記憶しなさい。
わたしたちは試みの時よりも大きな信仰を持つことがないことを。
試験されることを忍ばないものは単なる肉的の自信である。
お天気信仰は信仰ではない。
C・H・スポルジョン
荒野の泉 カウマン夫人著より
小1の孫は、泣きだすと止まらない。
なにを言っても駄目だが、おやつをやるとか、店で何かを買ってやると言うと、泣き止む。
店で買ってやるおやつといっても100円位なものだか、それで満足する。
店でおやつを選ぶときは嬉しそう。泣き止まぬ時は、これが一番効果がある。
昨日の出来事
孫(小1と小3)を車で迎えに行った帰り、女友だち(小3)の家に用があるからちょっと寄ってくれと言うので、その子のアパートで車から降ろし駐車場で待っていた。
3~4階立てのアパートに住んでいる友だちだった。
駐車場で待っていたら、友だちも見送りに出てきた。
わざわざ階下に降りてきて見送るとは、ずいぶん丁寧な子供だと思った。
孫は車に乗り込み、友だちは、車の外で手を振る。そこでサヨナラと思い車をスタートさせると、なんとその子は手を振りながら、車と並走。
15メートル位並走。車は柵で仕切られている駐車場から道路へ出る、するとその子はなにかに飛び乗り、柵から身を乗り出し手を振りつづける。
その見送り方に感動。明日また学校で顔をあわすのに、永遠の別れのような見送り。
まず、あなたの街の、
そしてあなたの家の中の
心さびしい人を見つけてください。
何よりもあなたの周りの人たちにとって
福音となってください。
私たちは往々にして、
外ではいつもほほえんでいるのに、
家に帰ってくると、とたんに
ほほえむ時間すらなくなってしまうのです。
マザー・テレサ 日々のことばより
今日は、我が団地内にあるグループホームきらりの夏祭りに孫らと行く。
家内のボランティアグループ(ひまわり会)の演技、琴浦音頭を観賞。
赤碕音頭は、すでになくなり今は、新しくできた琴浦音頭。
神に満ちているもののすべてをもって・・・・満たされるように、と祈る。(エベソ三・一九)
神の息よ、私のもとに来て、
私の心をきよめて下さい。
神の息よ、私のもとに来て、
私をまったくあなたのものとして下さい。
私のうちにあるすべて世的なものを
あなたのきよい火で輝かして下さい。
山頂をめざして カウマン夫人著より
子どもたちに家庭で、
お互いに愛し合うことを
教えるべきだと思っています。
子どもたちは、
両親がお互いに愛し合っているのを見て、
愛するということを
自分のお父さんやお母さんから学ぶのですから。
マザー・テレサ 日々のことばより
今日は、土曜日で孫の付き合いで行くラジオ体操は休み。
学童保育(しおかぜ学級)も休みで、ノルマとなっている送迎もなし。
最近は、1~2回/日と自粛しているネット碁を4回も打つ。
わたしがあなたと共にいて、あなたを救う。
神は試みに先立って、必要な恵みを与えられることはありません。
神は私たちが河に達したとき、橋をかけられます。
私たちは他の人たちが試みの中を通され耐えているのを見ると、自分は、その恐ろしい試みの中で沈んでしまうのではないかと恐れます。
私たちは、遠くにある死の不思議さや苦しみに恐れを覚えるのです。
しかし、私たちはまだその危機に直面しているわけではありません。
恵みはそれが必要な時までは、決して与えられません。しかしイエスは、悲しみと共に来られるのです。
神は私たちを騒音から救われませんし、息子、娘たちがあれこれしてくれと言うことから逃れさせても下さいません。
私たちが神の正しい領域にとどまる限る、神は私たちの心が不満や貪欲、自己憐憫など、私たちを神の領域の外に出してしまうものに、とらわれないか見ていて下さいます。
そした、こうおっしゃいます。「私は決してあなたを離れず、あなたを捨てない」。
あなたは死がこわくなったことがありませんかと問われた時、ある老齢のクリスチャンこう答えました。
「はい、私はときどき岩の上で震えます。けれどもこの岩は、私の下で決して震えることがないのです」。
日の出に向かって カウマン夫人著より
広島市の安佐北区で土砂崩れが起きている。
このところには、仕事の関係で数回訪れたことがあり、印象深いところ。
ある時、広島市内から電車に乗り訪ねたことがある。
市内からも近く、いかにもベットタウンという感じのところ。
駅を降り坂道を登り、訪ねたことを思い出す。
あんなところを宅地にした人間の愚かさ感じる。
『万事は私たちにつげられたとおりに成って行くと、わたしは、神にかけて信じている。』使二十七ノ二十五
もしわれらの愛さらに単純なりせば
みことばによりて神をとらえ
主のうるわしさによりて
われらの生涯はことごとく輝きとなり得しものを
荒野の泉 カウマン夫人著より
ただ恵みによって
「このことをわたしは、あなたといっしょにいる間にあなたがたに話しました。」(ヨハネ一四・二五)
キリストは、十字架を前にして、弟子たちに大切なこと、信仰の奥義について話しました。
しかし、弟子たちにはその本当の意味が理解できませんでした。また、心にもとまらなかったようです。
夫婦の会話でよく、「そんなこと聞いていなかったよ」「あらいやだわ、ちやんといいましたよ」などといっているのを耳にします。
実際は聞いていたはずなのに、聞こえてなかった。聞いてもわかっていなかった。
心にとめなかったということがよくあります。
せっかくみことばを聞くチャンスに恵まれながら、なぜ聞こえていないのでしょうか。
一つの理由は、いくら話し手が熱心に語っても、聞く方が、心ここにあらず、馬耳東風で、右の耳から入って左の耳に抜けていってしまうからです。
聖書にも「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない」(使徒二八26)とあります。
イエス・キリストは種まきのたとえで、四種類の地に落ちた種のことを話しましたが、ちょうど道端に落ちた種のように、聞く耳のない者の心に落ちたみことばは、サタンが取り去ってしまうのです。
もう一つの理由は、霊のみことばは、肉の心ではわからないからです。金、金、金で凝り固まった心には、愛の施しは理解できません。
肉欲に凝り固まり、欲望の満足のみを求める人に、きよい生活の喜びを話したとしても受けつけません。
しかし、このような状態であったとしても、聖霊が働かれる時には、突然のように神がわかり、罪がわかり、救いがわかります。
罪の中に死んでいた者も、神は生かして下さるのです。
福音書・霊想 みことばの泉 羽鳥明著より
8月15日は、終戦記念日。
最近、戦争体験記を読んでいる。
その当時は、悲惨な時代。
今の時代と比べると天国と地獄。
平和な時代をすごしている我々現代人、戦争の時代をすごした人、
この違いはどこから来たものかと思う。生まれた時が良かったのか悪かったのか。