天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。詩篇九六・11、12
毎朝、自分の別荘近くにある見晴台に行き、帽子もかぶらないで立っていたスコットランドの高地人についての物語があります。
尋ねられて、彼はいいました。「私が朝ここにくるのは、この世の美しさに対して脱帽するためです」。
自然についてある人は書いています。「きらきら光る湖や静かな川の中で、巨大なかしの木や小さな花の中で、山の隆起や海のうねりの中で、神は私たちに語っています。
注意深い、敏感な目の魂にとっては、自然界はいつも永遠者の衣服です。」
もし、未信者の天文学者が気が狂っていなかったら、彼はまた、庭や畑や谷や山や川の秩序に、恵み、美しさを見て、その背後に神を見出すことができるでしょう。
私たちは、雨を降らせるお方がいることを信じるばかりでなく、この祝福された宇宙のすべてにも、創造者がおられることを信じることが出来るのです。
チャールズ・E・カウマン夫人著 「荒野の泉」より
わたしが悩みのうちに、主に呼ばわると、主はわたしに答えられる。詩篇一二○篇一節(口語訳)
信仰は安全地帯を歩くようなものではありません。闇の中を行くように、危機的な道を一歩ずつ辿るのであります。
神に呼ばわりながら。
神の答えを受け取りながら。
神に呼ばわり、神の答えを受け取ってゆく。その細い一筋の道以外の信仰の道はありません。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
主よ、生死にかかわるこの争いをわたしに代わって争い命を贖ってください。哀歌三章五八節
物と激突する瞬間、人は目をつぶります。命の最も危険な場面で目を開けていることはできません。
生きるためにいろいろな闘いはしますが、命を失うか得るかという決定的な闘いにおいて、わたしたちは指一本動かすことはできません。
「神さま!」と叫んで目をつぶります。
わたしたちの「命を贖う」ために、神は立ち上がってくださいます。十字架を担って。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。ルカによる福音書一八章一一節
彼は「ほかの人たち」のことを見るのです。数段、自分が正しいことを確認し、安心します。隣の徴税人を見おろします。そして感謝します。
彼には、ただひとつ大切なことが欠けています。神の下で自分を見るということです。他人と比較している限り、自分の方が絶対に正しくしか見えないのです。
神の光に照らされることのない「正しい人」たちによって、世はこのように暗いのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら見よ、わたしの霊をあなたたちに 注ぎわたしの言葉を示そう。箴言一章二三節
神の知恵が甘美なものであったなら、だれだって知恵に耳を傾けるでしょう。けれども、神の知恵は耳に痛いのです。
わたしの生き方を問い糾して、わたしを「懲らしめ」るのです。
しかし、懲らしめられて砕かれなければ、神の霊がわたしたちの中に注がれることはありません。
自分の知恵で防御し続けているかぎりは。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。ヨハネによる福音書一四章三節
イエスは弟子たちのために天に住まいを確保されました。それだけではありません。
「戻って来て」、天への歩みを支えてくださるのであります。
天にあってわたしたちを待っていてくださるのでなく、わたしたちの歩む地点にまで来て、永遠の住まいへと導いてくださるのであります。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
わたしが小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたの僕を探してください。詩篇一一九篇一七六節
羊は方向感覚のにぶい動物であります。迷いやすい。子羊ならなおさらです。
迷った羊は自分がどこにいるのかわかりません。
歩けば歩くほど迷い込んでしまいます。羊飼いに見つけてもらうしかありません。
わたしたちもそうです。自分で道を見出して帰ることなどできないのです。
「あなたの僕を探してください」。これがわたしたちのたえざる祈りです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる・・・。マタイによる福音書五章四五節
善人と悪人、正しい人とそうでない人、役立つ人と役立たない人、敵と味方・・わたしたちは人間をさまざまに区分けし、
選別しながら生きています。気に入る人はこっち側、気に入らない人はあっち側、気がつけばこっち側にいる仲間のなんと少ないことでしょう。
神はすべての者を受け入れて、これを育んでいてくださいます。
受け入れる苦痛を担いながら。その大きな愛なしにだれが育つことができるでしょうか。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
「・・・・お前たちの 心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。ヨエル書二章一三節
神に立ち帰る、ということはどういうことでしょう。
自らの心を引き裂くことであります。
自分は正しい、間違っていない、と言い張っているかぎり、目は曇っています。
自分の罪、あやまちを認めることができたとき、わたしたちの前に立っておられる方を見出すことができるのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
わたしの魂を、幼子のように
母の胸にいる幼子のようにします。詩篇一三一篇二節
幼子は母の胸に抱かれることにより、生きるために必要な基本的なものを受け取ります。
命が受容されているというやすらぎを。
神に抱かれているという満たされた認識からだけ、人の魂は息づくのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
以前使っていたWord、Excelのページが開けなくなった。パソコンと格闘したが結局ダメ。そこでマイクロソフトの技術サポート窓口にTEL。
最初は、電話で聞きながらパソコン操作をしていたが、相手もよくわからない様子。
そうしたら私のパソコンと相手のパソコンを繋いで、操作するという。指示に従って入力したら、相手が私のパソコンを操作し、あっという間に問題解決。
私のパソコンが相手の入力で動く。こちらは画面を見ているだけ、あらためて技術の進歩に驚く。
戒めを愛する人は知識を愛する、・・・・・。 箴言一二章一節(口語訳)
人は良き友によって成長し、悪しき仲間によって堕落します。
友は愛によって戒め、仲間はおだてても戒めてはくれないからです。
神の言葉は、わたしたちにとって厳しいが、
最上の友であることは、いうまでもありません。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 フィリピの信徒への手紙二章四節
自分のことで頭がいっぱい、多くの人はそういう思いで生きています。
自分のことは考えてはならない。と言われているのではないのです。
ただ「他人のことにも注意を払」うのです。
「注意を払」えば、他人は他人でそれぞれの重荷を抱えていることがわかります。
共感が生まれます。他者との共感が祈りの輪をつくり、交わりを深めます。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。マタイによる福音書一五章一一節(口語訳)
人は外面を清潔にすることに神経を使うものであります。
しかし、内面のことはなおざりにされていないか、とイエスは問うのであります。
外から入ってくるものが人間を汚すことはありません。
内から出て来るもの・・・口から出る言葉が、どんなに人間を汚し、傷つけているか、考えなければなりません。
外よりも内が清められなければなりません。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より