人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

結婚の愛

2019年02月28日 | お気に入りの言葉

  妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。
  同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。コリントの信徒への手紙1、7章4節

 結婚とは相手にしばられることであります。
自分の体だから自分の自由、ということにはなりません。
自分のものは相手のためにもあるものであります。
 相手に対して責任がある存在となったのです。
不自由といえば不自由です。
しかしそのように互いを引き受けるということの中でのみ深められていくのが結婚の愛であります。

小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より


七度倒れても

2019年02月27日 | お気に入りの言葉

      神に従う人は七度倒れても起き上がる。箴言24章16節

 自分の力で立ちつづけようとして頑張ります。
 そして疲れ果てる。人は倒れるものだと思いたい。
 力に余るものがのしかかってきたら、倒れるのは当然だし、倒れていいのです。
 倒れたところで、主はわたしたちを受けとめ、
 もう一度起き上がらせてくださいます。
 倒れまいと頑張りすぎて、つぶれてはいけません。
 
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より


休み

2019年02月24日 | お気に入りの言葉

    疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう。マタイによる福音書11章28節

 疲れ、重荷はどこから来ているのでしょうか。人生の荷が重すぎるのでしょうか。
踏破すべき行程があまりにきついのでしょうか。それでわたしたちはこんなにあえいでいるのでしょうか。
 疲れ、重荷の核心はわたしたちの罪過であります。
正しくは罪過を抱いたまま逃走しつづけているところに人間の深い深い疲労があります。
逃げなくていいのです。すべてを注ぎ出していいのです。
そのすべてを受けとめるメシアとしてイエス・キリストはこの世に来られたのです。
 
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より


あなたの中にいる

2019年02月23日 | お気に入りの言葉

  その果てを極めたと思っても
  わたしはなお、あなたの中にいる。詩篇139篇18節

 この世の極限に立ったと思ったときにも、自分はなお、
神の手の中にあるというのです。
 人間の可能性の尽きた地点でも、人は神の可能性にとらえられていることを忘れてはなりません。
 
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より


万事を益となるようにして下さる。

2019年02月21日 | お気に入りの言葉

 

 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ書八・二八)

 

 宇宙はその細目に至るまで、神の支配したもうところのものであります。
神の許しなくしては、一羽のすずめすら地に落ちません。
また私どもの頭の毛までがみな数えられるとのことであります。
かかる世にありて、かかる神を信ずることでありますれば、
私どもは何事にかかわらず安心しておるべきであります。
私どもの兄弟が私どもに逆らって私どもを苦しめましょうが、
私どもの友が私どもを売って私どもを死地におとしいれましょうが、
私どもの事業に大妨害が起こりましょうが、これみな愛なる天の父の主宰の下に成ることでありますれば、
私どもに益なすことであって、決して害をなすことでないに相違ありません。
「万事(すべてのこと)は、神の旨によりて招(まね)かれたる神を愛する者のために、ことごとく働きて益をなす」
とは実に慰藉(いしゃ)をもって充(み)たされる言辞(ことば)であります。(信八・一九五)


 続一日一生 内村鑑三著より

 


正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

2019年02月21日 | お気に入りの言葉

「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう」(ルカ一八・二四)。
これは実際むずかしいことです。
なぜなら、物質的繁栄が、霊的貧しさを認めさせないようにしているからです。
 たぶん善良な人ほど救われるのがむずかしいでしょう。
そういう人は自分を義とし、また人間は道徳的であることによって盲目になり、自分の罪をみることができないのです。
 イエスは言われました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ九・一三)。
罪を認めるのは救いの第一歩です。
この世の人が見て善良な人が、神の御前に自分は罪人であると告白するのは、いやなことです。
 だれも、自分の人間的な義をはぎとられて、神の御前に罪人として出るまでは、救いに至るための信仰の第一歩を踏み出せないでしょう。
ポールB.スミス著 山口昇訳 日ごとの福音より


キリストとの出会い

2019年02月20日 | お気に入りの言葉

   彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った。「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト) にいま出会った。(ヨハネ一・四一)

 この世界は、人間と人間との出会いの世界である。
何千万の人の世界から一人の男と一人の女が出会って、夫とよび妻とよぶ関係が生まれたり、
友と友、師と弟子、など種々の出会いの世界が成立するが、しかし、これらの人間の出会いは、やがて別離の悲しみをになうもの、
死のワクの中の出会いにすぎないのであって、それをこえたものではない。
そこに一期一会の悲しみがある。これでは会う事は、同時に別れる事である。
真実の出会い、永遠に結合せられる出会いは、罪と死の支配をのりこえた場所において、
我らを真の生命に救いあげるものとの出会いでなければならぬ。
イエスに出会うという事は、永遠の生命の世界における出会いなのだ。

新版 日日のことば ー日本プロテスタント史上の人物によるー 満江巌編より

 


賢い人

2019年02月18日 | お気に入りの言葉

 私たちは時々、見通しがきくかどうかによって、その人が賢いかどうか判断します。
試合の最中に、その先を読んでいけるフットボールのクォーターバックの選手とか、
自分のこまを一手すすめながら、その先の三手も考える将棋の指し手、
きょうの特売品売り場の先を見通せる実業家ーーーーこれらの人々は、この世の標準によれば賢い人です。
 聖書に従えば、私たちはどこかで永遠に過ごさなければなりません。
この世のかなたに、永遠のさばきと、永遠の命があります。
 この事実を考えるときーーーーこの世の標準によってーーーーあなたはどれほど賢いでしょうか。
あなたの未来の永遠のために、十分な見通しをもって、計画を立てていますか。
 聖書はこう言っています。
「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ六・八)
ポールB.スミス著 山口昇訳 日ごとの福音より


無垢な人には無垢に

2019年02月16日 | お気に入りの言葉

     無垢な人には無垢に
     清い人には清くふるまい
     心の曲がった者には背を向けられる。詩篇18篇26、27節

 

 神のみわざは単純で澄み切っています。
曲がった心で見るときそれは見えなくなってしまいます。
単純な心で見ればよいのです。
しかし人間にはそれが一番むつかしい、考えれば考えるほど屈折してしまいます。
 祈る、ということの中でだけ人は単純にされていきます。
神のゆたかさは、単純になればなるだけ見えてくるのです。

 

 小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より

 


種に雨を与え

2019年02月16日 | お気に入りの言葉

     主は、あなたが蒔く種に雨を与えられる。
     地の生み出す穀物は豊かに実る。イザヤ書30章23節

どんなに一生懸命種を蒔いたとしても、
神が雨をくだされなければ干涸(ひから)びてしまいます。
神の手がそえられて、
人間の労苦は実を結ぶものになるのです。
がんばるだけが人生ではありません。
祈りつつ、労するのです。

 小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より


因果応報

2019年02月15日 | お気に入りの言葉

 イエス様は、「あなた がたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ七・二)と言われました。
私たちは、いつたい何を蒔いているでしょう。いずれにしても、私たちは蒔いたものを刈り取らなければなりません。M・R・ディハーン

 地上にまくものを、あなたは刈り取る。
実りは確かで、深く根を下ろしている。
言葉も行いも、
眠っているように見えるかもしれないが、
それは、やがて芽生えて、収穫をもたらす。G・ウッズ

「私たちの言葉や行いは、やがて返ってきて喜びや苦しみをもたらす。
それはあるときは、とげ矢のように、心をひっかき、あるときは、香水を振りかけられたかぐわしい花のように、心を満たす。」J・R・ミラー

M・R・ディハーン H・G・ボッシュ共著 小鮒専三訳 日ごとの糧より


共に

2019年02月14日 | お気に入りの言葉

   喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。ローマの信徒への手紙12章15節

  人はいつだってそばにいる人によって慰められるのです。
 わたしたちは人の喜怒哀楽を眺められるほど高い場所には立っていません。
 ささいなことで喜び、ささいなことで傷ついてしまうほどにもろい人間にすぎません。
 そのもろい人間が神のあわれみによってかろうじて支えられているのです。
  隣人と同じ場所にいる人間だから、神の恵みを伝えることができるのです。

 小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より