【滋賀・湖南市】江戸時代の享保八年(1723)、黄檗宗の宗祖隠元の法孫である寂門道律を開基として建立された「正禅庵」が始まりとされる。 「正禅庵」は蒲生郡日野の商家島崎家の先祖光岳と当地の伊地知氏・真野氏が建てた精舎。
聖徳太子創建と伝えられる近江正明寺に住していた寂門道律禅師は、江戸時代前期に戒律復興運動を推進した黄檗宗の律僧・妙幢浄慧が依止した律僧で、龍渓性潜の高弟。
正禅庵はもとは歴代天皇の祈願所であった大般若院少菩提寺の阿弥陀堂だったが、室町時代元亀元年(1570)の兵火ですべて灰燼と化した。 江戸時代に再興されて後水尾天皇(第108代)の勅願寺となり、江戸時代享保八年(1723)に黄檗宗となって黄檗禅の中本山の寺格を備えた。 昭和元年(1926)に寺号が菩提禅寺に改称された。 宗旨は黄檗宗で、本尊は平安時代作とされる木造阿弥陀如来立像。 <2020年6月9日投稿の「菩提寺」(削除済み)の改訂版>
なお、大般若院少菩提寺は奈良時代天平三年(731)に創建された興福寺の別院で、最盛期に七堂伽藍と37坊を擁する大寺院だったが、7元亀元年(150)、織田軍と武家・六角氏の戦渦に巻き込まれて全山を焼失、以後、復興されず廃寺となった。
●石部駅で借りたレンタサイクルで野洲川に架かる石部大橋を渡り、県道27号線の野洲甲西線を東に進んで菩提禅寺に向かう。
菩提寺集落の道に入り、山側に上っていくと石段の参道の入り口に菩提禅寺の寺号標石が立つ。 石段の上の植栽の上に本堂の屋根と石塔の上層が見える。 S字状に曲がった石階を上りつめると正面に庫裡が建ち、砂利が敷き詰められた境内の左手の奥の基壇の上に本堂が鎮座。
中央間の腰高格子戸の前の切目縁に、「脚下照顧」と浮彫りされた駒形木札が置かれていて禅宗寺院らしい。
△「黄檗宗 圓満山菩提禅寺」と彫られた寺号標石が立つ参道入り口から山岳寺院のような石の階が続いている
石階下から眺めると、繁った植栽の上に石塔の上層部が頭を出している/S字状に曲がった石段参道を上ると正面に庫裡が建つ
△山腹の境内には砂利が敷き詰められ、石段から本堂に向かって切石敷の参道が延びている....右手の建物は庫裏
△入母屋造桟瓦葺の本堂....基壇の上に建ち、周囲に高欄のない切目縁を巡らす
△軒廻りは二軒繁垂木、組物は柱上に舟肘木があるだけ
△大棟端に鯱、中央に露盤宝珠を配している....正面三間は全て引き戸式の腰高格子戸
△長押の上は白壁の小壁....中央間に「菩提禅寺」の扁額が掲げられている/基壇上に建つが床下に亀腹を設けている
△大棟端に鳥衾付鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束
△本堂正面の縁に置かれた「脚下照顧」の駒形木札/「脚下照顧」とは禅家の語で、自分の足元をよく見よという意
△向拝の両側に設けられた石造り天水桶....向拝軒先から吊り下がる円柱の樋を通して雨水を受ける/境内の隅に置かれた唐獅子瓦....邪気や邪鬼を祓い除けや火除けの縁起物で屋根に乗せる
●本堂に向かって左手前に、室町後期に造立された地藏菩薩石像が低い基壇上に鎮座。 輪郭を巻いた舟形光背に半肉彫りされたこの石像は、廃寺となった大寺院・大般若院少菩提寺の遺仏とされ、まさに、少菩提寺の栄枯盛衰の歴史をしっかりと目に焼き付けてきた石仏だ。
地藏菩薩石像の前にある基壇の上に、野洲川の川向の石部の町並みを遠望するように江戸時代享保八年に造立の三重石塔が立つ。 相輪を乗せた三重石塔の初層軸部の輪郭を巻いた中に「法華塔」と彫られている。 この塔は建立時は山頂に聳えていて、信仰厚く多くの人々が参拝したらしいが、いまは参拝する人はないとのこと.…合掌。
△本堂前に野洲川や石部の町並みを遠望するように石塔や石仏などの石造物が並んでいる
△基壇上に鎮座する室町時代永正十六年(1519)造立の地蔵石仏....少菩提寺の遺品(伝)で、像高114cm
△輪郭を巻いた舟形光背に半肉彫りされた地蔵菩薩像....像右に「三界万霊 法界衆生」の刻/軒付舟形の龕部に二仏が浮き彫り
△銀杏の根元の基壇上に鎮座する墓碑の石造物群....中央付近に頭部をもぎ取られた坐像を乗せた墓碑がある
△3基あるうちの2つの五輪塔だが、右側は五輪塔の上に別の五輪塔の火輪から上を積み重ねたようだ/左は頭部のない坐像を乗せた墓碑、右は2つの五輪塔が浮き彫りされた屋根付き墓碑
△地蔵菩薩造の前に佇む三重石塔....享保八年(1723)の造立で、建立時は山頂に聳えていたのを境内に移転
△相輪を乗せた三重石塔....初層軸部に輪郭を巻いた中に「法華塔」の刻
△境内から眺めた野洲川の向こう岸側の湖南市石部の町並み
△二重円光の光背を背負い、赤い前垂れをした地蔵尊立像/地蔵石仏の傍に置かれた一石造り(と思う)の五輪塔
△入母屋造桟瓦葺で裳腰付の庫裡
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