島根県松江市の教育委員会が「はだしのゲン」を閲覧禁止・閉架式にするよう市内小中学校に口頭要請したそうだ。すると校長らはそれに従ったらしいことが報道された。
同著の内容を心配するならネットやコンビニや書店でエロ雑誌を熱心にみている子供たちの方を心配した方がいい。まったくに愚かな教育委員会である。
また、内心では「?}と思いながらも思考停止して要請に従った校長たちも全くに愚かだ。そのような圧力をかけた市議会の議員も極めて愚かだ。まったくに子供たちを取り巻く現状を理解していない。
「はだしのゲン」を読んだ世代はもはや50代である。彼らにどのような精神的偏向が見られるであろうか?
同著を批判するなら残酷なシーンを批判するより、歴史的事実をどのように扱っているか、その問題を指摘すべきだろう!(個人的には中国における皇軍の蛮行には間違いが多いので、その意味でその部分だけは訂正付箋を入れた方がいいと考える)
教育委員会は形式上学校に命令を出すことはまずない、できないといった方がいい。あくまで要請というお願いでしかない。しかし、校長たちは保身のためにどのような要請でも唯々諾々としたがうのだ。
たとえそれが子供たちに不幸な結果をもたらしてもである。
ところで前野毅という方が以下のようの記事を配信していて、その中で校長たちの従属的態度を見逃せないと指摘された。全くにそのとおりである。
しかし、今の日本のどこの公立学校に教養と気骨のある校長がいるか!いるはずがないことを氏は御存知ないのだろうか?通達などを守ることになんらの疑問を持たない者ばかり(しか)が教頭・校長になっているのが現状である。
文科省にとっても、各県教育委員会にとっても思考しない管理職ほどいいものはいないのだから。
<はだしのゲン>松江市教委、貸し出し禁止要請「描写過激」
毎日新聞 8月16日(金)19時22分配信
漫画家の故中沢啓治さんが自らの被爆体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」について、「描写が過激だ」として松江市教委が昨年12月、市内の全小中学校に教師の許可なく自由に閲覧できない閉架措置を求め、全校が応じていたことが分かった。児童生徒への貸し出し禁止も要請していた。出版している汐文社(ちょうぶんしゃ)(東京都)によると、学校現場でのこうした措置は聞いたことがないという。
ゲンは1973年に連載が始まり、87年に第1部が完結。原爆被害を伝える作品として教育現場で広く活用され、約20カ国語に翻訳されている。
松江市では昨年8月、市民の一部から「間違った歴史認識を植え付ける」として学校図書室から撤去を求める陳情が市議会に出された。同12月、不採択とされたが市教委が内容を改めて確認。「首を切ったり女性への性的な乱暴シーンが小中学生には過激」と判断し、その月の校長会でゲンを閉架措置とし、できるだけ貸し出さないよう口頭で求めた。
現在、市内の小中学校49校のうち39校がゲン全10巻を保有しているが全て閉架措置が取られている。古川康徳・副教育長は「平和教育として非常に重要な教材。教員の指導で読んだり授業で使うのは問題ないが、過激なシーンを判断の付かない小中学生が自由に持ち出して見るのは不適切と判断した」と話す。
これに対し、汐文社の政門(まさかど)一芳社長は「原爆の悲惨さを子供に知ってもらいたいと描かれた作品。閉架で風化しないか心配だ。こんな悲しいことはない」と訴えている。
「ゲン」を研究する京都精華大マンガ学部の吉村和真教授の話 作品が海外から注目されている中で市教委の判断は逆行している。ゲンは図書館や学校で初めて手にした人が多い。機会が失われる影響を考えてほしい。代わりにどんな方法で戦争や原爆の記憶を継承していくというのか。
教育評論家の尾木直樹さんの話 ネット社会の子供たちはもっと多くの過激な情報に触れており、市教委の判断は時代錯誤。「過激なシーン」の影響を心配するなら、作品とは関係なく、情報を読み解く能力を教えるべきだ。ゲンは世界に発信され、戦争や平和、原爆について考えさせる作品として、残虐な場面も含め国際的な評価が定着している。
「はだしのゲン」問題からみえる日本の教育 前野毅: フリージャーナリスト 2013年8月17日 11時11分
島根県松江市の「はだしのゲン」問題が波紋をひろげている。日本の教育の現実を目の前につきつけられたようで、たまらない。
「はだしのゲン」問題と書いたが、そのような呼び方が定着しているわけではない。島根県松江市教育委員会(市教委)が、作品のなかに過激な描写があるという一部の市民からの指摘をうけ、昨年12月の校長会で書庫などに納めて子どもたちが自由に閲覧できない閉架図書にするよう要請、これに従った市立小中学校が従った、というのだ。
広島で被爆した漫画家の故・中沢啓治氏が自らの体験をもとにして描いたのが「はだしのゲン」で、いまでは原爆の悲惨さを訴える作品として全世界的に評価を高めている。そういう本を子どもの目にふれさせないようにする市教委の措置が8月16日に伝えられると、ネットを中心に批判の声があがった。反原爆から反原発(反原子力発電所)につながる動きを封じた、と受け取っているようだ。
市教委は閉架にした理由を、原爆にはふれず、旧日本軍がアジアの人々の首を切り落としたり、銃剣術の的にする場面が過激だ、と説明しているらしい。いっさい原爆にふれないところが、原爆にこだわっているようにおもえる。
これから「はだしのゲン」問題の波紋は、ますますひろがっていくにちがいない。反原発の動きとも密接にからんでいくことだろう。ただし、ここで問題にしたいのは、そちらではない。
市教委からの要請を校長たちはすんなりとうけいれ、さらに教員たちもおとなしくしたがった。こちらも軽視できない問題である。
報道をみるかぎり、閉架になった当時、現場の教員、または父兄がこれを問題にしたということはなかったらしい。「問題意識の低さ」と言ってしまえば終いだが、東京電力福島第一原子力発電所事故があったにもかかわらず、そこに関心をはらわない教員ばかりの教育現場というのではさびしいかぎりだ。
関心をもつ教員がいたとしても、そんな存在は問題にもされない市教委の「強さ」なのだろうか。市教委のおもうがままになっているのが、島根県松江市の実態なのだろうか。
松江市にかぎらず、日本における教育現場の現実なのかもしれない。多様化が求められる時代といいながら、教育現場では多様化ではなく、号令一下でものごとが決まっている。議論が起きる土壌も、それを受け入れる土壌すらもないようだ。
そういう現実で教育される子どもたちにの未来は、はたして明るいものなのだろうか。子どものための教育は、土壌改良からはじめなければならない事態になっているのかもしれない。