朝から雨模様、ただいま梅雨真っ只中。 今日で上半期終り。無事に過ごせて感謝。
あなたがたの目は見ているから幸いだ。マタイによる福音書一三章一六節
見えるのは、さえぎるものがないから見えるのです。 見えないのは、さえぎるものがあるから見えないのです。
知識や経験が足りないから真実が見えないのではありません。 そういうものがさえぎって真実を見えなくしているのであります。 神の御霊は、くり返し私たちの目から、うろこをとり去り、「裸眼」にしてくれるのであります。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。ルカによる福音書一二章七節
自分のことを知られるのはいやなことであります。 髪の毛の「一本残らず」なんて耐えられないことであります。 しかし神はそこまでわたしたちを知られます。自分で知らない部分まで。 わたしたちを愛してくださるからであります。 わたしたちは神の愛によってこそ最も深く知られています。
だから、恐れなくていいのです。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
私たちの社会は、前進したいなら、上に向かって進まねばならないという示唆に満ちています。 頂点を極める、脚光を浴びる、記録を破る。これらは人々の注目を集め、新聞の一面を飾り、金と名声という報酬を私たちに与えてくれます。
イエスの生き方は根本的に違っていました。それは上に向かって行くのではなく、下へ向かって行くものでした。 底辺を目指し、舞台セットの後ろに隠れ、一番最後の場所を選び続けることでした。 イエスの生き方は、なぜ選ぶに値するでしょうか。 イエスがとったのは、み国に到る道であり、永遠のいのちに到るる道だからです。
ヘンリ・J・M・ナウマン著 「今日のパン、明日の糧」より
主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。 マラキ一2
主はその愛する者を、しばしば鍛えて下さる。 あらゆる頑ななものを軟らげて下さるとは 何と慰めに満ちた御配慮であろうか 疑惑だらけの心が静められるのだ 「なぜ、かくも残酷な事がこの身に降りかかって来たのだろうか?」 神は直ちに答え給う、「わたしはお前を愛している」とただそれだけ
神はその愛する者のために、万事を益として下さるのだ この聖書の御言葉は、木陰のように 深い悲しみでまさに破れんむとする痛む心を覆ってくださる 「なぜ、突然、この歓迎されない深い悲しみがやって来たのだろう?」 神はやさしく答え給う、「わたしはお前を愛している」とただそれだけ
主はその愛する者に、主の鞭を加えられる 水気のない雑草に雨が降り注ぐように この御言葉は、神の溶鉱炉が渇いた魂に、感化を与えるのだ 「なぜ、ぞっとするようなこんな悩みが、いろいろと私の所に降りかかって来たのだろう?」 神はやさしく答え給う、「わたしはお前を愛しているよ」とただそれだけ
私たちは苦しみます。しかし、苦しみの目的が私たちの上に達成されることを許そうとしないのです。 主よ、私たちの十字架が、私たちの益とならないような、あの無感覚な状態に陥らないよう助け給え。
カウマン夫人著 「日の出に向かって」より
神が与えられる最大の贈り物とは何でしょう。御自身と、まさに御自身そのものである愛です。 神はこの愛を独り占めなさらず、私たちにも分け与えようとしておられます。 そのために神はイエスを遣わされ、愛そのものであられるイエスは人となって、愛することができるように私たちを贖い、愛をこの世に持って来られました。
恵みの源である神の心から愛を汲み取れば、私たちは愛という地上と永遠に及ぶ最大の幸福を獲得します。 愛することほど私たちを幸福にしてくれるものはありません。
M・バジレア・シュリンク著 「愛のまなざし 神の子の日ごとのよりどころ」より
光は明るい。 どんな小さな 光であっても 暗い夜には 必要なもの。
陰ひなたなく こつこつ働き 正直、忠誠 真面目な人の 人格の光
神を信じて 明るい心で 家庭に、社会に 光をもたらす 人になりたい。
汝らは世の 光なりと 光の主イエス キリストは 申された。
中山吾一著 「一日一詩 永遠の旅」より
求めなさい。そうすれば、与えられる。 探しなさい。そうすれば、 見つかる。 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。マタイによる福音書七章七節
これは驚くべき言葉です。わたしたちの命はこの世に投げ出されているのではないというのです。 わたしたちの声は虚空に消えていくのではないというのです。 声を聞いてくださる方がいる。こたえてくださる方がいる。 わたしたちの命に責任をもって応答してくださる方がいる。そういうのです。
求め、探し、門をたたきながら(そうしないでは一日も生きていけない人生です)ーーーこたえていただきながら、人の命は育まれます。
見えざる神とのたえざる「応答」の中で、人は人にされていきます。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、 神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。マタイによる福音書六章三〇節
明日は炉に投げ込まれる野の花も、今日ただいまは美しく咲いています。 明日は灰になるかもしれないけれど、今日精一杯、花を咲かせています。
「生きる」ということは与えられている今日の命を存分に生きることであります。 明日のことを思い悩んで、生かされている今日をしおれてしまってはならないのです。
まして、わたしたちの命は「明日は炉に投げ込まれる」ものではありません。 永遠に向かって、神のみ手にみちびかれている命であります。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、 九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。マタイによる福音書一八章一二節(口語訳)
神はひとりを追い求められます。 神はひとりと出会うことを求められます。数で処理されません。 ひとりひとりの存在をかけがえのないものとして受け入れてゆくこと、それが弟子たちの使命です。
全人類の救いというような抽象的なことではなく、目の前にいるひとりの魂を愛し、追い求めてゆくことの中に弟子たちの使命があります。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
お前たちの心を引き裂け。 あなたたちの神、主に立ち帰れ。ヨエル書二章一三節
主に立ち帰る、ということはどういうことでしょう。 自らの心を引き裂くことであります。 自分は正しい、まちがっていない、と言い張っているかぎり、目はくもっています。 自分の罪、あやまちを認めることができたとき、わたしたちの前に立っておられる神を見出すことができるのです。
小島誠志著 「夜も昼のように」より