対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

つれづれ三段階論

2018-05-21 | ノート
『日本文化をよむ』(藤田正勝著、岩波新書、2017)の第3章、長明と兼好の「無常」を読んでいて、立ち止まってしまった。えっ、どうして。わからない。これは違うのではないか。それで、『俗と無常 徒然草の世界』(上田三四二著、講談社、1981)を引っ張り出して、自分の考えを確かめてみた。足を止めたのは『徒然草』第75段に関連した箇所である。次のようにあったのである。
(引用はじめ)
『徒然草』は周知のように、「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、……」と書き始められている。そこでは「つれづれ」は単調で所在のない様子を言い表しているが、それに対して第七十五段で「つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ」といわれるとき、この「つれづれわぶる」という表現はおそらくただ単に無聊を嘆くという意味で用いられているのではない。むしろそこには、自らを縛るものから解き放たれた自由と、そこに実現する閑寂という意味が、そしてそのことによって心を安んずるという意味が込められている。静かな生活のなかで何事によっても心が乱されることのない、どこまでも長閑な心のありようを楽しむという意味あいを兼好はこの「つれづれわぶる」という言葉に込めたのではないだろうか。
(引用おわり)
「つれづれわぶる」が肯定的に捉えられ、その内容が否定的(消極的)なものから肯定的なものに変容させられている。ここが疑問の出どころである。ここに不自然な展開を感じたのである。「つれづれわぶる」は否定的な姿勢と思っていたからである。

第75段を文法と意味にそって読めば、「つれづれわぶる」は否定的である。つまり「ただ単に無聊を嘆くという意味で用いられている」。しかし、そこに兼好は疑問を提示する。そして「つれづれ」から「わぶる」という契機を消去することによって、「つれづれ」に積極的(肯定的)な意味をもたせる。「まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ」としての「つれづれ」である。

「つれづれわぶる人」の「人」は序段を書いた兼好の可能性はあるが、75段の兼好ではない。しかし、藤田の読解は「つれづれわぶる人」の「人」は、75段を書く兼好その人であって、「まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ」という認識をもっているものと想定されているように思える。これが〈4「つれづれわぶる」生〉という節が設けられている理由と関係しているだろう。

しかし、このような捉え方は不自然で奇妙だといわざるをえない。上田三四二の「つれづれ三段階」が素直で自然な読み方だと思う。
(引用はじめ)
「わぶ」べき「つれづれ」から「つれづれ」そのものへ、「つれづれ」そのものから「楽しぶ」べき「つれづれ」へ――この喜ばしき閑暇をかりに閑雅と呼べば、ここにおける無聊から閑暇へ、閑暇から閑雅への三段階の道行きは、それぞれの段階においてそれ自身の面目を一新しながら、「つれづれ」の至境に向かって兼好を押しあげる。
(引用おわり)
「楽しぶ」べき「つれづれ」は75段の「未だ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。」が背景にある。

75段が提示しているのは、「つれづれわぶる」生ではなく「つれづれ楽しぶ」生ではないだろうか。

(注)
第75段(全文)
つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。
世に従へば、心、外の塵に奪はれて惑ひ易く、人に交れば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心にあらず。人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失止む時なし。惑ひの上に酔へり。酔ひの中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。
未だ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事・伎能・学問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止観にも侍れ。