京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

桂小五郎と幾松ゆかりの京都を巡る

2019年09月26日 09時24分17秒 | 日記
さて、桂小五郎と幾松が駆け抜けた幕末の京都ウォークです。





⑴ 梁川星厳寓居跡碑





ちょうど鴨川を挟んで頼山陽の山紫水明処の向かいにあります。「日本の李白」とまで言われた詩人で尊王攘夷論者でもありました。

⑵頼山陽寓居跡 山紫水明処
文政11年(1828)に建てられた頼山陽の住居。今も大切に保存され、事前申し込みで見学できます。
今回は見学していません。





⑶三本木花街 吉田屋跡碑と京都法政学校設立碑





三本木には幕末期に10軒ほどの料亭があり、その一軒 吉田屋は尊王攘夷派が密議に使う料亭でした。坂本龍馬と中岡慎太郎が仲介した薩土同盟はここで結ばれました。

同じ地に京都法政学校設立碑があります。明治2年、西園寺公望が自宅で開いた私塾が後の「立命館」です。

⑷女紅場跡碑





明治5年(1872)に華族や士族の子女の教育のために設立された女学校で、英語や機織、礼儀作法などを教えていました。現在、京都御所東にある京都府立鴨沂高校の前身です。

⑸木戸孝允別邸跡碑







五摂家筆頭の近衛家の「河原御殿」を譲り受け別邸にしていました。



明治10年(1877)5月14日、病院療養中の木戸孝允を明治天皇が見舞いに来られましたが、同月26日に亡くなっています。

⑹木戸孝允 臨終の家







京都御苑に残る九条家の茶室"拾翠亭"に通じる趣きある建物で江戸時代後期の建物と推定されているそうです。

⑺木戸孝允の子・中太郎 達磨堂







木戸中太郎は孝允の養子で東京帝国大学卒業、南満州鉄道が経営する鉄鉱山の地質学研究所に所属していた有能な地質学者でした。
堂内には凄い数の達磨が収集されており、煉瓦や窓の形まで"起き上がり達磨"の凝りようです。

⑻舎密局跡(せいみきょくあと)・明石博高(あかし ひろあきら)





明治政府が設置した理化学研究所。明石は舎密局存続の為に、私財まで投げ売り尽力した医師。

⑼長州藩士 久坂玄端が謹慎した法雲寺







⑽京都での天誅事件第一号 島田左近遭難の地(善導寺)







島田左近は九条家の諸太夫。条約勅許問題、将軍継嗣問題、安政の大獄、皇女和宮降嫁で暗躍し、幕府から賄賂1万両(現在で、約3億円)を受け取り当時「今太閤」と呼ばれていました。

(11)山縣有朋 第二無鄰菴







この地は、江戸時代後期の豪商 角倉了以の邸宅跡でその後に数人オーナーが代わり、明治になって元老 山縣有朋が別邸を構えました。庭園は七代目小川治兵衛の作庭です。



すぐに斜め向かいには山縣有朋の庭園造りのライバル伊集院兼常の廣誠院があります。

今回、知らなかった所、気付かなかった所を巡り、大変に有意義な歴史ウォークでした。