【滋賀・犬上郡・甲良町】戦国時代の元亀二年(1571)、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにしたが、近江国の比叡山傘下の天台寺院に対しても焼き討ちを命じたことで、西明寺もその運命にあった。 しかし、寺僧が機転をきかし、山門近くの房舎を激しく燃やして全山炎上のように見せかけたため、焼き討ちを逃れたという。 そのため、本堂・三重塔・二天門が火難を逃れ現存している。 本堂は鎌倉時代初期、三重塔は鎌倉後期そして二天門は室町時代中期の建立。
江戸時代には徳川家の庇護を受けて徐々に復興された。 鎌倉時代建立の本堂と三重塔は釘を使用していない純和様建築で、いずれも国宝に指定されている。檜皮葺の本堂は国宝の第一号指定。
「蓬莱庭」奥の鬱蒼とした樹林を抜けると、急に明るい本堂境内に出る。
正面奥の土壇の上に優美な姿の檜皮葺の三重塔、手前左に豪壮な檜皮葺の本堂が鎮座している。 本堂は切目縁を廻らしているが、側面の途中で切れている。 切れているのは内陣と外陣の境で、天台系密教寺院で内陣と外陣の床仕様が異なる例の名残とのこと。 また、和様建築の本堂だが、側面には連子窓でなく禅宗様の花頭窓が設けられている。 興味深いのは蟇股で、身舎の正面と側面の透蟇股が微妙に異なり、さらに向拝水引虹梁の透蟇股は中に彫刻を施したものだが、3種類の蟇股があるのは修築した時代の違いを示すようだ。
お寺の方から「本堂と三重塔は釘を使用しておりません」との説明があり、長期保存を考えた古の工人達の知恵とされる。
三重塔は、本堂南側の土壇の上に、鮮やかな緑に抱かれるように建つが、本堂より少し高い位置に建てられているのは、山岳寺院ならではの堂宇配置を意識してだろうか? 前庭が広いので明るい雰囲気の中で塔全体が眺められ、檜皮葺の大きな軒反りと高い初重の軸部から洗練された様式美が感じられる。
本堂前の杮葺の二天門に、仏敵の侵入を防ぐ天部像が鎮座している。 像高約2mで、精緻で力強い造りの天部像は増長天と持国天らしいが、どちらがどちらなのか分からないそうだ。 天部像に見送られた後、石段の参道を下る。
「蓬莱庭」の樹林から抜けると、正面奥に優美な姿の三重塔、左に豪壮な本堂が建つ
樹林に囲まれた明るい堂宇境内に本堂(瑠璃殿)、三重塔、二天門、観林坊、鐘楼そして手水舎が建つ
入母屋造檜皮葺の本堂(瑠璃殿)(国宝)....鎌倉初期建立の和様建築で釘を1本も使用していない
軒廻りは二軒平行垂木、組物は出三斗、中備は3種類の透蟇股....正面七間は全て蔀戸だが、中央一間は色が異なり新しいようだ
向拝水引虹梁と身舎の蟇股の意匠が異なるのは修築時代の違いのようだ....また身舎側面もこれらと異なる/三間の向拝に擬宝珠のない親柱の登高欄/本堂縁に鎮座する十六羅漢の第一尊者・賓頭盧尊者像
側面の切目縁が途中で切れている....天台系密教寺院の中に外陣が板敷床、内陣が土間(石間)構造の本堂があり、土間部分に縁を設けない名残らしい....正面と側面の蟇股の意匠の違いが分かる
大棟に鳥衾付鬼板、拝懸魚は猪目懸魚、妻飾は豕杈首....側面の窓は連子窓ではなく禅宗様の花頭窓
本堂右手(南側)の土壇に建つ檜皮葺の三重塔(国宝)....鎌倉後期建立で本堂と同じく釘を使用していない
軒廻りは各重いずれも二軒平行垂木、組物は三手先、蛇腹支輪、中備は間斗束だが二重目は中央間のみ、また三重目には無い....各重に板唐戸と連子窓、二重と三重に組高欄
高さ約20mで、逓減率が小さく、二重目・三重目の塔身の立ちが低いのが特徴
本堂の右手の高台に鎮座する流造銅板葺の鎮守社
石造り玉垣に囲まれた石造宝塔(重文)....鎌倉時代嘉元二年(1304)の造立....投身軸部に四方仏が彫られ、基礎輪郭を巻いて格狭間を入れ、中に何かの浮彫りがある
切妻造桟瓦葺の鐘楼
切妻造銅板葺の手水舎と観林坊....右手は本堂
入母屋造桟瓦葺の観林坊....「西國薬師第三十二番霊場」と書かれた聯が掲げられている
本堂正面に建つ二天門と手水舎 手水鉢の龍の水口
二天門越しに眺めた三重塔
入母屋造杮葺で八脚門の二天門(重文)....室町時代応永十四年(1407)建立
軒廻りは二軒平行垂木、組物は二手先、蛇腹支輪、中備は間斗束
二天門左右の金剛柵の中に鎮座する阿形吽形の天部像(増長天と持国天らしいが)....正長二年(1429)造立で、仏師法印院尋の作/火焔を付けた輪光を背負う天部像....像高は両者とも195cmで寄木造り、左の像は右手に戟を持つ(右の像は消失か)
二天門前の石段脇に佇む石燈籠....文化三年(1806)の造立
石段参道脇に鎮座する伝教大師像
十一面観音菩薩像....左手に未開蓮を差した水瓶を持つ/「開山休息石」と刻まれた石碑....三修上人が腰掛けた石らしい
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