昭和46年の出版ですが、こんな考え方があるとは知りませんでした。
伊勢神宮の起源とも密接にかかわっているのですが、通説とはかなり異なった議論です。ほんまかいなと思うのですが、でも読んでいくと説得力があります。
因みに奥付を見ると書写の検印が張ってあります。
昔はちゃんとした本ならどの本にも貼ってあったのですが、今ではトンとみることもなかったので、ちょっとびっくり。
閑話休題。
ふつうは伊勢神宮と呼ばれていますが、正式には皇大神宮。今の場所にできたのは698年12月29日。そのことは「続日本紀」にはっきりと書いてあります。宮川上流の今の別宮の滝原の宮にあった多気大神宮が遷ってきたものです。
どうして今の場所、五十鈴川のほとりの宇治の地に移ったのか。
もともとは川の神をまつる聖地で土地の豪族の信仰の場所。その面では五十鈴川の手洗い場こそカミ祭りの聖地だったとか。その昔の神道の聖地では本殿などなく依り代の岩とか木を拝んでいたのですが(今でも大神神社はご神体は三輪山で、建物は拝殿。山上に依代の大岩があります)、宇治でも五十鈴川手洗い場対岸の樹叢が目標物だったのが原初の姿のはず。
壬申の乱以前ではアマテラス信仰というのは見られないのですが、そこで政権を取った天武、持統は国内をまとめ上げていくために自らの正当性を立証しなくてはならず、古事記、日本書紀の編纂を行っていきます。そこで南伊勢の豪族渡会氏に伝わる神話を乗っ取る形で皇大神宮を伊勢の始めは滝原の宮の地に、そして伊勢地方の豪族の盛衰を反映する形で宇治の地に遷ってきたのです。ちなみに渡会氏はその後代々外宮の禰宜を務めています。
皇大神宮は伊勢地方の地方豪族と民衆のカミに上書きするような形で伊勢の地に建立され、天皇家はカミの妻として斎王を派遣していったのです。
すなわちアマテラスが誕生したのは持統の時代に天皇の絶対的権威への奉仕として時の関係を祖先のつながりのある昔話に再構築する中で生まれたもの。その語り部の宮廷巫女こそ伊勢出身の猿女君だったとか。その巫女のボス的存在が稗田阿礼になります。
よく言われるように天孫降臨におけるアマテラスからニニギへの高天原への降臨は、持統から孫の文武への継承を正当化するものです。伊勢の地方神の神体は太陽で、当初はアマテルと言われ男性神。それが女性神になっていったのは持統天皇がモデルだったと考えるのが一番自然です。
そこから考えると天の岩戸の神話は、今もゲーター祭として神島に伝わる太陽神復活の行事。真冬に衰えた太陽のスピリッツ(アマテラス)の活力の復活祭を表すもの。
草薙剣は、朱鳥元年天武天皇に祟っているというので熱田神宮に送られたとあるのですが、それは単に宮廷から1本の剣を送っただけでその名前は渡会氏が越の国を征服するに天皇から賜った標剣「草薙剣」から連想して勝手につけられたもので渡会氏の地方神話を取り込んだものだろうと。そうすると熱田神宮にある三種の神器の一つという草薙剣はそれほどのものでもない…私は古くからの尾張氏の神剣だと思っていたのですけどね。
皇大神宮の神体の八咫鏡も大和から伊勢に移されたものと思われていますが、日本書紀には「アマテラスを伊勢に遷した」とは書いてあるのですが、鏡を遷したとは書いてありません。ひょっとすると伊勢のアマテルを宇治の現地でまつっていた人たちがツキサカキにかけてまつっていた鏡こそが八咫鏡かもしれないのです。
ヤマトタケルとはそもそも固有名詞ではなくてヤマトの男というほどの名前なのですが、そこに反映されているのは、朝廷に命じられ西へ東へと遠征する渡会氏などの伊勢の体験談が伊勢出身の天語部や猿女らによって宮廷説話に盛り込まれていったもの。だからこそ、「天皇すでに我死ねと思ほす所以か」というような架空の人物ではない人間ヤマトタケルの嘆きの姿が反映されているのです。
ところでなぜアマテラスは当時の都に祀ることなく伊勢の地に遷され皇大神宮に祀られるようになったかというと持統にとっては中央集権・律令制国家としての天皇制を確立する中では原始信仰を集約化した日本神話を完成させたことによってその役目は終わり、敬して遠ざけたということだったのでしょう。持統自身は仏教を信仰していて最初に火葬された天皇。皇大神宮はただの国家統治に必要な道具だったんだ。
とまあ、こうやって読んでいくと整合性もあって説得力もあるのですが、今一つ腑に落ちないのは南伊勢の力はそんなに強かったのかということ。日本神話の成立過程ではいろいろな地方の豪族の神話を組み込んでいるはずで丸ごと南伊勢の神話を取り込んだだけではないはず。大和朝廷の有力豪族は難波にも山城にもいたし、出雲もある。尾張氏も有力だったはず。語り部としての天語部とか猿女が南伊勢出身だったので色濃く織り込まれたというだけで日本神話は伊勢地方の神話を換骨奪還したものにはならないはず。語り部が伊勢出身というのはどこまで実証されているのでしょうか。
ドンドン疑問が膨らんでしまい伊勢神宮についてもっと調べてみたい気になります。
伊勢神宮の起源とも密接にかかわっているのですが、通説とはかなり異なった議論です。ほんまかいなと思うのですが、でも読んでいくと説得力があります。
因みに奥付を見ると書写の検印が張ってあります。
昔はちゃんとした本ならどの本にも貼ってあったのですが、今ではトンとみることもなかったので、ちょっとびっくり。
閑話休題。
ふつうは伊勢神宮と呼ばれていますが、正式には皇大神宮。今の場所にできたのは698年12月29日。そのことは「続日本紀」にはっきりと書いてあります。宮川上流の今の別宮の滝原の宮にあった多気大神宮が遷ってきたものです。
どうして今の場所、五十鈴川のほとりの宇治の地に移ったのか。
もともとは川の神をまつる聖地で土地の豪族の信仰の場所。その面では五十鈴川の手洗い場こそカミ祭りの聖地だったとか。その昔の神道の聖地では本殿などなく依り代の岩とか木を拝んでいたのですが(今でも大神神社はご神体は三輪山で、建物は拝殿。山上に依代の大岩があります)、宇治でも五十鈴川手洗い場対岸の樹叢が目標物だったのが原初の姿のはず。
壬申の乱以前ではアマテラス信仰というのは見られないのですが、そこで政権を取った天武、持統は国内をまとめ上げていくために自らの正当性を立証しなくてはならず、古事記、日本書紀の編纂を行っていきます。そこで南伊勢の豪族渡会氏に伝わる神話を乗っ取る形で皇大神宮を伊勢の始めは滝原の宮の地に、そして伊勢地方の豪族の盛衰を反映する形で宇治の地に遷ってきたのです。ちなみに渡会氏はその後代々外宮の禰宜を務めています。
皇大神宮は伊勢地方の地方豪族と民衆のカミに上書きするような形で伊勢の地に建立され、天皇家はカミの妻として斎王を派遣していったのです。
すなわちアマテラスが誕生したのは持統の時代に天皇の絶対的権威への奉仕として時の関係を祖先のつながりのある昔話に再構築する中で生まれたもの。その語り部の宮廷巫女こそ伊勢出身の猿女君だったとか。その巫女のボス的存在が稗田阿礼になります。
よく言われるように天孫降臨におけるアマテラスからニニギへの高天原への降臨は、持統から孫の文武への継承を正当化するものです。伊勢の地方神の神体は太陽で、当初はアマテルと言われ男性神。それが女性神になっていったのは持統天皇がモデルだったと考えるのが一番自然です。
そこから考えると天の岩戸の神話は、今もゲーター祭として神島に伝わる太陽神復活の行事。真冬に衰えた太陽のスピリッツ(アマテラス)の活力の復活祭を表すもの。
草薙剣は、朱鳥元年天武天皇に祟っているというので熱田神宮に送られたとあるのですが、それは単に宮廷から1本の剣を送っただけでその名前は渡会氏が越の国を征服するに天皇から賜った標剣「草薙剣」から連想して勝手につけられたもので渡会氏の地方神話を取り込んだものだろうと。そうすると熱田神宮にある三種の神器の一つという草薙剣はそれほどのものでもない…私は古くからの尾張氏の神剣だと思っていたのですけどね。
皇大神宮の神体の八咫鏡も大和から伊勢に移されたものと思われていますが、日本書紀には「アマテラスを伊勢に遷した」とは書いてあるのですが、鏡を遷したとは書いてありません。ひょっとすると伊勢のアマテルを宇治の現地でまつっていた人たちがツキサカキにかけてまつっていた鏡こそが八咫鏡かもしれないのです。
ヤマトタケルとはそもそも固有名詞ではなくてヤマトの男というほどの名前なのですが、そこに反映されているのは、朝廷に命じられ西へ東へと遠征する渡会氏などの伊勢の体験談が伊勢出身の天語部や猿女らによって宮廷説話に盛り込まれていったもの。だからこそ、「天皇すでに我死ねと思ほす所以か」というような架空の人物ではない人間ヤマトタケルの嘆きの姿が反映されているのです。
ところでなぜアマテラスは当時の都に祀ることなく伊勢の地に遷され皇大神宮に祀られるようになったかというと持統にとっては中央集権・律令制国家としての天皇制を確立する中では原始信仰を集約化した日本神話を完成させたことによってその役目は終わり、敬して遠ざけたということだったのでしょう。持統自身は仏教を信仰していて最初に火葬された天皇。皇大神宮はただの国家統治に必要な道具だったんだ。
とまあ、こうやって読んでいくと整合性もあって説得力もあるのですが、今一つ腑に落ちないのは南伊勢の力はそんなに強かったのかということ。日本神話の成立過程ではいろいろな地方の豪族の神話を組み込んでいるはずで丸ごと南伊勢の神話を取り込んだだけではないはず。大和朝廷の有力豪族は難波にも山城にもいたし、出雲もある。尾張氏も有力だったはず。語り部としての天語部とか猿女が南伊勢出身だったので色濃く織り込まれたというだけで日本神話は伊勢地方の神話を換骨奪還したものにはならないはず。語り部が伊勢出身というのはどこまで実証されているのでしょうか。
ドンドン疑問が膨らんでしまい伊勢神宮についてもっと調べてみたい気になります。