多くの人はこのことばに反発し、キリスト教は独断的だ、狭いと、と非難します。
聖書を読むと、同じような、独断的で狭いことばが次から次へと出てきます。
「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒四12)・・・・・
しかし、最初から拒絶反応をむき出しにしないで、イエス・キリストという御方にいよいよ近づいてほしいと思うのです。
もし神が、イエス・キリストによって、まったき救い、新しい永遠のいのち、明るく愛に満ち、喜びあふれた平安な人生を提供していて下さるとするなら、
キリストを拒絶して他の方法を捜そうとすることは正しく賢明なことでしょうか。
それは、たとえていうなら、目の前に癌の特効薬が差し出されているのに、他のものすべてを試してみてからでないとといって、いろいろ試しているようなものです。
そんなことをしているうちに手遅れになってしまったらどうしますか。・・・・・
神がイエス・キリストにおいて、ここに道がある、真理がある、いのちがある、と差し出しておられるなら、まず素直に受け取ってみる方が賢いのではないでしょうか。
福音書・霊想 みことばの泉 羽鳥明著より