昨日は、39回目の結婚記念日(昭和の日)。
昭和、平成、令和と共に歩むことができ感謝。
一日一日を大切に歩むのみ。
光は・・・暗黒の中にもあらわれる。主は恵み深く・・・。詩篇一一二4
暗い雲に覆いつくされる時、その周りには約束された愛があると知っていることは、わたしにとって慰めとなります。 現在の試練は必要な試練であり、今隠されていることはやがてすべてが明らかにされるという祝福に満ちた約束を信じることができるからです。 どんなに暗く寂しい道でも、導き手である羊飼いの後を喜んでついていくことができますように。 そして悲しみが増し加わっていく中でも、神を十分に信頼できる信仰が与えられますように。 理解に苦しむ神の摂理のただ中にあってもなお、つぶやきを止めて、へりくだって「神は成してくださる」と言うことができるでしょう。J・R・マクダフ博士
カウマン夫人著 「慰めの泉」より
最近、家内の生け花の材料を庭や公園で採取。 あらたまって花や木を見ると皆それぞれ素晴らしい。
神様は色々な花をもって地をかざり
私たちの憂いを慰めてくださる
この世で一番幸福な者はだれか
それは一輪の花にさえ 多くの教えを学び
いつもその心に喜びと
感謝の思いを持っているものである。(英国の詩人ワーズワース)
どんなに正しい言葉も、
愛がないなら間違っています。
人を傷つけることは、 どんな理由があっても許されないからです。
正しい言葉は、
相手への思いやりを込めて語るとき、
初めて本当に正しくなるのです。
片柳弘史著 「こころの深呼吸 気づきと癒しの言葉366」より
自分の欠点を素直に認められる人は、
それを直して成長できます。
相手の優れたところを
素直に認められる人は、 相手から学んで成長できます。
成長するために大切なのは、 こだわりのない素直な心です。
片柳弘史著 「こころの深呼吸 気づきと癒しの言葉366」より
「自分は特別な存在だ」と信じるのは、
とても大切なこと。
ですが、自分の目の前の人も、
すぐ横の人も、 同じくらい特別な存在だということを、
忘れないようにしましょう。
片柳弘史著 「こころの深呼吸 気づきと癒しの言葉366」より
幸福に至る道とは何でしょう。それは神に対する完全な献身です。 絶え間なくあなたの意志のすべてを神の御旨にゆだねることです。 これがすべてのの幸福の基礎です。
自分の意志を完全に神の御旨にゆだね、絶えず新たにそうする者は、わがままがもたらす深い悩みや重苦しい思い煩いから解放されます。 その代わりに神の御旨、すなわち最善の愛の御旨に従うという平安を与えられます。 この平安こそ人を幸福にするものです。
M・バジレア・シュリンク著 「愛のまなざし 神の子の日ごとのよりどころ」より
『知恵ある人の舌は人をいやす』(箴言一二・一三ー二二)
医者はしばしば私たちの舌の様子を見て、容態を判断する。 もっと深刻な他の意味において、舌はまた私たちの品性のありさまを表示するものである。 私たちの発することばは、すなわち私たちの道徳的、霊的健康状態を知るのにもっとも完全な索引である。 もしそのことばが不潔で、不誠実なものであるならば、その魂も確かに病みわずらっているのである。 毒舌は聖別された心とは氷炭あい容れないものである。 それゆえ、誰でも自分の生活について臨床診断を試みることができる。 「私の談話の内容はなんであるか」「私のことばは何を示しているのであるか」 「これらは、魂のどん底、その背景に対して何を暗示しているか」と。 「あなたのことばによって義とされ、あなたのことばによって罪とされる」のである。
神は真実な唇を喜ばれる。正しいことばは生命の木の実である。 私たちが極力偽善を忌み嫌い、物質的腐敗から離れるとき、主は私たちを虚偽から救い出して下さるのである。
それはただ神の聖い祭壇に燃える焔をもって潔められた唇のみが、神を喜ばすことばを発することができるのである。
わたしの唇を聖め別って主のために み業を語るものとしてください
ジョウェット著 「日々の霊想」より
聖書の中では、しばしば人生のはかなさを草になぞらえています。 そして草は普通つかのまのものです。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る」(第一ペテロ一・二四) 栽培されている花壇のいちばん美しい花も、ジャングルの中のありふれた雑草と同じように、枯れていくのです。 王子も乞食も、哲学者も文盲も、野蛮人も文明人も、しばらくの間生きると、必ずもとのちりに返って行くのです。
人間は、自分が死に、人生には終わりがあるものだということを、非常に気にしています。 ですから、福音の使信は、キリストにある新しい命――――消え去ることのない命――――の奇跡に焦点をしぼっているのです。 「御子を持つ者はいのちを持っており、御子を持たない者はいのちを持っていません」(第一ヨハネ五・一二)。
ポールB.スミス著 山口昇訳 日ごとの福音より
死はすべての人に等しく及びます。 私たちは生まれるとき平等に生まれてこず、また生活もけっして平等ではありません。 ある人々は一生美貌を保ち、他の人々は醜さと戦っています。 富める人は、貧しい人が得ることができない特権を、金で買うことができます。
ラザロは食卓から落ちるパンくずを求めていましたが、金持ちはぜいたくな食事をしていました。 生きている間、金持ちには多くの利点があります。 しかし、富も、地位も、力も、死の時には役に立ちません。 最後の敵である死は、ついに彼とラザロとを平等にしました。
聖書は、こう言っています。 「わたしたちはみな死ななければなりません。地にこぼれた水の再び集めることのできないのと同じです。 神はかたより見ることのできないのと同じです。神はかたより見ることのないかたです」(サムエル下一四・一四英訳) 。
生きるために準備することは、よいことです。しかし、死ぬために準備することは絶対に必要です。
ポールB.スミス著 山口昇訳 日ごとの福音より
人生のほとんどのことは、必然的なものではありません。 私たちはこれらのことに対して決断する特権を持っています。 実業家になることも、専門家になることも、看護婦になることも、家庭の主婦になることもできます。 結婚することも、独身のままでいることもできます。これらのことは自由に選択できます。
聖書は、私たちすべての者が神に対して守らなければならない、避けることのできない約束があると言ってます。 それは、さばきです。「一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル九・二七)。
私たちすべてが死に直面しなければならないように、私たちすべてはさばきにあわなければなりません。ですから、私たちがキリストによって備えられた神の救いを受け入れることは、きわめて重要なのです。 そして、救いを受け入れるなら、神の御子による義を与えられるのです。 この義のみが、神の御前に立つことができるのです。
ポールB.スミス著 山口昇訳 日ごとの福音より
わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。テサロニケの信徒への手紙二、三章二節
理性と意志の力で悪を避ける、ということもあるでしよう。しかし、すべての悪を、というわけにはいきません。 ちょうど空気の悪いところで呼吸ができなくなるように、理性も意思の力もマヒしてしまう地点があります。 そのとき人間は、羅針盤を失った船のようにただよい始めます。 船の外からの風が――――祈りが船を方向づけるということが起こります。 「祈っていただく」そのことなしにだれも、使徒さえも、信仰の道を歩むことはできません。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
子供というものは、大人にできることができません。 子供は大人の助けに頼り、それを当然のように期待しています。 同様に子供は大人によってあちこちへ行かされ、大人の意のままに動かされます。 子供はとがめられ、罰を受けます。このような特徴を備えた神の子らも、天の父が貧しい者や小さな者に約束されたことを体験するでしょう。 それは御父の配慮、助けと奇跡です。
M・バジレア・シュリンク著 「愛のまなざし 神の子の日ごとのよりどころ」より
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。ペテロの手紙一、二章二節
乳飲み子が母乳を飲む。その一途な姿には心うつものがあります。 生きるための切実な求め、そして信頼と安らぎ。
信仰もそうであります。霊の乳を慕い求めることによって生きるのです。 どんなに深い思索をしても、経験を積み重ねても、そんなことで信仰者は命を得ることはできません。 乳
飲み子のように神の言を飲まなければ。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より