京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

紫の地に歴史の栄枯の足跡を巡る②

2018年10月19日 08時58分15秒 | 日記
前回のブログで興聖寺まで来ました。次に堀川通りを渡り向かいにある水火天満宮を訪ねます。
普通、天満宮と言えば菅原道真公が立ち寄られた跡地にありますが、水火天満宮のご由緒は少し違います。





第60代醍醐天皇は都の水害・火災を鎮める為に尊意僧正に祈祷を命じられました。僧正は比叡山を下り御所に向かう途中に鴨川の氾濫にあいました。僧正は数珠をひともみ天に向かいて神剣をかざして祈ると水面が真っ二つに分かれ水流の間から石が現れ、その上に道真公の神霊が現れ、やがて昇天し雲の中へと消えて雷雨が止みました。この石を僧正が持ち帰り供養し登天石と名付けました。







次に大応寺・織部稲荷神社です。
大応寺は天正14年(1586)に興聖寺の虚応円耳(きいんえんに)和尚が、悲田院の東山泉涌寺移転に際し、その旧地に創建された現在は臨済宗相国寺派のお寺です。ご本尊は釈迦如来、脇侍に迦葉・阿難尊者がお祀りされています。また、後花園天皇の念持仏と伝わる観音菩薩像をお祀りされています。
境内の織部稲荷の神社は、古田織部が伏見稲荷から勧請したもので開運福徳、織物技術上達の神として信仰されています。



上は後花園天皇火葬塚です。
それまで、御寺泉涌寺で葬礼が行われていましたが、応仁の乱で破壊されていたため、その遺骸はこの悲田院で火葬されたとの記録が残っています。今は宮内庁が管理されているので近くまでは行けません。

妙覚寺墓地
境内から離れたところにあります。
味方但馬守家重
江戸時代前期に佐渡金山で活躍した著名な山師です。家重は日蓮宗に帰依し、京都妙覚寺をはじめ、佐渡のほとんどの日蓮宗寺院の伽藍の整備を助力しました。



楽家
楽焼は桃山時代、初代長次郎によって始められました。楽焼の技術のルーツは中国明時代の三漢陶で長次郎の父にあたる唐人・阿米也が中国から三綾陶の技術を伝えたと言われています。楽家は秀吉の聚楽第近くに居を構えていたた、この地から聚楽土が取れる、長次郎の楽焼が利休により世に出たことから「聚楽焼き茶碗」と呼ばれるようになりました。その一字から楽焼と呼ばれています。



狩野家累代の墓
狩野一門は、血縁関係を中心とした画家集団で約4世紀にわたって日本の画壇に君臨した家です。
足利幕府の御用絵師となった初代狩野正信、嫡男・元信、その子松栄、その子永徳が活躍しました。
やがて江戸幕府と共に江戸に移り江戸城の障壁画は永徳が指揮して製作されました。
京都に残った狩野派は京狩野と呼ばれて初代は三楽です。



玄武神社
駒札によると元慶年間、星野茂光が惟喬親王を祭神に創建したとあります。
惟喬親王は第55代文徳天皇の皇子でしたが母の位が低く皇太子になれませんでした。親王には腹違いの弟、惟仁親王がいました。生母は藤原良房の娘、明子(あきらけいこ)で、生後9か月で皇太子になり、父、文徳天皇が崩御した時はまだ9才でしたが天皇に即位しています。
父、文徳帝は惟喬親王に皇位を継がせたかったようですが藤原氏の勢力に従わざる得ませんでした。
親王は、晩年出家し、比叡山西麓の小野の地に隠棲しました。
伊勢物語には冬の雪深い小野の地に在原業平が訪れ、歌を詠んだことが書かれています。

忘れては夢かとぞ思ふ 思ひきや
雪ふみわけて 君を見むとは
(古今和歌集巻十八)