2022/2/6 マタイ伝27章15~26節「大きい声が勝ったのか」
「使徒信条」で「主は…ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と私たちは告白します。今日の箇所はそのポンテオ・ピラトが、まさしく主イエスを十字架へと引き渡した件(くだり)です。
- 「十字架につけられよ」
11~14節では、総督ピラトの元にイエスが連れて来られたけれども、祭司長や長老たちがイエスの処刑を訴えても、イエスがひと言もお答えにならなかったので総督が非常に驚いたとありました。その裁判をどう持って行くか、というところで出て来るのが、
15…総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。
という習慣です。そして、その時バラバという「名の知れた囚人」がいました。新改訳2017で「バラバ・イエス」という写本の読みがより正確な本文だろうと、採用されました。そこで、
17…人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
という対比が一層引き立つようになりました。こうしてピラトは群衆の声に任せたのです。
18ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
イエスの無罪はピラトも分かっていた、というのです。当時の史料を見ると、ピラトは冷酷な政治家で残忍なところがあり、あまり良い評価はされません。ですがマタイの福音書では、ピラトがイエスの正しさを確信して、その処刑には最後まで反対したと描かれています。
19…彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
ピラトはこの妻の夢を通しても、イエスの正しさを知っていました[1]。しかし、それならば祭りの際の恩赦を誰にするにせよ、それ以前に、イエスは無罪放免にすればよかったのです。「この人は正しいから釈放する」といえば良かったのに、「関わらない」ことを選んでしまいました。妬みで訴える祭司長や長老たちの鼻を明かしてやろうと群衆たちに問うたばかりに、引き戻せなくなってしまいました。もっと言えばピラトも競争や妬みの人でした[2]。
祭司長や総督のパワーゲームや妬みや権力の乱用、群衆たちの説得され易さ、バラバを釈放させ、キリストを「十字架につけろ」[3]と激しく叫んで聴く耳を持てなくなる。罪や誤算や集団心理、様々な要素が絡んで、最終的にピラトはバラバを釈放し、イエスを引き渡したのです。
2.「十字架につけるために引き渡した。」
この引き渡されることをイエスは以前から何度も予告されていました[4]。ですからここでも、もしピラトがイエスを釈放していれば…群衆が冷静になり謙っていれば…それでもピラトに勇気があったら…れば…たら…ではないですね。この時だけでなく、人が醜い妬みで、誰かを陥れる。それを止められる人も、一矢報いてやろうと愚かな選択をしてしまう。或いは、悪意の吹聴に説得されてしまって、歯止めが利かなくなる。責任放棄して「私のせいじゃない」と人のせいにしたり[5]、逆に無責任に「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」と自分の首を絞めたり…。大なり小なりそういう泥沼が、聖書でも歴史の中でも、私たちの回りでも、起きているのではないでしょうか。人の小さな嫉妬や競争心、無責任さがどれほど暴力的か。どれほど破壊的な結果を招くのか。その事がこのピラトの裁判の顛末に暴露されています。
「ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け」
は、ピラトが悪い奴だ、ピラトのせいだ、と非難したいからではなく、イエスの苦難の歴史性に重点があります[6]。イエスはまぎれもなく、紀元1世紀のある十年間にローマから派遣されてユダヤ総督となったポンテオ・ピラトという実在の人物の統治下でイエスは苦しみを受けられた[7]。この世界の妬みや悪意の中、剣が支配したり、大きな声で裁きが曲げられたりして、不当な苦しみや惨たらしい十字架さえ作り出すこの世界のただ中にイエスは来られて、踏みにじられて殺される一人となった。それが歴史的な事実であると、「ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け」と「使徒信条」は告白するのです。
3.「バラバを釈放し」
この裁判は、大きい声に押し切られたように見えるかもしれません。イエスが敗北して、悪が勝利したようにも思えます。しかしこの事において、イエスは苦しむ人々、大きい声にかき消された声なき人々と一つになっておられます。祭司長や長老のねたみ、その妬みに一泡吹かせてやろうと結局は競争心に囚われているピラトの過ちを、責めたり非難したり正そうとはなさいません。しかしその事で、バラバが釈放されました。そして、この後の十字架において、私たちの救いのため、神のものとして買い戻すため、ご自分のいのちを捧げてくださいました。バラバの代わりとなり、私たちの代価となる。これがイエスの正義でした。
大きい声が勝ったように見えても、その敗北を通してさえなされる、神のいのちの業です。私たちのいのちのために、イエスはどんな不正や屈辱、十字架も厭わずに、ご自分を与えられました。このイエスの裁判で、イエスへの憎しみや有罪かどうかより、バラバが釈放されたことは象徴的です。
ピラトへの非難がお門違いのように、25節の群衆の暴言がユダヤ人の迫害を正当化するわけではない事も確認しておきます。この言葉を根拠に、ユダヤ人が迫害され、虐殺されてきたのは、恥ずべき聖書の曲解です。誰もが無責任な誓約をした事があるでしょう。
イエスはバラバにも「十字架刑が相応しい」とは考えず、彼を釈放されました。ピラトも祭司長も群衆も、ユダヤ人も、そして私たちも、この主イエスによって救われるのです。イエスの血は、呪いとしてではなく、救いをもたらすため、すべての人のために流されました。このイエスが、私たちを罪の報いの呪いからも、妬む心や競争心からも、責任放棄からも救ってくださるのです。この方が、私たちの主です。大きな声が勝ったり、人の過ちで台無しになったりする世界ではない、主の恵みの支配があることを信じるのです。
その名を聖と唱えられる方が、こう仰せられる。
「わたしは、高く聖なるところに住み、
心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。…
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。
わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、
慰めを報いよう。」 (イザヤ書57章15~18節) [8]
ピラトの裁判から教えられましょう。
一つ、イエスの正しさは明らかなのに、ピラトや大祭司の妬み、無責任さ、群衆の勢い、様々な要素によって、イエスは十字架刑に引き渡されました。それは、この世界の悲惨さをよく現しています。
二つ、その罪や悲惨で押しつぶされる者と同じようになってくださったのが、イエスの有罪判決です。これは本当に起きた出来事です。
三つ、この出来事によってバラバが釈放されました。イエスはご自身の有罪を判決よりも、私たちのいのちの救いを果たされました。これがイエスの正義です。罪の赦しと新しいいのちを与える正義です。
ピラトの裁判が無茶苦茶なようでも、そこには、罪人の赦しと神の国が始まっていました。イエスの福音は、この裁判を通してもこの世界の中に、密かに確かに進んでいました。私たちはこれを信ず、と告白するのです。
「主イエス・キリスト。ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受けたあなたが、私たちを苦しみや妬みや殺伐とした闇から救ってください。醜い思いに囚われ、大きな声を競いそうな時、静まらせてください。今日の箇所から自分に重なって示された罪を、御前に言い表し、十字架がこの私のためであったと告白します。どうぞ主の赦しとそれを癒やして余りある恵みを戴かせてください。その赦され、癒やされる恵みを届ける器として、私たちを新しくしてください。私たちの唇と心を、あなたを賛美する歌声に満たし、やがて世界をその歌声が満たしますように」
脚注:
[1] マタイ一章二章では、神が夢を使ってお語りになりました。ここでもピラトの妻の夢で、ピラトはイエスを「正しい人」と知ったのです。
[2] 箴言27章4節「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前には、だれが立ちはだかることができるだろうか。」、ローマ2章1節「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」自分自身のねたみを扱うことが出来ないから。ピラトが、妬みと無縁だから気づけた、のではなく、自分自身がねたみを常に持っていたから、だろう。
[3] この「十字架につけろ」スタウローセートーは、文法的には、三人称受動態の命令形です。ピラトに十字架につけろと命じる(スタウローソン。マルコ15:13、他)ではなく、イエスは十字架につけられてしまえ、つけられるべきである、というニュアンスです。
[4] マタイの福音書20章19節(異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」)、26章2節(「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」)。この語パラディドーミは「裏切る」とも訳されます。26章21節(皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」)、23節(イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。24人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」25すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。)、46(立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」)、48(イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。)
[5] 「水で手を洗う」は、申命記21章6~7節(刺し殺された者に最も近いその町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、7証言して言いなさい。「私たちの手はこの血を流しておらず、私たちの目はそれを見ていない。)をピラトが知っていたからでしょうか。
[6] 「使徒信条」は、紀元二世紀の記録があります。その背景には、「霊肉二元論」の世界観に立ち、神の創造もイエスの受肉も否定する「グノーシス主義」との決別が意識されています。本項でいえば、イエスの肉体における苦難の現実性・歴史性を否定する考えとの決別です。
[7] ポンテオ・ピラトは、紀元26~36年にユダヤ総督として在任。Wikipedia も参考になります。
[8] 詩篇37篇1~4節「悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ 青草のように枯れるのだから。主に信頼し 善を行え。地に住み 誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」