人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

信仰にいたるまで、今までをふりかえると。

2013年04月09日 | 教会

これまで、色々なことがあったが、信仰のある私は、これは神の計画、摂理であると思う。
信仰のない人は、色々な出来事をすべて偶然と思うだろうか。
ローマ書8:29「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
この言葉を信じる私の心の平安は、大きい。


信仰にいたるまで、壮年時代⑧

2013年04月07日 | 教会

教会生活
キリスト教会の中でも、色々と問題は起きる。
誰でも欠点があり、その点では世間一般の人と同じである。
ただ「キリストの十字架の贖い」を信じているかどうかだけの違いである。
赤碕キリスト教会は、わけあって約20年前から牧師がいない。
そして次第に信徒の数が減ってきて、現在は5人程度で礼拝をおこなっている。
しかし信徒の数が多ければ良いというものでもない。

 

 


信仰にいたるまで、壮年時代⑦

2013年04月07日 | 教会

葬式に対する反発
葬式に対する親戚の反発は、相当なものであった。
父は仏教で母はなぜキリスト教なのか?とか。
墓に納骨はさせないとか。
檀家から外すとか。
「檀家から外す」と言われたのには、こちらも望むところで、寺には、一筆書いて縁を切ってしまった。
元来、檀家制度は、キリスト教を禁止する為に行われた制度であり、時代の遍歴を感じる。
母の葬式から、19年も経ち、その当時は色々とあったが今は、なにも問題が無い。

 

 


信仰にいたるまで、壮年時代⑥

2013年04月06日 | 教会

母は、昭和4年(1929年)生まれ、64歳の生涯であった。
看護学校を出て、看護婦をしていた。
結婚して、私が生まれてからも、看護婦をしていた。
従って夫婦共働きで、子供は、知り合いに頼んで面倒を見て貰っていた。
子供が3人(私と弟2人)になってからは、さすがに止めてたようだ。
子供に手が離れてからも、臨時の養護教諭(保健室の先生)や姉の店の手伝い(飲食業)等をして働いていた。
どうも働くことが、好きだったようで、あまり家庭的ではなかったと思う。
それが夫婦喧嘩のひとつの原因であったと思う。
父58歳、母64歳と二人とも早くなくなりあまり親孝行はできなかったが、
孫の顔を見せることができたことが、せめてもの孝行であったと思う。


信仰にいたるまで、壮年時代⑤

2013年04月05日 | 教会

  信仰を告白する時は、突然やって来た。
1994年に母が、突然心筋梗塞で亡くなる。
以前から、もし母の葬式を行うようになった時は、キリスト教式でやろうと考えていた。
母が元気な時に、万一の時は、キリスト教式でやるからと了解をとっていた。
父の葬式は、仏教で行っていたが、その時は、任せると、こころよく了解してくれた。
母は信仰がなかったが、キリスト教には好意を持っていた様である。
葬式で世間の人に信仰を告白し、今まで胸につかえていたものが取れたような気がした。そして洗礼を受ける。

 

 


信仰にいたるまで、壮年時代④

2013年04月04日 | 教会

壮年時代④
礼拝、祈祷会、その他の集会にも熱心に通うようになりました。
しかし、洗礼は受けなかった。
元来、形式的なものが嫌いだった。
また教会員となると色々と束縛されるような気がしていた。
(洗礼を受けると教会員となり、それまでは求道者となっている、教会生活はどちらも大差がなく、また自由も尊重されている)
世間的にも信仰を持ったことを話していませんでした。
信仰していることが、恥ずかしいような気がしていました。
"宗教には弱い者が入る"とか"宗教は暗い"という世間的な観念を心配し、
信仰を表明すると弱さをさらけだすような思いがあった。


信仰にいたるまで、壮年時代③

2013年04月03日 | 教会

壮年時代③
その後も結婚生活、仕事に夢中であった。
子供も成長し、子守がてら、教会の日曜学校に連れて行くようになる。
そこで聖書の話しを聞き、興味を持つようになる。
そして自分で聖書を読み、イエスの人格に触れ、
ヨハネによる福音書1章18節にある「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」
という言葉は本当でで、イエスこそ神であると信じるようになる。
そして礼拝、祈祷会等に出席するようになる。1987年(36歳)頃のことである。

 

 

 


信仰にいたるまで、壮年時代②

2013年04月02日 | 教会

壮年時代②
結婚して家庭を持ち、ここで仕事がうまくいかなければ、もうあとがない。
背水の陣と言えば少しオーバーか、しかしその当時はそのような気持ちで頑張った。
ようやく仕事も軌道に乗り、家庭生活でも二人の娘にも恵まれた。その頃1984年に、父が亡くなる。
肺がんにかかり、4ヶ月程度の入院の末、逝ってしまった。58歳であった。
父は大正15年生まれで、19歳で終戦を迎える。父から戦争の話は、ほとんど聞いたことがないが、
予科練で鍛えられている写真が多く残っおり、当時の父の様子が窺われる。
当時、出撃の際は、本人に一応意思確認があったようで、その時にはいつでも「○」と書いていたと言っていた。
「○」とはOK、「×」とはNOである。
いつでも死ぬる覚悟はできていたようだ。
この時代生きていた多くの人がそうであったように、この戦争体験がその後の父の生き方に大きな影響を与えたようだ。
役場に勤めていて、世話好き、政治家タイプと性格的には私と正反対。
世間的には人望もあったようだが、家庭的には、夫婦喧嘩が多く、良い父と思ったことはなかった。
父の死んだ年齢を越えた今、ようやく父の良さが分るようになってきた。
考えて見ると、大学を見つけてきたのも、鳥取でのこの職場を見つけてきたのも、父であり、面倒を見てもらった。
今頃になり感謝している。


信仰にいたるまで、壮年時代①

2013年03月31日 | 教会

壮年時代①
鳥取に帰ったのは1980年1月の上旬。
前年の夏に見合い、その秋には結納を交わし、1980年4月29日に結婚式を挙げることになった。
就職は、新しくできた会社なので、雇用時期もはっきりしなかったが4月21日に採用となった。
結婚の8日前に、就職したことになる。
あやうく無職のまま結婚するところだったが、ギリギリ間にあう。
新会社は鳥取県と民間企業(機械関係)の出資で設立された官民一体の協同事業で、7人だけでスタート。
結婚と就職の同時スタート。


信仰にいたるまで、青年時代④

2013年03月30日 | 教会

青年時代④
横浜での労働
卒業後、叔父の会社に四年間働く。この四年間の仕事がきつかった。
人生、山あり谷ありと言われるが、この横浜での十年間の最後の四年間がどん底の状態だったと思う。
しかし、忍耐力等は、この時期に養われたと思い、今から思うと感謝。
この後、結婚話、新会社への就職がほぼ同時に決まり、鳥取にUターン。
上昇カーブを描き始める。


信仰にいたるまで、青年時代③

2013年03月29日 | 教会

大学生活
遊んでばかりの生活を続けている内に、「何のために大学に行くのか」とか「人生とはなんぞや」などと考えるようになりました。
その答えを、文学に求め、色々な本を読みました。
その中で特にキリスト教に強い影響を受けたトルストイや太宰治の本に魅せられ、
トルストイの思想を目標として生きようなどと理想に燃え頑張ったりしていました。
大学生活をふり返ると、アルバイトでよく働き、そして遊び、空しくなり酒を飲み、また人生の目的を考え本を読み、その繰り返しの様な生活でした。
しかし、その後、キリストに導かれる下地はこの時期にできたと思っています。


信仰にいたるまで、青年時代②

2013年03月28日 | 教会

大学生活
高校時代の柔道に続き、大学では空手部に入り一年間、頑張ったが止めてしまった。
柔道をやったり、空手をやったり、なにか強いものに憧れていたようだ。
大学には、叔父の家に下宿しながら通う。叔父は会社(熱処理)を経営していたので、そこでもよくアルバイトをしていた。
親からの仕送りにプラスしてアルバイトの収入もあり、けっこう金回りは良かったと思う。親戚であったので下宿代もわずかであった。
また親元を離れ、誰一人として大学生活に干渉するものはなく、まったくの自由。
大学への通学は、一時間位かけて電車で通っていた。
通学途中の横浜沿線には多くの歓楽街があり途中下車しては、遊び回っていた。
パチンコ屋、場外馬券売り場、映画館などにはよく通ったものだ。
都会での生活は、田舎育ちの私には誘惑が多く、朝は学校に行くつもりで出かけていくが、すぐに誘惑に負けて遊んでしまう毎日の繰り返し。
卒業するまでに6年もかかってしまった。


信仰にいたるまで、青年時代①

2013年03月27日 | 教会

青年時代
高校から大学へ
高校は、由良育英高校(現鳥取中央育英高校)の普通科へ進む。
その当時、鳥取県中部の中学からは、普通の学力?(特に良くもなく悪くもない)の者は多く、由良育英高校に行ったようだ。
高校では柔道部に入り、その他の運動も一生懸命励むが、勉強はあまりしなかった。
多少数学の成績が良く、手先も器用?と言われ大学は工学部の機械科を志望するようになる。
そして親戚が横浜にあり、そこの叔父の紹介もあり、関東学院大学の工学部機械工学科に進む。
関東学院はキリスト教を根底にするミッションスクールであったが、しかし、キリストには興味がなかった。