東京生まれ東京育ちの浅田次郎はメトロが好きで、度々小説の舞台になっています。
東京の地下鉄は戦前からあったのですが、1951年生まれの浅田にとっては自身の成長にリンクするように地下鉄の路線が延長され新路線が開通しとどんどん便利に変わっていきます。
その時々の変化を自身の成長体験と重ねて描くことによって時代の息遣いが感じられます。
東京と違って名古屋の地下鉄はだいぶ遅れてですが、東山線が開通した時には、叔父に連れられて何の用もなかったのに地下鉄に乗る為だけに栄へ行き、そこから地下鉄に乗って名古屋駅までを往復して帰って来た覚えがあります。乗車した時の様子の記憶は全くないのですが、地下鉄に初めて乗ったことを小学校で自慢したような記憶があります。地下鉄が延伸し新路線が開通した時には自分が何をやっていたかと記憶を手繰り寄せることが出来ます。
で今回の「おもかげ」ですが、関連会社役員を65歳で定年退職した翌日の送別会の帰りに地下鉄車内で脳溢血の発作で倒れた竹脇正一が主人公。
ICUで眠り続ける竹脇のもとを訪れる人々の子どもの頃からの思い出の独白と竹脇は眠っているはずなのに意識はあって、夢幻かこの世のものとも思えない女性と病床を抜け出し街へ出かけて行き過去にさかのぼり願いつつも叶わなかった経験をしていくということが、入子細工のように語られる。
竹脇が彷徨う過去をメトロに乗って移動していくのだが、その頃の駅の在り様とか電車の形式とか車体、シートの色とかが時代を映し出している。地下鉄路線の歩みとともに時代を映し出すこの辺りは「メトロに乗って」と同じような趣向があるのですが、現在と過去を行き来き戻りしつつ人生を語る設定はよくあるパターンと言えばその通りで、そう言えば重松清の「流星ワゴン」も地下鉄でなくてワゴン車ですが、同趣向の設定でしたよね。
この小説の主人公の年齢設定は私とあまり変わらないので時代の細部の記述に共感出来ますが、これをドラマ化するとなると大変でしょう。今はCGで何とかなるか。
親子の情と母への思いとか、恵まれない生い立ちなのに健気に頑張って来た主人公というのも浅田の得意技で、ある意味おなじみなんですけど、やっぱり泣けます。でも、80過ぎてから徐々に進行し、ここ数年化は強情で嫌なところとか基本的な生活習慣も維持できないところで顔を合わせれば喧嘩ばかりとなり、もはや美しい母の記憶はどんどん上書きされて消えてしまい、浅田描く母への思いとか親子の情愛に素直に肯けない自分がいるのが悲しい。たぶんは浅田は認知症になった母とは向き合う機会が幸運にもなかったのだろうな。
この小説は毎日新聞に連載されていたもので、場面転換も適切な長さで読者を飽きさせない。多分連載中は新聞を手に取ると見出しだけをざっと見て、すぐに小説をじっくり読んでから、おもむろに記事を読む人が多かったのではないでしょうか。
もう1冊は宮部みゆきのご存じ三島屋変調百物語シリーズの七の続き「魂手形」。
「語って語り捨て、聞いて聞き捨て」の聞き手は最初の「おちか」から三島屋次男坊の小旦那「富次郎」となって、お勝、おしまの二人の女中に支えられ今回も3人の語り手が訪れます。
第1話の「火炎太鼓」は落語に同じ演目がありますが、これはまったく趣向が違う。お城に大事に管理されていた城下町を火災から守る太鼓です。話はおどろおどろしいことが出てきますが、秘密を知った若侍はどこかで「王様の耳はロバの耳」と叫ばないと耐えられない。三島屋の黒白の間で語り捨てに来ます。
第2話は一途の念。富次郎が贔屓にしている屋台の団子屋の娘が語ります。聞くと切なく悲しい身の上なのですが、おっかさんは身を削っても病身の夫と子どもたちを必死に守りつつ、それでもちゃんと周りの心優しき人たちに支えられてきたのが救いです。語り終えてしばらくするとおみよは姿を消すのですが、どことない魅力があって、またこの物語のどこかで登場してくるような気がします。
第3話の語り手は鯔背な老人吉富。語りの中で浮かんでくるなさぬ仲の義理の母のお竹が脇役ながら何と魅力的なことか。器量は悪く口はめっぽう悪いけど、大柄で力持ち、働き者で心優しいお竹、妻に逃げられた父の伴吉によく尽くした。笑ってしまうぐらい体格差のある蚤の夫婦だけど仲睦まじく暮らした。話は吉富の15歳の頃の妖しくも不思議な体験なんですが、膨らむ話は吉富の大活劇となり魅力的です。
聞き終わると富次郎は話の締めとして絵をかいて落とし込むのですが、何を描くか興味津々。後味が残りますが、読み進めていき今度は富次郎はどんな絵をかくかと予想するのですが当たった試しがありません。宮部さんの想像力の名人芸ですか。
百物語はまだまだ続きそうなので楽しみです。
東京の地下鉄は戦前からあったのですが、1951年生まれの浅田にとっては自身の成長にリンクするように地下鉄の路線が延長され新路線が開通しとどんどん便利に変わっていきます。
その時々の変化を自身の成長体験と重ねて描くことによって時代の息遣いが感じられます。
東京と違って名古屋の地下鉄はだいぶ遅れてですが、東山線が開通した時には、叔父に連れられて何の用もなかったのに地下鉄に乗る為だけに栄へ行き、そこから地下鉄に乗って名古屋駅までを往復して帰って来た覚えがあります。乗車した時の様子の記憶は全くないのですが、地下鉄に初めて乗ったことを小学校で自慢したような記憶があります。地下鉄が延伸し新路線が開通した時には自分が何をやっていたかと記憶を手繰り寄せることが出来ます。
で今回の「おもかげ」ですが、関連会社役員を65歳で定年退職した翌日の送別会の帰りに地下鉄車内で脳溢血の発作で倒れた竹脇正一が主人公。
ICUで眠り続ける竹脇のもとを訪れる人々の子どもの頃からの思い出の独白と竹脇は眠っているはずなのに意識はあって、夢幻かこの世のものとも思えない女性と病床を抜け出し街へ出かけて行き過去にさかのぼり願いつつも叶わなかった経験をしていくということが、入子細工のように語られる。
竹脇が彷徨う過去をメトロに乗って移動していくのだが、その頃の駅の在り様とか電車の形式とか車体、シートの色とかが時代を映し出している。地下鉄路線の歩みとともに時代を映し出すこの辺りは「メトロに乗って」と同じような趣向があるのですが、現在と過去を行き来き戻りしつつ人生を語る設定はよくあるパターンと言えばその通りで、そう言えば重松清の「流星ワゴン」も地下鉄でなくてワゴン車ですが、同趣向の設定でしたよね。
この小説の主人公の年齢設定は私とあまり変わらないので時代の細部の記述に共感出来ますが、これをドラマ化するとなると大変でしょう。今はCGで何とかなるか。
親子の情と母への思いとか、恵まれない生い立ちなのに健気に頑張って来た主人公というのも浅田の得意技で、ある意味おなじみなんですけど、やっぱり泣けます。でも、80過ぎてから徐々に進行し、ここ数年化は強情で嫌なところとか基本的な生活習慣も維持できないところで顔を合わせれば喧嘩ばかりとなり、もはや美しい母の記憶はどんどん上書きされて消えてしまい、浅田描く母への思いとか親子の情愛に素直に肯けない自分がいるのが悲しい。たぶんは浅田は認知症になった母とは向き合う機会が幸運にもなかったのだろうな。
この小説は毎日新聞に連載されていたもので、場面転換も適切な長さで読者を飽きさせない。多分連載中は新聞を手に取ると見出しだけをざっと見て、すぐに小説をじっくり読んでから、おもむろに記事を読む人が多かったのではないでしょうか。
もう1冊は宮部みゆきのご存じ三島屋変調百物語シリーズの七の続き「魂手形」。
「語って語り捨て、聞いて聞き捨て」の聞き手は最初の「おちか」から三島屋次男坊の小旦那「富次郎」となって、お勝、おしまの二人の女中に支えられ今回も3人の語り手が訪れます。
第1話の「火炎太鼓」は落語に同じ演目がありますが、これはまったく趣向が違う。お城に大事に管理されていた城下町を火災から守る太鼓です。話はおどろおどろしいことが出てきますが、秘密を知った若侍はどこかで「王様の耳はロバの耳」と叫ばないと耐えられない。三島屋の黒白の間で語り捨てに来ます。
第2話は一途の念。富次郎が贔屓にしている屋台の団子屋の娘が語ります。聞くと切なく悲しい身の上なのですが、おっかさんは身を削っても病身の夫と子どもたちを必死に守りつつ、それでもちゃんと周りの心優しき人たちに支えられてきたのが救いです。語り終えてしばらくするとおみよは姿を消すのですが、どことない魅力があって、またこの物語のどこかで登場してくるような気がします。
第3話の語り手は鯔背な老人吉富。語りの中で浮かんでくるなさぬ仲の義理の母のお竹が脇役ながら何と魅力的なことか。器量は悪く口はめっぽう悪いけど、大柄で力持ち、働き者で心優しいお竹、妻に逃げられた父の伴吉によく尽くした。笑ってしまうぐらい体格差のある蚤の夫婦だけど仲睦まじく暮らした。話は吉富の15歳の頃の妖しくも不思議な体験なんですが、膨らむ話は吉富の大活劇となり魅力的です。
聞き終わると富次郎は話の締めとして絵をかいて落とし込むのですが、何を描くか興味津々。後味が残りますが、読み進めていき今度は富次郎はどんな絵をかくかと予想するのですが当たった試しがありません。宮部さんの想像力の名人芸ですか。
百物語はまだまだ続きそうなので楽しみです。