寒さもゆるみ穏やかな大晦日。
孫らと紅白を見ながら食事。感謝。
神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、
またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。 ルカによる福音書18章11節
彼は「ほかの人たち」のことを見るのです。数段、自分が正しいことを確認し安心します。
となりの取税人を見おろします。そして感謝します。
彼には、ただひとつの大切なことが欠けています。神の下で自分を見るということです。
他人と比較している限り、自分の方が絶対に正しくしか見えないのです。
神の光に照らさることのない「正しい人」たちによって世はこのように暗いのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
神は羽を持ってあなたを覆い
翼の下にかばってくださる。 詩篇91篇4節
鉄壁の守りというのではなく、ぬくもりのある守りであります。
親鳥がひなを守るように、羽を広げ翼の下に守ってくださるのです。
神の民はまもられつつ養われます。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
主はわたしの運命を支える方。詩篇16篇5節
ベートーベンの「運命」の出だしは、人を霊感させるものがあります。
それは不気味で圧倒的、だれもその力から逃れ出ることはできないと思わせられます。
生きている足元がいつ、どこで、崩れるかもしれないというおびえが多くの人の心の中にあるのです。
しかし聖書は言います。「わたしの運命」を支えていてくださる方がおられる、と。
運命は全能ではないのです。運命は、神の手にしっかりととらえらけているのです。
祝福のみ手から運命がこぼれ落ちることはありません。
信仰とは、運命へのおびえから解放された生き方のことであります。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、 サムエル記上24章16節
人と人との間には、避けがたい誤解があり、行き違いがあります。
それがもとでこじれたり対立したりぬき差しならない関係におち込んでしまうということになるのです。
もがけばもがくほど溝は深まる。そうしたとき問われるのは信仰です。
神が裁いてくださるという信仰です。
その裁きを信じないで言い募って、事態は収拾のつかないものになってしまいます。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
わたしは彼らに永遠の命を与える。 ヨハネによる福音書10章27,28節
羊飼いは羊の全体に号令をかけるのではありません。
羊の一匹一匹を「知って」声をかけてくださるので羊はその声を聞くのです。
羊飼いの声を聞きながら歩く、それが「従う」ということです。
その声についていったら「永遠の命」という「憩いの水のほとりに」(詩篇23篇)たどりつくのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 マタイによる福音書5章44節
人はだれも敵に育てられる部分を持っていることを忘れてはなりません。
人は適する者に向き合って、撃たれ、傷つき、痛み、精神の深い部分から変えられる経験をします。
敵を容れない堅い防禦の中から人の停滞と堕落は始まります。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、
イエスが栄光を受けられたとき、 それがイエスについて書かれたものであり、
人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 ヨハネによる福音書12章16節
人生には分からないことがあります。
どうしてあのとき、あんな出来事が起こったのか。
なぜこんな目に会わなければならないのか。
そのすべてが分かるときがきます。
そのすべては、神の、わたしたちを配慮するゆえの、心のこもった演出であったことが。
信仰者には「なるほど!」と膝を打つときがかならずあります。
なにごとについても、です。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、
あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 ヨハネによる福音書17章3節
ここでは知的に「知る」ということが意味されているわけではありません。
人格的に知る、即ち、出会う、交わりを持つという意味で用いられているのであります。
永遠の命の祝福は終わりがないというところにあるのではなく、しだいに深く、
いよいよ深く父なる神と子なるキリストに出会っていくということの中にあるのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
主は、大海の上に地の基を置き
潮の流れの上に世界を築かれた。 詩篇24篇2節
人の生きる「地」と「世界」はなんという危うく脆いものの上に据えられていることでしょう。
その基は大海の上にあり、潮の流れの上に築かれているというのです。
ただ、神が決意をもって、地と世界をそこに置いてくださっていることにおいて立っているのであります。
人の生を根源から支えているのは、この「地」ではなく地を据えられた方であります。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
主を仰ぎ見る人は光と輝き
辱めに顔を伏せることはない。 詩篇34篇6節
貧しい人間が自分を脅かす力の下で、弱り果てて主を仰ぎ見るとき、
上からの光の輝きを受けるのです。
強い人間ではなく、弱さを知る人間が輝くのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
身よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ 箴言1章23節
神の知恵が甘美なものであったなら、だれだって知恵に耳を傾けるでしょう。
しかし、神の知恵は耳に痛いのです。
わたしたちの生き方を問い糾して、わたしを「懲らしめ」るのです。
しかし、懲らしめられて砕かれなければ、神の霊がわたしたちの中に注がれることはありません。
自分の知恵で防禦しつづけているかぎりは。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
あなたの裁きは大いなる深淵。詩篇36篇7節
もし、神が地上の出来事のすべてを眺めておられるだけだとすれば、希望はありません。
一切のことは「なるようになる」だけであります。
しかし、神は生きておられ、裁きを行われます。
ただその裁きは人の目にただちにわかる形で行われるのではなく、人の思いをはるかに超えた形で、根源的に行われるのです。
わたしたちの期待よりもはるかに正しく。
神の裁きとは神がご自身の秩序を立てられるみわざであります。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より