詩仙堂は代々徳川家譜代の臣であった石川丈山が隠居後、三十余年を過ごした所です。
もう少し早ければ、玄関横の霧島つつじが綺麗だった事でしょう。
もう少し早ければ、玄関横の霧島つつじが綺麗だった事でしょう。
丈山は16歳で徳川家康に仕え、数々の武功を立てましたが、33歳時の大坂夏の陣を最後に徳川家を離れ、59歳の時(寛永18年・1941年)に詩仙堂を造営しています。
今は室内に展示されている扁額「凹凸家(おうとつか)」が正式な名称です。
"どこぼこした土地に建てた住居"と言う意味だそうです。
中国の有名な詩家三十六人の肖像画を狩野探幽に描かせて一室の四方に掲げた"詩仙の間"が中心となっている事から「詩仙堂」の通称名で呼ばれる事が一般的になっています。
5月のさつき、秋の紅葉は素晴らしいものがあります。
今では日本庭園の定番となっている"鹿おどし"は丈山が考案したそうです。
室内は質素ながら丈山の美的感覚が遺憾なん発揮されています。
それもそのはず、藤原惺窩から朱子学を学び隷書や漢詩、文人茶の大家と呼ばれるまでになっています。
丈山の美的センスは庭園の隅々にまで行き届いています。
寛文12年(1672)、90歳で天寿を全うした石川丈山、、、詩仙堂を建てた後半の隠遁生活は満足な半生であった事でしょう。