選択された2つの「論理的なもの」と混成された「論理的なもの」と統一された「論理的なもの」。
3つの段階の「論理的なもの」は、それぞれ「自己表出と指示表出」が違う。
例えば、選択された「論理的なもの」(AとA')と統一された「論理的なもの」(B)の違いを表現するとき、指示表出の方は「指示性」が変換されたといえば、過不足のない表現だと思われる。これに対して、自己表出の方は、「指示性」に対応するような適切な表現を持ち合わせていないように思われた。
「弁証法試論」(試論2003)を読み直して、思い当たることがあった。わたしは次のように想定していた。
1 認識の指示表出は対象に対する「指示」の表出である。
2 認識の自己表出は対象に対する「立場」の表出である。
3 表出における「指示」と「立場」は対応している。
表出における「指示」と「立場」は対応していないのではないか。「立場」は、表出の全体と対応し、自己表出には、別のことばが必要ではないかと思われたのである。
これが自己表出の違いを表現するとき、何も出てこなかった原因ではないだろうか。立場性や自己性では感触が違うのである。
自己表出は、対象に対する「立場」の表出ではなく、「関係」の表出であると想定すればよいと思った。
1' 指示表出は対象に対する「指示」の表出である。
2' 自己表出は対象に対する「関係」の表出である。
3' 表出における「指示」と「関係」は対応している。
1'から「指示性」の変換が、2'から「関係性」の変換がもたらされる。3'から「指示性と関係性」の変換がもたらされる。
「指示」と「関係」が根底にあり、この2つが「立場」を構成すると想定すれば、指示表出・自己表出・表出の関係を整合的に把握できるように思われる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます