京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

海龍王寺 十一面観音立像

2024年01月11日 06時56分00秒 | 日記
 昨年11月11日、法華寺を後にし次に拝観したのが海龍王寺です。







和銅3年(710)の平城遷都の際、藤原不比等は土師(はじ)氏から土地を譲り受け、邸宅を構えた際、北東隅にあった寺院は壊さずに残しました。この寺院が海龍王寺の前身です。
不比等の没後、娘の光明皇后が相続し、邸宅は皇后宮となります。皇后は遣唐留学僧・玄昉(げんぼう)が仏法をたずさえ無事に帰国することを願い、寺院の伽藍を整備しました。
天平7年(734)に玄昉が帰国すると、聖武天皇・光明皇后は最新の仏教や鎮護国家の基礎となる仏教政策を学んだ玄昉を重用し、内裏に近いこの寺院の住持に任じます。
玄昉が唐からの帰路、暴風雨に遭遇するも『海龍王経』を唱え無事に帰国を果したことにちなんで、寺号が海龍王寺と定められました。







かっては大寺院であったにも関わらず築地塀などが土塀のままだったりと、創建当時のままか?と思う侘びた風情がが奈良大和路の魅力です。

奈良大和路をこよなく愛した写真家・故入江泰吉さんのお気持ちが少しは分かった気になります。


玄昉は唐の都にならい、海龍王寺を「平城宮内道場」と定めて宮中の仏堂とし、伽藍を拡充し経典を充実させていきます。聖武天皇や光明皇后、天皇の生母・藤原宮子らのために祈願・祈祷を行い、宮廷寺院として天皇家を支えました。
玄昉は般若心経の流布や講釈にも熱心で、般若心経の写経も盛んに行われました。皇后宮の北東隅にあったため古くは隅寺(すみでら)とも呼ばれたことから、「隅寺心経」と称される般若心経の写経が今も残されており、般若心経写経の原本として大切に保管されています





海龍王寺のご本尊で、光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造立されました。(重文)

海龍王寺のご本尊である十一面観音菩薩立像は通常戸帳越しの公開で、毎年3月下旬~4月上旬、5月上旬、10月下旬~11月上旬の特別開帳等でのみ開帳されます。

思わず見惚れてしまうくらいに美しい観音さまで近くで拝めるだけでも値打ちがあります。





西金堂(奈良時代・重文)のお堂の中には、国宝の五重小塔が安置されています。

創建当時から西金堂内に安置されており、細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られていることから、天平時代の建築技法を現在に伝え、塔の建築様式の発展をたどる上にも重要であること。建造物としての五重塔はこれ一基しか存在していないので、これらの点からこの小塔の価値が高く、昭和26年6月9日、国宝18号として指定を受けています。





一切経蔵(鎌倉時代・重文)

正応元年(1288)に建立。
室町時代と江戸時代寛永7年(1630)に修理の記録が残っています。

経典や文書が保管される為に高床式になっています。


毘沙門天像(平安時代末期〜室町時代初期)


不動明王像


愛全明王像(室町時代)



文殊菩薩立像(鎌倉時代・重文)

仏舎利塔(鎌倉時代・重文)


寺門勅額(奈良時代・重文'

多くの寺宝を所蔵されている歴史ある寺院です。



仏像や寺宝の写真は海龍王寺HPからお借りしました。
また、寺宝の多くは通常は非公開です。


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