怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

「福島の原発事故をめぐって」山本義隆

2015-09-04 07:17:42 | 
60代の人は名前に記憶がある人がいるかもしれないが、著者の山本義隆は元東大全共闘の議長。東大理学部物理学科の大学院で将来を嘱望されていた研究者であった。全共闘運動に飛び込んでいなければ研究者として名を成していたのであろう。
今は予備校の講師をしており、主に科学史の研究をしていて著書もある。全三巻の大部なので敬して近寄ろうともしていませんが、「磁力と重力の発見」は評価が高く毎日出版文化賞、大仏次郎賞を受賞しています。
そんな著者が福島原発事故について雑誌「みすず」に原稿を頼まれ書いたら少し長くなったこともあって本にしたものです。

100ページ余りのブックレットのようでもあり、科学史の観点から切り込んでありますが、読みやすく専門知識がなくても大丈夫。
科学技術とは科学理論の生産実践への適用なのですが、実験室の理想化された環境で十分制御された微小な対象によって検証された理論から、様々な要因が複雑に絡み合った大規模な生産までの距離は極めて大きい。電気科学理論から電気工学までの距離に比べて化学理論から化学工業までの距離は大きく、そのために公害を生み出し、大きな事故も引き起こしている。しかし、原子核物理学から原子核工学の距離はさらに大きく、大きな困難と問題を内包している。「平和利用」として民生用に転用された原子核技術は実際にはきわめて未熟で欠陥を有したものだった。
原子力の平和利用は国家プロジェクトとして民間資本を巻き込んだ形で進み、当初から危険性や欠陥を小さく見せ否定する習慣ができていた。その欠陥の中心は核分裂生成物「死の灰」の発生という問題です。
生産過程に付随して生じる有害物質を完全に回収して無害化しうる技術がともなって初めてその技術は完成されたと言えるのだが、原子力発電所は原理的に無害化不可能な有毒物質を生み出し続けている未熟な技術と言える。
トイレのない家とよく言われているが、当面は放射性廃棄物はたまり続けるばかりである。仮に恒久的な貯蔵庫ができたとしても、それを数万年以上安全に保管するということに依存する技術というものは有意と言えるのだろうか。
原発はクリーンなエネルギーと喧伝されているが使用済核燃料の再処理、保管には膨大なエネルギーが必要とされる。ウラン鉱石の採掘から原子炉の清掃、メインテナンス、さらには解体に至るまで危険な作業を伴っており、もっぱらそれを人力に依存している危険性の中で、廃棄物の冷却と放射線の遮蔽に要するエネルギーコストはいかほどであろう。
西欧近代社会の最大の発明品は「科学」と技術」ではなくて「科学技術」、科学技術の生産実践への意識的適用としての技術であり、それを発明したがゆえに、西欧近代文明が世界を席巻した。ルネッサンスから科学技術の誕生と発展を概観していくのだが、やがて国家主導科学が誕生してくる。直接的には軍事的必要性生から進められた原子力開発であり、宇宙開発である。いずれも国家が主導して強力な指導性の下、多くの科学者技術者が動員され組織されなくては不可能なプロジェクトだった。
原子力発電はまさに政官財が一体となって、市場原理からも隔離され国家による介入と電力会社に対する保護の下、批判者を排除した翼賛体制で進められてきた。
原子力発電その廃棄物の処理ひとつとっても人間の処理能力を超えており、福島はアンダーザコントロールと大見得を切った人がいますが、とてもそんな状況ではありません。何を根拠にと思うのですが、私が言うのだから正しい、私を信じてくださいというのでは科学史的にはルネンサンス以前への逆行です。将来はともかく現時点では、ある意味人間のキャパシティを超えた技術であり、後世に対する負の遺産を持ち込むものとなっているとしか言いようがありません。
私としては現施設をこのまますぐに廃棄するのがいいのかというと若干異論はあるのですが、将来にわたって原子力発電を一定程度のベース電源とすることについては深い危惧を抱きます。
理系らしく論理は明快で科学史的観点は文系でもなじみやすく読むことができました。

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