何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

宝陀寺 (杵築)

2020年08月29日 | 寺社巡り-大分

【大分・杵築市】石碑に刻まれた由緒では、『恒武天皇延暦二十三年伝教大師唐より帰朝后千手千眼の尊像を刻み一刀三礼の作 豊後国田原別府のこの山に安置す 寺を清水と号し僧坊六坊を置くこれ宝陀寺の前身である。 豊後国主大友氏泰の時その臣田原左近蔵人直平この地の領主たり……途中省略……寺を建て東福聖一国師法孫悟庵禅師を迎えて開山の祖となす これ即ち蟠龍護山宝陀寺なり 時に後醍醐天皇の元應二年三月十日なり』とある。
「延暦二十三年伝教大師唐より帰朝」とあるが、延暦二十三年(804)は最澄入唐の年であり、翌年帰朝したので、正しくは延暦二十四年(805)である。 また、宝陀寺の創建は、「豊後国主大友氏泰の時」で「後醍醐天皇の元応二年三月十日」とされるが、室町幕府で豊後・備前などの守護を務めた大友氏泰は、鎌倉末期元享元年(1321)の生誕なので、宝陀寺創建の元応二年(1320)にはまだ生まれておらず矛盾する。 他に「南北朝時代の正平六年(観応二年(1351))に田原直平が悟庵上人を開山に迎えて播龍山宝陀寺を現在地に創建した」という説もある。 更に、「平安時代の大同三年(808)創建の臨済宗の寺院」という説もあるようだが、寺院とは清水寺のことで、その創建が大同三年(808)なら臨済宗ではなく天台宗なはずだが....。
七堂伽藍を有す大寺で、寺勢が増すとともに末寺が増え、江戸中期には81ヶ寺を有して隆盛を誇った。 室町時代、江戸時代(前期)、明治期そして昭和期(本堂・庫裡を焼失)と4度の火災に遭ったが、その度に再興されて法灯を守り続けている。 宗旨は臨済宗(東福寺派)で、本尊は釈迦如来像。

一般道の参道を上っていくと道端に、室町時代造立の宝篋印塔が立ち、傍の石造り玉垣で囲まれた中に丸彫りの石仏4体が鎮座して参詣者を迎えている。 石仏はいずれも円頂なので地蔵尊像と思う。 石仏前から、宝陀寺境内の入口に立つ仁王像と堂宇の屋根が見える。
「禁葷酒」の戒壇石が立つ石段の上の左右に金剛力士像が露座し、険しい忿怒相で仏敵の侵入を防いでいる。 十数段の石段を上ると、眼前に水をたたえた大きな堀が現れ、堀を真ん中で二分するように山門に向かって参道が真っ直ぐ延びている。 そこから眺める光景はまるで城郭のようで、苔生した高い石垣の上に堂宇が建ち並んでいる。 二十数段の石段を上って江戸初期創建の山門へ。
山門は四脚門で、手前の飛貫の左右に小さなお堂が乗っていて、正面に『仁王像 石造りの大分県一小』の張り紙が。 金属の縦格子の隙間から中を覗くと、暗い中に小さな仁王像が鎮座している。 特に吽形の仁王像には、僅かであるが、造立時のものと思われる色彩が残っていて驚いた。
山門をくぐって切石敷の参道を進むと本堂の前庭に放生池があり、小さな石造り反橋が架かっている。 その先の東面で建つ本堂は、昭和後期建築の鉄筋コンクリート造りだが、古建築様式を殆ど取り入れておらずやや拍子抜け。
境内には珍しい形の石塔や石燈籠や石仏があるが、石塔は異なる石造物の部位を組合せて積み上げたもののようだ。 また本堂前には自然石の石塔と石仏2体が鎮座しているが、「阿弥陀三尊像」を表していると考えられる。 それは、真ん中の石塔の刻銘は「□明遍〇塔」と不明確ではあるが、「光明遍照塔」と彫られていると推察されるので、石塔が阿弥陀仏を表し、左右に鎮座する石仏は脇侍の勢至菩薩と観音菩薩ではと考えられるからだ。

△参道の右脇に佇む宝篋印塔と玉垣に囲まれて鎮座する石仏....宝篋印塔は室町時代の造立(推)で総高267cm、隅飾突起の一部が欠落

△苔生した石造り玉垣に囲まれて鎮座する丸彫りの石仏4体は、円頂から地蔵尊像だろう

△金剛力士像前の石段下に立つ石燈籠は昭和三十七年(1962)の造立、また傍に「禁葷酒」と彫られた小さな戒壇石が立つ

△境内入口の古い石段の上で仏敵の侵入を防いでいる阿形吽形の金剛力士像

△右側の阿形金剛力士像....金剛杵らしきものを振り上げて忿怒の相、上半身裸で頭髪は蔓を結んでいる

△宝陀寺の由緒を刻んだ石碑越しに眺めた石垣上の堂宇

△掘の真ん中に設けられた参道の先の石段の上に山門が建つ....苔生した石垣は城郭のようだ
 
△石垣の間の石の階の上に建つ趣のある山門/山門から見下ろした参道と掘

△入母屋造本瓦葺の山門(四脚門)....江戸時代寛永五年(1628)の建立....元文五年(1740)から6度の修築が行われた
 
△通用口を設けた簡素な袖塀を有す....梁上に脚間に彫刻を施した2つの本蟇股/軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で詰組、軒支輪がある....山門の左右の飛貫の上に小さなお堂が置かれている
 
△小さなお堂の中に大分県で最少の石造り仁王像が鎮座する(造立年及び像高は不明)/僅かに色彩が残る左側の吽形の仁王像
 
△切石敷参道の先に2基の石燈籠に佇み、放生池に架かる小さな石橋(反橋)がある/東面する本堂の正面三間は、中央間に格子戸、両脇間に連子窓

△入母屋造桟瓦葺の本堂....昭和六十二年(1987)再建の鉄筋コンクリート造りで、軒下や廻縁などは古建築の造りになっていない建築
 
△本堂左手前に佇む苔生した珍しい形の石造物....異なる石造物(五輪塔や石幢など)の部位を組合せて積み上げたもののようだ/本堂前に佇む「三尊供養之塔」と刻まれた石造物....石柱に異なる石造物の部位を乗せたもののようだ

△本堂前の石造物は「阿弥陀三尊像」と推察....中央の大きな自然石の刻銘は「〇明遍〇塔」と不明確だが、「光明遍照塔」と彫られているようなので阿弥陀仏を表し、左右の石仏は勢至菩薩と観音菩薩では

△境内南側に建つ握側面に裳腰を設けた観音堂と右奥に経蔵(と思う)

△入母屋造桟瓦葺で妻入りの観音堂.....拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子、簡素な庇を設けた向拝....幟から本尊は千手観音菩薩像

△入母屋造桟瓦葺の経蔵....中央間は格子戸、両脇間は小脇羽目で白壁、周囲に切目縁
  
△観音堂の前に佇む天保十三年(1842)造立の石燈籠/苔生した舟型の飾手水鉢と石灯籠2基/球状の火袋を設けた装飾性の高い石燈籠
 
△舟型の飾手水鉢から眺めた切妻造桟瓦葺の鐘楼

△切妻造り桟瓦葺の庫裡....平成五年(1993)の再建
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