あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことに なる。ローマ信徒への手紙一二章二十節
敵を憎み、報復することで、敵はいよいよしたたかな敵になります。なぜなら、彼はさらに大きな力で報復に立ち上がるに違いないからであります。
ここでは、敵に打ち勝つ唯一の道が示されています。敵の困窮に手を差し伸べるのです。
「燃える炭火」とは敵を変える力を意味しています。
敵を敵でなくする、そういう戦いこそキリストを信じる者の闘いです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
パウロは彼を見つめ、いやされるのに ふさわしい信仰があるのを認め、 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。使徒言行録一四章九、十節
信仰とは、神を待ち望むことであります。
神は求める者に何事かをなすべく身構えておられる方だからであります。
悲しみ、嘆き、あきらめているだけの人間に対しては、神は何ひとつなし得ないのであります。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。マタイよる福音書一一章二八節
疲れ、重荷はどこから来ているのでしょうか。人生の荷が重すぎるのでしょうか。踏破すべき行程があまりにきついのでしょうか。
それでわたしたちはこんなにあえいでいるのでしょうか。
疲れ、重荷の核心はわたしたちの罪過であります。正しくは、罪過を抱いたまま逃走し続けているところに人間の深い深い疲労があります。
逃げなくていいのです。すべてを注ぎ出していいのです。
そのすべてを受け止めるメシアとして、イエス・キリストはわたしたちの前に立っておられます。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。(詩篇八八・一三)
父よ、朝ごとに目ざめさせて下さい。
私の魂をして、まずあなたの御声に
耳を傾けさせて下さい。
私の魂が地上の眠りから
立ち上がるように命じ、
聖なるあなたの御足もとにすわって
あなたに学ぶことを得させて下さい。
そこにおいて、静けさのうちに
あなたの宝を開いて下さい。
キリストの尊い事物が展開して
聖霊によって、人の思いの中に
もたらされるとき、
感謝と愛をもって
私の心を満たして下さい。
あなたのみこころを行うことを私に教え、
あなたの模範を示して下さい。
私の人生についてあなたのご目的を
日ごとに私に啓示して下さい。
そして、あなたへの奉仕のために
私に新しい油を注ぎ、
あなたのご臨在をもって
私のすべての道をきよめて下さい。
フレダ・ハンブリー・アレン
L・B・カウマン著 「山頂をめざして」より
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。
「年をとることに喜びはない」という年齢にならないうちに。コヘレトの言葉一二章一節
年を取ることの喜びは出会いが深まっていくということではないかと思います。
人との出会い、自然との出会い、一日一日との出会い。
それらすべてを備えて下さる神との出会い。
信仰がなければ、年を重ねるということは、ただ持っているものを失ってゆく過程でしかありません。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
ソフトバレー仲間の訃報。
昨秋まで元気にプレーしておられた。体格も良く、スキルも高い人だった。
しばらく姿が見えなかった、病んでおられるとは聞いていたが、胃癌だったらしい。
また癌の怖さを思い知らされる。
キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。コロサイ3:16
信仰生活にあっての苦労は、多くの場合、福音の素晴らしさを理解できていないことに原因があります。
福音は、部分的なものではありません。それは人生全体、歴史全体、全世界を含むものです。
それはまた創造から、最後の審判までについて述べています。
さらにそれは完全な、また全体的な人生の見方なのです。
そして、私たちの経験するすべてをカバーしています。
また福音は、私たの人生のすべてを監督し、すべてを支配すべきものです。
私たちに与えられている富について、もっと深く考えましょう。
あなたは、なんと大いなるお方なのでしょう。
主イエスさま、あなたが私たちを惨めな物乞いではなく、豊かな王子にするために地上に来てくださったことを、心から感謝いたします。
コーリー・テン・ブーム著 「日ごと新たに」より
人のよしあしを言いあるく者は 秘密をもらす、心の忠信なる者は事を隠す。箴言一一章一三節
人が「秘密」にしなければならないことは、たいていつらいこと、悲しいことであります。
それを話の種にするような人は信頼できません。
「中信な」人は、それを自分の心の痛みとし、祈りとするのであります。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知り ませんが、
“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。ローマの信徒への手紙八章二六節
わたしたちはいつも祈ってます。健康であるように。成功するように。人の評価を得られるように。
けれど、自分の命の救われるために、それほど切実に祈ってはいません。
だから、聖霊が言葉に表せないうめきをもって、わたしたちのために祈っていて下さるのです。
わたしたちのつたない祈りに“霊”のとりなしがともなっているゆえに、わたしたちの祈りは、少しずつ変えられ、高められていくのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
・・・失望せずに常に祈るべき・・・。ルカ18:1
心と祈りとの関係は、鳥と羽、船と帆の関係と同じです。
私たちはぶつぶつ言い、つばを飛ばす
私たちはプンプン怒りを振りまく。
私たちはモゴモゴ言い、不平をもらす
私たちの感情は傷つく。
私たちには物事が理解できない
私たちのビジョンもうまくいきそうにない。
ただ私たちに必要なのは、
神さまと共にいる時間・・・。
ありがとうございます、主よ。私たちは祈ることができます。祈らなければなりません。
コーリー・テン・ブーム著 「日ごと新たに」より
主を仰ぎ見る人は光と輝き
辱めに顔を伏せることはない。詩篇三四篇六節
主を仰ぎ見るのは助けを求めるためであります。
彼が何をしたというわけではありません。
何もできないから、神を仰ぎつづけてきた、ただそれだけであります。
不思議なことです。 人はそんなふうにして輝くのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなた がたの求めるところを神に申し上げるがよい。 ピリピ四・六
「何事も思い煩ってはならない」と使徒パウロは言っております。
私たちを、この上なくみじめにするものの一つは、思い煩いでありますから、思い煩うことがなかったら、私たちの生活は、実に楽しいものとなるでしょう。
思い煩いとは、何でしようか。
それは、私たちがまだ経験しない事、現在実現しかかっているか、あるいは実現するだろうと予想してる事に対していだく不安であります。
私たちは、不安な思いでかってに色どった事柄を、想像たくましくして、いかにも実現したかのようにハッキリと心に描きあげて、
すっかりその気持ちになってしまうものです。しかし、その事が実際になってあらわれた時には、私たが想像していたほど悪いものではありません。
もし私たちに、このような思い煩いがなかったなら、私たちの生活は、どんなに明るく、ほがらかになるでしょう。地上の天国とも言えるでしょう。
「何事も思い煩ってはならない」と使徒パウロは言っているが、これは文字どおりにとってもよいのだろうか。
よろしい。しかし、パウロは、もちろん、神の子たちを対象として話しているのです。神の子とは、たとえて言えば、永遠のみうでにいだかれている人であります。
神は私たちの耳に「あなたがたは、わたしの子供です。わたしのいつくしむ子です。わたしのもとに来て求めるものを告げなさい」とやさしくささやいて下さいます。
また「わたしはわたしの子を守っている。わたしの許可がなければ人も悪魔もあなたにふれることはできない。だれもあなたをそこなうことはない」と。
このように神はあなたの耳もとでも、ささやいておられるのではないでしょうか。
主のみうでに我いこえば
わが仇われに追い迫るとも
いかでわれをとりことせん
地はふるい
人の心さわぐとき
主はわがおそれをぬぐいたもう
たとえ
稲妻ひらめき雷鳴とどろき
罪と地獄の一つになりておしよすとも
主は我を守りたまわん
O・ハレスビー著 「みことばの糧・365日の黙想」より