人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです。

2011年11月30日 | 聖書

  ルカによる福音書23:34

 そのとき、イエスは言われた。

「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 これは、イエスが十字架に架けられ、処刑される前に、祈られたことばである。十字架に架けた者たちの許しを、願われた祈りである。なんと崇高な祈りであると思う。

 我々も、人間関係でいろいろ傷つくことがあるが、相手は、傷つけたと思ってない場合が多いと思う。要するに相手が「何をしているか知らない」状態である。

 したがって、我々も、イエスのこの祈りを見習うことができると思う。

また逆に、知らずに相手を傷つけてしまわぬ様に、なりたいものである。

 


仏教による死者供養は、キリスト教を禁止するため

2011年11月29日 | 日記

 今日は、近所の人が亡くなられ、葬式の手伝い(受付)をした。仏教の葬式であった。なぜほとんどが仏教だろうか。その原因は、キリスト教を禁止する為に、設けられた制度にあった。明治になり信教の自由が保障され、キリスト教などでも葬式ができるようになったが、今もって仏教での葬式が通例となっている。残念に思う。

 1640年、宗門改めと檀家制度、寺請証文、法事と仏壇を家々に設置させたこと。

寛永17年(1640)幕府は宗門改めを厳重にし、全国民をどこかの寺の檀家になるよう義務づけた。寺ごとに宗門人別帳を提出させ、疑わしい者に対しては寺側から、「当寺の檀家に相違ない」という寺請け証文を出させた。そして葬式や法事を檀那寺の僧がやることを義務づけ、盆には、檀那寺の僧が檀家まわりをして仏壇や棚経(たなぎょう)のあることを確認させた。

 仏教による死者供養を制度化したこと。

仏教による死者供養を制度化したのは、江戸幕府である。これはキリスト教禁止のための手段であったが、神官や廃仏論者にまで、死ぬと仏教による葬式が義務づけられていた。これらはすべて徳川幕府の為したことである。そしてこれらは、カトリック・キリスト教を禁止するための手段であった。小池長之著「日本宗教ものしり100」より


正しいとされた人

2011年11月28日 | 聖書

 ルカによる福音書18章9~14節

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
『神様、罪人
の私を憐
れんでください。』
 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだるものは高められる。」

 神が悪とされる人は、自分が正しいと思い、うぬぼれ、他人をみくだす人、神が正しいされる人は、謙遜な人。他人のことより自分を見つめることが大切。

ファリサイ派    徴税人/取税人 

 





神が引きよせて下さらなければ。

2011年11月27日 | 聖書

ヨハネによる福音書6:44-45
 わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終わりの日によみがえらせるであろう。
 預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。

  神が引きよせて下さらなければ、救いに預かることができない。
『彼らはみな神に教えられるであろう』神に心をひらいて教えられる又は神が啓示して下さる。
いずれにしても福音は、神が与えて下さるもの。人は、ただ福音の種まきをするだけ。


はじめにイエスありき

2011年11月26日 | 聖書

  ヨハネによる福音書1:1-5 14
   初めに言があった。言は主と共にあった。言は神であった。
 この言は初めに神と共にあった。
 すべてのものは。これによってできた。できたもののうち。一つとしてこれによらないものはなかった。
 この言は命であった。そしてこの命は人の光であった。
 光はやみの中で輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。・・・・・・・・
 

 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であった。めぐみとまことに満ちていた。

 最近よく使われる「・・・ありき」は、この福音書の初めの部分「初めに言ありき」が、語源であると思う。
「初めのこの言」は、なんであるか。それは、肉体となり、わたしたちのうちに宿ったイエスである。
「初めにイエスありき」と訳しても、問題ないと思う。
実にイエスこそ、初めの、初めである。


最近の畑仕事

2011年11月25日 | 畑仕事

 

 結構広い土地を借りている。枯れ草、枯れ木を燃やして綺麗にしている、ついでに焼き芋。

            

 最近は、ひたすら、クワで耕している。小さな耕運機もあるが、枯れ草や蔓が、からまってうまくいかない。毎日少しづつやるしかない。来春、草ボウボウにならぬ様に、今から思案中。

ブロッコリーが良い具合にできた、感激。

 

 


しつこく祈ることが大切

2011年11月24日 | 聖書

    ルカによる福音書11:9-13
 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 イエスは、しつこく祈ることを教えられた。

その譬えとして「求め」「探せ」「門をたたけ」そうすれば「与えられ」「見つかり」「開かれる」と言われている。

とにかく、しつこく祈ることが大切。


高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

2011年11月23日 | 聖書

 ルカによる福音書:14章 7-11節

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 招待を受けた時など、どこの席に座るか迷うが、実際に役立つ譬えであると思う。

またこの譬えをとうして、謙遜になることの大切さを教えておられる。

ただし、心からの謙遜である。 

 


他人のモノは、大きく見え、自分のモノは小さく見える。

2011年11月22日 | 聖書

 ルカによる福音書6:41-42
 イエスの言葉「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

 他人の目にあるおが屑(小さいもの)は、見える。自分の目にある丸太(大きいもの)は、見えない。非常に分かりやすい譬えである。
 他人の欠点は、わずかなものでも大きく見える。自分の欠点は、大きなものでも気がつかない。まず自分のことを考えることが大事。


あの風貌からは想像できない

2011年11月21日 | お気に入りの言葉

・・・実に彼は他人の平和をわずらわすことを非常に嫌った。他人の家を訪ねても、進んで案内を乞わず、玄関に立ったまま折よく誰かが出て来て見附けてくれるまで、其処に待っていることがよくあった程である。これが彼の生活法であった。何たる謙遜・・・・・・・・・・・・・内村鑑三著 鈴木俊郎訳 代表的日本人

 ここで彼とは、西郷隆盛のことである。これが彼の生活態度であったらしい。
日本の陸軍大将という肩書を考えると、いかに彼が謙遜であったかがわかる。
あの犬を連れた銅像の風貌からは想像できない。
彼のような謙遜な態度を見習いたい。


一番すばらしい友は誰か?

2011年11月20日 | お気に入りの言葉

「君の仲間のことを私に語れ,さらば君がどんな人間か君に告げ よう」 セルバンテス

 其の人を知らざれば、其の友を見よ。孔子

 ヨハネ福音書 第15章15節
  もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。
 わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

 友を見ればその人がわかるらしい。イエスを友としたい。


天を見て暮らす

2011年11月19日 | お気に入りの言葉

 人を相手とせず天を相手とせよ。天を相手として己を尽くし、人をとがめず、我が誠の足らざることを尋ぬべし。西郷隆盛

    ルカの福音書12章2節~5節
 おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。
 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。
 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。

人の目はごまかせても、神の目はごまかせません。何事も神の目を意識して生活したい。


正しい人はひとりもいない

2011年11月18日 | 聖書

 ルカによる福音書5:31-32

 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

  心の中で正しい思っている人は、イエスに招かれない。自分が罪人と思い悩んでいる人は、招かれる。ところが正しい人は、ひとりもいない。

 心の中を、探れば探るほど、イエスに招かれる。


最後の一言で救われる

2011年11月17日 | 聖書

   ルカによる福音書23:39-43

 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 イエスが十字架につけられた時、二人の犯罪人も一緒につけられた。その時の三人の会話である。一人の犯罪人は、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 とイエスに頼み救われた。最後に一言でもイエスに頼めば救われるではないか?


琴浦町学校公開学習

2011年11月16日 | 日記

 昨日は孫(浦安小学3年生)の学校公開学習に家内と一緒行ってきた。3年生にもなると、祖父母が来ていることが分かると恥ずかしがると思い気づかれないように、こっそり見学するつもりでいた。しかし、いきなりバッタリ顔を合わせてしまった。「なんでここにいるの??」・・・・・・・・狐につままれたような顔をしていた。授業中も落ち着かない様子で後ろを振り返っていた。隠れて見ていたが早々に退散した。我々の小学校の時代に比べて、何もかも(校舎、教室、先生、生徒など)明るい印象であった。

 これから先もいつまでも、こっそり見守ってやりたいが、そういうわけにはいかない。あとは神様に見守って頂くよりしかたがない。

 詩編121:3-8

 どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにしまどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく夜、月もあなたを撃つことがない。
主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも
主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。