京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

上木屋町 桂小五郎(木戸孝允)ゆかりの「料理旅館・幾松」

2019年09月23日 13時05分34秒 | 日記
9月21日土曜日は、朝日カルチャーセンター中之島教室の公開講座「桂小五郎と幾松ゆかりの京都を巡る」に参加しました。









午前中は幕末から明治維新ゆかりの地を巡ります。講師は霊山歴史館で学芸課長をされている木村武仁さんです。幕末から明治維新への激動の時代、最も詳しい先生です。



幾松の本館は築200年を超える建物で幕末の状態をよく留めており二棟が国の登録有形文化財に指定されています。ますは「幾松の間」に通され、久保専務より詳しい解説がありました。





当時、天井は釣り天井になっており合わせて750k gもの石が載せられ床の間の綱を引くと天井が落下する仕掛けが施されていたそうです。



写真は、新選組が踏み込んで来た時に桂小五郎が身を隠した長持です。その時、幾松はいつもと変わりなく三味線を弾いていて、新選組局長 近藤勇がこの長持を開けるように指示したそうです。幾松は「もし、中に誰もいなかったら、この場で切腹して下さい」と言ったそうで、その度胸に心打たれた近藤は長持を開けることなくその場を立ち去ったと言われています。











リアルなお話しを聞いていると、幕末にタイムスリップしたような感覚に陥りますね。

久保専務の解説の後、部屋を換えて会席料理を頂きました。















ウォーキングの内容は後日に書きたいと思っています。

白州正子が愛した十一面観音像を求めて④高穴穂神社

2019年09月23日 06時44分45秒 | 日記
今日9月19日は「白州正子が愛した十一面観音像を求めて」の第二回目「大津京ゆかりの観音像を訪ねて」です。

午前10時にJR湖西線唐崎駅に集合です。





大津には、天智天皇の御代、都が置かれましたが天皇の死後に天智天皇の子、大友皇子と弟、大海人皇子との間で天皇継嗣を巡る壬申の乱が起こり、大津京はわずか数年の都になってしまいました。

まず向かったのが高穴穂神社です。





境内の後方には高さ3mあまりの"高穴穂宮跡"の石碑が建っています。揮毫は元帥伯爵 東郷平八郎です。



「古事記」や「日本書記」には景行天皇、成務天皇、仲哀天皇の御代に都が置かれたとの記述がありますが、考古学的な宮殿跡の遺構は発見されておらず神話、伝承の生きを出ないものと思われます。







しかし、この穴太の地は古くから渡来人(?)により開かれた土地で山手には多くの古墳群があり、5世紀中期の竪穴式住居跡や6世紀末期の掘立柱の建物跡、礎石、白鳳時代の瓦の破片が出土しており、全くの伝承の地ではないように思われ、朝廷と深い関わりがある土地である事は間違いのない事と思われます。

次に平安時代初期の美しい十一面観音像が残る盛安寺へと向かいます。