けた人物群像を作り出しました。画風は奇妙で大胆、グロテスクと評され、荒々しい筆使いと極彩色の作品が特徴的です。
しかし、そう白は「異端」「狂気」の画家として位置づけられ、京都では疎外されていました。
しかし、明治に来日したフェノロサとビゲローによって作品が評価、収集され、ボストン美術館にその多くが収蔵されています。

また、本堂前にある涅槃堂の天井には花の格天井画「四季花卉図」が描かれています。







こちらの花卉図は都草の会員の山本喜康さんが興聖寺開山四百年を記念して平成15年(2003)に描かれ奉納されたものです。山本さんは手描友禅の画工を道一筋に歩まれた方で格天井40面には四季の花々をそれぞれ十点ずつ描かれており、配置も古代思想に基づく五行哲理から「四神相応」に習い、北側を冬に、東側を春に、南側を夏に、西側を秋に配置されています。画材は、退色、剥落しないアクリル顔料が使われています。

こんな凄い方もおられるんですね。都草 恐るべしです。

興聖寺さんは先代のご住職が門戸を開けられなかったので拝観が叶いませんでしたが最近に代わられ40代のご住職が職に就かれ、早朝座禅会や達磨忌などで一般の方々も受け入れられるようになってきました。また、インスタグラムでも情報を発信されています。僕も時折、コメントをさせて頂いています。



本堂の裏手には藤袴が咲いており、珍しく地植えされていました。







歴史探訪はまだ続きますが、続編は後日に書きたいと思います。