昨夜テレビで、映画「ラスト サムライ」を見た。この映画が公開された時、当時オーストラリアに住んでいた知人が、この映画を見て「トム・クルーズより渡辺謙がかっこよかった」と言っていたので、私も新宿の映画館へ見に行った(当時は東京在住)。この映画は印象的なシーンがいくつもあるが、そのたびに私はうるうるしていた。そして、最後に謙さんたちが突撃するシーンでは思いっきり涙が出た。でも、奥さんは「どのシーンで泣けるの?」と不思議そうだった。
「ラスト サムライ」を見たとき、やはり西南戦争(西南の役)や神風連の乱、佐賀の乱を思い出した。おそらく、この映画の監督もそういった明治政府に対する反乱士族をイメージしたのだろう。昨夜テレビを見ていて気づいたのは、時代設定が1877年(明治10年)となっていたので、まさに西南戦争の年である。
ところで、なぜ、西郷隆盛の反乱は「戦争または役」で江藤新平や太田黒伴雄の場合は「乱」なのだろうか?おそらく、これは当時の政府や天皇から見て、そしてその後の歴史研究家からみた西郷隆盛と江藤新平・太田黒伴雄の身分・立場・業績などの違いからくるのであろう(皇国史観的要因もあると思う)。 たしかに日本史を見ていると、「平将門の乱」「弘安の役」「承久の変」などと「乱」「役」「変」が使い分けられている。井沢元彦氏の本を読むと、「乱」は単なる国内の反乱だが「役」は「戦争」という意味があるからで、日本では大規模な対外戦争はすべて「役」と呼ぶようだ。ところが、「承久の変」の場合は、鎌倉幕府に対して後鳥羽上皇が起こした戦いなので、「乱(臣下の反乱)」でも「役」でもおかしいというわけで、「変」(変事ないしは災難の意味)となったようだ。ちなみに、「本能寺の変」というが、明智光秀の側からみれば「光秀の乱」と言うことになるだろう。
さて、西郷隆盛であるが、私の母方の祖母が生前「昔、西郷さんがうちに泊まったことがある」と言っていた、という話をいとこから聞いたことがある。母方の祖母の家は昔、旅館をやっていたことがあるようだ。その家は私が子供の頃にはもう廃屋となり、今は私の菜園となっている場所だ(写真参照)。
西郷隆盛がこの半島にやってきたという話は聞かないが、西南戦争の時、豊後(今の大分県)を目指したことがあるようなので、その下臣が海を渡りこの地に泊まったことがあるのかも知れない。あるいは、佐賀の乱の終盤、東京を目指した江藤新平が高知県で捕らえられているので、その途中この地に宿泊したのかもしれない。しかし、江藤新平はこの時、日向市から船をやとって宇和島へ渡りその後高知県にぬけたようなので、そのルートでは半島からちと遠すぎる。それとも、日向市から海岸線に近い海路を北上し、宇和島に行ったのであれば、この半島に泊まった可能性はある。などと妄想は膨らむ。
この祖母の話は、祖母の記憶違いかもしれないが、今はわが菜園となっている場所に、うそでもいいから『西郷隆盛御宿営地』などと石碑を建てておけば、どなたか熱心な研究家が真相を確かめてくれるのではないかと思ったりする次第である。≪恐縮です≫
「ラスト サムライ」を見たとき、やはり西南戦争(西南の役)や神風連の乱、佐賀の乱を思い出した。おそらく、この映画の監督もそういった明治政府に対する反乱士族をイメージしたのだろう。昨夜テレビを見ていて気づいたのは、時代設定が1877年(明治10年)となっていたので、まさに西南戦争の年である。
ところで、なぜ、西郷隆盛の反乱は「戦争または役」で江藤新平や太田黒伴雄の場合は「乱」なのだろうか?おそらく、これは当時の政府や天皇から見て、そしてその後の歴史研究家からみた西郷隆盛と江藤新平・太田黒伴雄の身分・立場・業績などの違いからくるのであろう(皇国史観的要因もあると思う)。 たしかに日本史を見ていると、「平将門の乱」「弘安の役」「承久の変」などと「乱」「役」「変」が使い分けられている。井沢元彦氏の本を読むと、「乱」は単なる国内の反乱だが「役」は「戦争」という意味があるからで、日本では大規模な対外戦争はすべて「役」と呼ぶようだ。ところが、「承久の変」の場合は、鎌倉幕府に対して後鳥羽上皇が起こした戦いなので、「乱(臣下の反乱)」でも「役」でもおかしいというわけで、「変」(変事ないしは災難の意味)となったようだ。ちなみに、「本能寺の変」というが、明智光秀の側からみれば「光秀の乱」と言うことになるだろう。
さて、西郷隆盛であるが、私の母方の祖母が生前「昔、西郷さんがうちに泊まったことがある」と言っていた、という話をいとこから聞いたことがある。母方の祖母の家は昔、旅館をやっていたことがあるようだ。その家は私が子供の頃にはもう廃屋となり、今は私の菜園となっている場所だ(写真参照)。
西郷隆盛がこの半島にやってきたという話は聞かないが、西南戦争の時、豊後(今の大分県)を目指したことがあるようなので、その下臣が海を渡りこの地に泊まったことがあるのかも知れない。あるいは、佐賀の乱の終盤、東京を目指した江藤新平が高知県で捕らえられているので、その途中この地に宿泊したのかもしれない。しかし、江藤新平はこの時、日向市から船をやとって宇和島へ渡りその後高知県にぬけたようなので、そのルートでは半島からちと遠すぎる。それとも、日向市から海岸線に近い海路を北上し、宇和島に行ったのであれば、この半島に泊まった可能性はある。などと妄想は膨らむ。
この祖母の話は、祖母の記憶違いかもしれないが、今はわが菜園となっている場所に、うそでもいいから『西郷隆盛御宿営地』などと石碑を建てておけば、どなたか熱心な研究家が真相を確かめてくれるのではないかと思ったりする次第である。≪恐縮です≫