暖簾 価格:¥ 420(税込) 発売日:1960-07 |
|
花のれん 価格:¥ 540(税込) 発売日:1961-08 |
大阪薄謝協会製作のこのドラマはたぶん昭和41年4月放送開始です(考えてみたら「おはなはん」と同時期ってこと?そうだったかなあ)。
山崎豊子さんの小説「暖簾」-大阪の昆布屋、吾平(長門裕之)とその妻(高森和子)、息子(入川保則)、娘(伊藤友乃-いや違う、忘れた)の物語-と「花のれん」-寄席の女主人、多加(南田洋子-吉本興業の創始者、吉本せいさんがモデル)と番頭(藤岡琢也)、女中(林美智子)、それにエンタツ、アチャコ、春団治、松鶴、小さんetc芸人たちの物語-というほとんど接点のない2つのストーリーが同時進行するかなりムチャなドラマだったにもかかわらず茂木草介氏の台本とキャスティングのよさでけっこう成功してたんじゃないかと思います。
お話は吾平の少年時代から始まり、彼が最初に雇われた店の嬢はんが多加という設定。ほぼ同年の二人は大の仲良しだったから、大人になって実際に夫婦の二人が演じるようになると、当然ドラマの中でも結婚するものと期待してた人が多かったらしいです。私はその辺見ていない。
見始めたのは新聞で「藤岡琢也」の名前を見たからだと思います。別にに誰のファンでもなかったんだから他に考えようがない。すぐに原作をゲトして読んだから途中からでも別にとまどうことはなかったのでした。
なんてことを突然言い出したのはなぜかと言えば
「藤岡さん、ほんとにヤジさんだった時よりガマ口だった時間の方が長かったのかなあ」という疑問が浮かんだからです。
「花のれん」の多加は小説が始まった時点ですでに商家の嫁にして一児の母。義父が亡くなると甲斐性無しの亭主がアッサリ店をつぶしてしまい、道楽者だけあって「寄席をやりたい」などと言うから「ほなつき合いましょ」となったのでした。番頭ガマ口の登場はそれ以後、確か彼は商売よりも芸能界のプロだったハズですから。
TVの場合はその前の嬢はん時代、嫁入までのあれこれ、間に吾平の商売も入れなくちゃいけない-となると多加夫婦が寄席を始めるまでに3-4カ月はかかったんではなかろうかと・・・・・
とは言え7月頃には寄席を始めてないと、その後の多彩なエピソード-亭主の急死、落語家や漫才師とのあれこれ、安木節の大ヒット、関東大震災、市会議員とのはかない恋、そしてお約束の戦争-をこなせないだろうし、多加の方が吾平より先に死んだんだし・・・・
(多加が倒れたと聞いて病院へ駆けつけた吾平とガマ口
ガ「あんさん、嬢はん好きでおましたの?」
吾「そんな、嬢はんの前では、わてなんぞお日さんの下へ出たモグラみたいなもんですがな。あんさんこそ、どないですねん?」
ガ「あんさんがモグラやったらワイは御寮人さんの前ではミミズですなあ」-ねえ、何もそこまで卑下することないんじゃない?あ、これミミズに対する侮辱かも))
約9カ月はガマ口だった。ヤジさんだったのは前後合わせてもせいぜい7カ月だった、やっぱガマ口の方が長いか・・・またどっちも負けず劣らず決まってたもんなあ・・・・・