人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

聖書と自然

2011年10月31日 | 聖書

詩編121:1-2

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは天地を造られた主のもとから。

「もし見る目をもって見れば、天然は大著述なり。もし聞く耳をもって聞けば大教師なり。山あり、川あり、谷あり、木あり。草あるは.....これみな神の聖意を伝うるものなり。すなわち第二(あるいは第一)の聖書なり」内村鑑三

自然と触れ合うのが好き。山や海、木や花を見ること、畑仕事等など。昨日経験した山々の絶景、初めて食べた大山キャラボクの実などに感動。自然と触れ合うと神を身近に感じるような気がする。


琴浦アルプス縦走登山

2011年10月30日 | 趣味

        

             甲ヶ山山頂1338m        ゴジラの背                                

今日は、琴浦アルプス縦走登山に参加。心配した雨はたいしたことはなかったが地面は濡れていてよく滑った。特に岩や石の上は恐かった。ルートは、香取県民の森→甲川河原830m→ゴジラの背→甲ヶ山山頂1338m→小矢筈→矢筈ヶ山1358m→大休峠避難小屋→三本杉分かれ→大休口→大山滝上→大山滝吊橋→一向平駐車場。7時ころ登山開始して下山したのは17時。食事と休憩以外の9時間程度を歩きまわったことになる。しかもアップダウンのすごいコース。途中恐くて足がすくんでしまった。縦走なので途中で引き返すことはできない。経験者に言わせるとここを登れると本物のアルプスもいける?とのこと。大山を正面に見て、眼下に弓が浜海岸、島根半島をみる景色は絶景、紅葉もきれいであった。初めての本格的な登山で感動。


喜び、感謝の源

2011年10月29日 | 聖書

1テサロニケの信徒への手紙5:16-18

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい」代表的な聖書のことばであり、私の好きなことばの一つでもある。このようになりたいと思うが、しかし、いろいろ困難な事、いやな事に遭遇すると喜んでばかり、感謝してばかりいられない。どうすればこのようになれるだろうと、このことばにふれるたびに考えていた。

いろいろと考えてみたが、その秘訣は全くの神への信頼(信仰)にあると思う。「神は愛なり」である。悪いようにはされないという信頼である。

エレミヤ29-11
わたしはあなたがたのために立てている計画をよくしってるからだ。 主の御告げ。 それはわざわいでなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。  

共に喜び、共に苦しむ

2011年10月28日 | 聖書

コリントの信徒への手紙一 12:14-26

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

パウロが、コリント教会内の分裂を憂いて送った手紙の一部である。いかにすれば和が保てるかをすばらしい比喩を用いて語っている。教会内部にかぎらず、学校、家庭等などでも参考になると思う。この中で「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」という部分がミソか。弱い人を助けることでみんなの絆がいっそう強くなるとか、そういうことではないかと思う。しかしこの世の社会では、効率アップを目指すあまり、弱い部分は切り取られていく。生きにくい世の中である。

 

 

ひとりでいる時、何を考えてますか

2011年10月27日 | 聖書

それゆえ、私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します。詩編119:127

詩人はここで、「神のことばを純金より、宝より愛する」と告白しています。人生には。いろいろ大切なもの、必要なもの、尊いもの、値打ちのあるものがありますが、その中で神のことばをナンバーワンに愛するというのです。人は何を第一に愛しているかで、その人の人格、生き方、人生観がわかるのではないでしょうか。.....「私たちがひとりぼっちでいる時、一番よく考えるものが、それがあなたの一番愛しているものではないでしょうか」....羽鳥明著今日の詩編明日の詩編より

私も、ひとりでいる時、つまらないことをよく考えているので反省している。


祈りがきかれない時

2011年10月26日 | 聖書

少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 マタイによる福音書26:39 

イエスが十字架に掛られる前に祈られた言葉である。この杯(十字架)の回避を祈られた。しかしその後に「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られた。これが究極の祈りの姿勢であると思う。祈りがすべてきかれたら、クリスチャンは、災害もなく、健康で長生きし、お金持ちばかりになってしまう。

マザーテレサの言葉「あらゆる困難や疑いや障害にもかかわらず、神に信頼しましょう。神は決してあなたを裏切りません。ある願いをかなえてくださらない時は、神がそのことをお望みではないというしるしです」 

     

 


カラオケ

2011年10月25日 | 趣味

前からカラオケに行ってこころゆくまで歌いたいと思っていた。家内は興味がないし、一人カラオケではいかにも侘しい気がしていた。広報で琴浦町の社会福祉センターでカラオケ教室をやっているとあったので、昨日は出かけてみた。6人の出席者で2時間のあいだ順番に歌い、私は4曲歌った。久しぶりであったのでそれなりに満足した。しかしあらためて感じたことは各自歌の興味が違うということだ、私より年配の人がほとんどであったのでナツメロ調が多いのかなと思っていたら、最近の演歌調のものを歌われていた。それにしてもテレビの寸劇にはガッカリした(歌詞、メロディのイメージに合わない字幕のバックに写る寸劇のこと)。

しかし私の流行歌(好きなのは昭和25~45年までに集中)好きはどこから来ているかよく考える。原因は母親譲りである。母はいつも歌っている子だったと叔母から聞いたことがある。そういえば私の成長時(小、中、高時代)もよく歌っていた。舟木一夫の大ファンで歌謡ベストテン等よく見ていた、その影響である。おそらく私が胎内にいた時もよく歌っていたであろう。

4年前位から、NHKのラジオ深夜便(こころの歌、日本の歌)に出会い、大ファンになった。ただし昭和50年以降の歌はダメである。流行歌は現代の万葉集とか誰かが言っていたが、よい歌詞などそれにつうずるところがあると思う。万葉集や詩にもひかれるところがある。流行歌は案外高尚ところがあると自分で納得している。ただし良い歌詞のものに限る。クリスチャンでありながら讃美歌より好きなのだから反省してしまう。


互いに相手を自分より優れた者と考える

2011年10月24日 | 聖書

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」フィリピ人への手紙2:3-4

上司がみんなの気持ちをおしはかって「いいわけ」をきいてやろうとすると、みんなは歯をくいしばっても「いいわけ」をいうまいと頑張る。「無理するな」といたわって上げると、自ら進んで、「重い石」を持とうとする。人間というものは妙な存在で、いわば、「魚心水心」である。相手の気持ちを察して上げると自分の義務に奮い立ってくる。義務よばわりをされると、自分の権利を主張したくなってくる。こうなっては和のムードはたちまち破壊されてしまう。まずお互いが相手の基本的人権というものを認め上げ、これを尊敬して上げることだ。尊敬されていながら、自分の義務を怠るような人間は少ないし、そんな人はこの世間でははじき出されてしまう........友松圓諦著人生百訓365日より

長年勤めてきた経験から仕事上の人間関係は難しいものだと思います。円滑に気持ちよく仕事を進めていくには、尊敬(へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思う)や他人のことを考えること、このような心構えが必要であると思います。

 


送別会

2011年10月23日 | 日記

昨日、皆生グランドホテル天水で送別会(31.5年間勤め定年退職)をして頂いた。会の前に温泉につかった。海を一望できる大浴場、露天ぶろは最高であった。皆生の温泉には、色々入ったが、こんな景色の良いところはなかったように思う。

送られるのは、私ひとりで主役であった。主役は良いもので、結婚式以来である。色々な事が思い出されるが、いやな思い出は消え、良い思い出だけが残ったような気がした。良い送別会をして頂いて感謝。終わり良ければすべて良し。

この仕事(金属熱処理業:機械の材料である鉄鋼を焼き入れなどして性能をアップさせる仕事)との出会い。横浜に住んでいた叔父が熱処理会社を経営していた。中小企業だが全盛期には100名位いたようだ(もともと叔父は大阪で炉の修理業をしていた、ある時、横浜で熱処理炉を修理したが、そこが倒産して修理代を払って貰えなくなり、やむなく、その肩代わりとしてそこの会社を頂き始めたらしい)。

私は、高校を卒業し、大した目標もなかったが、ただ大学に行きたかったように記憶している。父は、叔父のところで面倒をみてもらい大学に通わせようとした。その結果、そこで下宿し、熱処理のバイトをしながら大学生活を送った。卒業後も、引き続きそこで働いていた。その間、叔父は亡くなり、会社は傾きかけてきた。私は、横浜に出て10年経過して、28歳になっていた。結婚適齢期、都会生活、仕事の苦しさ、Uターン等などで悩んでいた。その頃、米子に熱処理会社ができた。Uターンしてきた。不思議な出会いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

、Uターン


恐れるな

2011年10月22日 | 聖書

夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらにいかせてくだい。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。かし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったか」と言われた。そして、ふたりが舟に乗り込むと、風は静まった。の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言てイエスを拝んだ。マタイによる福音書15:25-33

仰(信頼)と疑いに対する象徴的な出来事であると思う。ペテロは、最初イエスのことばに信頼して、一心に水の上を歩いていた。しかし途中で強い風に気がつき怖くなった時、沈みかけた。イエスを信頼している(信じている)時は水の上を歩けたが、現実の恐怖を見た時、沈みかけた。我々の信仰も同じであると思う。仮に100%イエスを信じきっていればまったく恐れはなく歩んでいけると思う。しかし信仰が薄くなり、現実の恐怖のほうに目がいくと歩みがとまり,時には絶望的になる。いかに信じきるかが問題であると思う。イエスに信仰を増して頂くように祈るしかない。すべての人が日々の色々な恐れ(病、事故、将来の生活等など)におびえ生活している。そこで信仰のない人は何を頼りに歩んで行かれるであろうか。


平和ではなく剣を

2011年10月21日 | 聖書

イエスの言葉「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。ひとをその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも、父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」マタイによる福音書10:34-37
族の意思よりイエスの意思を優先するということである。そういう場合、家族の者が敵となる場合もある。ある意味どうしようもない。たとえば父が「盗め」と命令した場合、イエスが「盗むな」と言われれば、当然家族同士が敵対する。要はお互い仲良くするより、正しい事を優先して行うということだと思う。


神と富、どちらを選ぶか

2011年10月20日 | 聖書

 イエスの言葉「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」 マタイによる福音書6:24

この世の中、二つものを得るのは難しい。何かを得ようと思えば、他のものを失う。仕える主人を間違えないようにしたい。

拝神主義か、拝金主義か。

                       

 

 


すべての人は罪人である

2011年10月19日 | 聖書

イエスの言葉「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておくみだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」マタイによる福音書5:27-28

律法には、『姦淫するな』とあり、それによれば男女の不倫等は、死刑と定められていた。しかしイエスは、さらに進んでこの思い「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」も姦淫にあたると言われた。これが聖書で言う罪ということだ。罪の基準は、各自、色々とあると思うが現在の日本で罪といえば、「罪にあたる」等の言葉があるように「刑法でひっかかる」ようなことを言うと思う。イエスが言われる(聖書で言う)罪とは、心の思いまでその基準となる。したがってすべての人は罪びとであるということになる。この罪を贖われたのがイエスの十字架である。


恐れるべき者は

2011年10月18日 | 聖書

イエスの言葉「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることなはい。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」 マタイによる福音書10:29-30

我々は、色々なものを恐れて生活している。髪の毛の数まで知っていて下さる、その神のお許しがなければ死ぬことはない。この神を信じれば、怖いものはない。

     


活動の源泉は沈黙

2011年10月17日 | お気に入りの言葉

マザーテレサの言葉「沈黙は、神と、お互いとを結びつける根っこです。沈黙の中でこそ私たちは、すべてのことを喜んで行うことを可能にする神ご自身のエネルギーで満たされるのです。沈黙の祈りの中で私たちが受ければ受けるほど、私たちの活動的な生活の中で、もっと人々に与えることができるのです」

マザーテレサの活動の秘密が書かれている。沈黙の時とは、祈りと聖書の学びの時であると思う。この沈黙により神からエネネギーを頂いて働かれた。マザーテレサ自身のエネルギーではない。クリスチャンの活動の源泉はここにあると思う。

イエスもよく一人で祈られたことが書かれている。祈りの時の少ない自分を反省する。ここのマサーテレサの言葉は「人が生きるのはパンのみによらず、神のことばによる」という聖書の言葉にも通じるところがあると思う。