かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

マイ箸考(雑感)

2008-07-11 11:24:21 | その他
最近、『マイ箸』という言葉をよく耳にする。そして、若者を中心になんだかブームみたいになっているようだ。食堂やレストランなどで、店に置いてある割り箸を使わずに、持参した個人の箸を使って食事をする。割り箸の消費を抑えるためのマイ箸運動が県内でも拡大しつつあるそうだ。森林破壊防止、地球温暖化防止への意識の高まりに伴うエコ活動だとか・・・。そうだとしたら好ましい光景のように思えるのだが、私はこのマイ箸運動に何か違和感を抱いてしまう。

マイ箸運動の建て前は、割り箸は贅沢だ、使い捨ての箸はもったいない、割り箸を作るために森林が破壊されている、地球温暖化防止に努めなくては・・・、といったようなことなのだろうか。
果たして、ぜいたく品として割り箸があるのだろうか? それを作るために森林資源が圧迫されているのだろうか? 森林破壊をしているのだろうか?
私には、そのへんのところがどうもわからないでいる。
割り箸は、そもそも他の使用目的で伐採した樹木のうち、余った材料で作られているのではないのだろうか? 割り箸を作るために、わざわざ森林を伐採するというのは採算が合わないように思える。野球で使う木製バットは、折れたものは割り箸に加工されていると聞く。そうしてまで作っている割り箸のために、森林破壊をしているとは思えないのだ。私は折れたバットを割り箸に再利用することこそエコだと思うのだけれど・・・。
確かに1回だけ使って捨てる割り箸は、もったいないことではある。それなら、その割り箸をもう一度使う、あるいは別の用途(燃料など)に回せばよいのではないだろうか。もっとも、割り箸は使い捨てを念頭において作られているのだろう。

昔は、使いまわしの箸が食堂に常備されていたし、ほとんどの家庭でも食事の時は、箸と茶碗をごそっと出し、それを一人一人に配っていたと思う。決まった箸や茶碗などなかった。破損していない食器が数だけあればそれで済んだと思う。ところが、いつのまにか家庭でも各人の箸や茶碗が決まったものになった。かくいう我が家でも現在はそうである。しかし、不思議なことに、皿やフォーク・スプーンなど、いわゆる洋食器類は、誰が使うのか決められていない。
これはどういうことなのだろうか?

各家庭で、各人決まった箸や茶碗を使うようになったのは、「核家族化が進み、少人数の家庭になったので、箸や茶碗は少なくて済むようになったからじゃない?」と、うちの奥さんは言っている。そうかもしれない。
では、食堂で使いまわしの箸から割り箸に代えたのは、客の要望なのだろうか(他人が使った箸を使いたくない)、それとも店側の都合なのだろうか(洗うのが面倒・経費が高くつく、時間の無駄)?
割り箸はもったいない、資源の無駄遣いだというのであれば、食堂やレストランが割り箸を全廃して、使いまわしの箸(もちろん洗浄・消毒したもの)にしたらいいのにと思う。なぜ、そうしないのだろうか? もしそうした場合、マイ箸を持ち歩く人は、マイ箸を止めて食堂の使いまわしの箸を使うのだろうか?

箸を使う国は、中国、韓国、台湾などがあるが、割り箸を使うのは、日本だけのようだ。ではなぜ、そのような習慣(?)が日本に芽生えたのだろうか? 必要以上に潔癖症の人が増えたからだろうか? いや、使い捨ての箸(割り箸と言ったかどうかはわからないが)を用いだしたのは、今に始まったことではなく、古代からあるようだ。
割り箸は、いつ製造されたものを使っているのかわからないし、雑菌が付いている可能性だってある。それならば、使いまわしの箸を、きれいに洗浄・消毒したほうが清潔だと思えるのだが・・・。
それでも使いまわしの箸を使いたくない人は、他人が使ったものだから汚い(不浄)、気持ちが悪い(何となく嫌な気分)、という感覚があるのではないのだろうか。だから、割り箸文化(?)が生まれたのではないだろうか。
つまり、割り箸は日本の歴史の中でいつしか芽生えた“穢れ”を忌み嫌うという感覚から発しているのではないのだろうか。洗浄し、消毒して物理的・科学的には、99%きれいになっているものに対しても、不浄は消えない、気持ち悪いと思い込んでいる感覚の表れではないのだろうか。
そうして、割り箸はもったいないというマイ箸派の方々は、エコ活動だという意識なのかも知れないけれど、もし洗浄・消毒された使いまわしの箸を使いたくないというのであれば、その深層心理は、割り箸を使いたいという心理と同じなのではないだろうかと思える。

子供の頃、道端などでヘビを見つけ、思わず指をさしたら、その指は腐ってしまうと言われ、友達に平手で指を切って(切るまね)もらっていたが、これも実は“穢れ”と“お祓い・禊”なのだろうと思う。私の中にも、そうした科学的根拠のない“穢れ”に対する感覚は、まだ残っているように思う。