聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ヨハネ三章1~17節「新しくされる」はじめての教理問答38~41

2018-10-08 07:24:22 | はじめての教理問答

2018/9/30 ヨハネ三章1~17節「新しくされる」はじめての教理問答38~41

 今日は、初めての教理問答の38から41を開きましょう。前回は、アダムとエバが「いのちの契約」を破った時に、人間の歴史には決定的な変化が起きたこと、私たちもその影響を受けて、罪と惨めな状態にあることをお話ししました。

問38 生まれつき、あなたの罪はどのようなものですか?

答 あらゆる部分において、わたしは堕落したものです。

問39 わたしたちがアダムから受けついだみじめな性質のことを、なんといいますか?

答 原罪です。

 「いのちの契約」が破られて、人間が神との関係を断ち切った時から、人間は生まれつき罪が入りました。それは

「あらゆる部分」

に及んでいます。私たちのあらゆる部分がひどく罪に病んでいます。

 こう例えてみることが出来ます。最初の水は、きれいな水です。美味しいわき水です。これが創られた最初の時の人間の状態です。次は、泥か毒が入って飲めなくなった状態です。最後は、真っ黒に汚れた状態です。こちらは完全悪とも言われます。

You, Sin and the Christ - Simple Illustration  

「あらゆる部分において堕落している」

とはこの最後のような状態ではありません。完全に罪だけになっているのではありません。しかし、この水はどこかが毒されていて、そうでないところを探して飲む、ということは出来ません。悲しい事に、神との関係を捨てた人間は、あらゆる所に罪が陰を落としています。私たちの考えや感情、意思、あらゆる所に、罪の影響が受けていて、不完全になっている、と聖書は言うのです。神との関係が損なわれたことの結果は、私たちの生活全体、考え方、生き方に大きな影響を与えています。それは決して小さなことではありません。

 聖書が言う罪は、神の御心に反することで、決して極悪人だとか、邪悪だということではありません。私たちの考えや感情が全部不潔だとか、我が儘だとか下心があるとか、そんな風に決めつけるなら、かえって恐ろしい世界を生み出すことになります。聖書がいう罪は、神の基準をそっちのけにしてしまうことです。聖書が言う原罪は、人間に染みついた悪とかひどい心根という以上に、アダムから受け継いだ惨めな性質のことなのです。その結果が醜い考えやいろいろな罪になります。私自身、沢山の醜い思いがあります。見栄を張ったり、妬んだり、人を馬鹿にしたり、操作しようとしてしまったりする者です。でも、問題は、それだけではありません。もっと根にある、神との関係を壊してしまった「原罪」の状態が解決されなければならないのです。

問40 このような惨めな性質を持ったまま、天国にゆくことができますか?

答 いいえ。イエスさまを信じ、天国にいくためには、わたしたちの心がかえられなければなりません。

問41 このように心がかえられることを、なんといいますか?

答 新しいいのち、または新生です。

 すばらしいですね!そう思いませんか?「私たちはこのまま天国に行くことは出来ない、のどこが素晴らしいんだ?」と思うかも知れません。私たちに原罪があるままで、天国に行けた方が素晴らしい、と思うでしょうか。よく考えたらそうではないでしょう。原罪の惨めさを抱えたままでは、私たちは永遠に心に惨めな思いを抱えたまま、過ごすのでしょうか。そうではないのです。私たちの心が変えられる必要があるのです。

 今日のヨハネの福音書3章、ニコデモとイエスの会話です。このニコデモは、当時の宗教の偉い学者だったようです。聖書を教えて立派に生きていたのでしょうか。その彼が夜中にこっそりイエスの所にやって来ました。イエスは彼の心にある理由を見抜いて、

ヨハネ三3「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

 ニコデモは神の国を見られるか、不安でした。宗教の教師として、人から尊敬される立場にいても、その確信は持てなかったのです。自分は本当に神の国を見られるのだろうか、神は私を神の家に受け入れて下さるのだろうか。その不安を拭うために、宗教に走ったり、善行を積んだりしても、人間の側の行いは、心を清めることは決して出来ません。私たちの罪の心に沢山水を注いだり、くみ出したりしても、到底間に合わないくらい、人間の心は深く、神との関係が断たれた影響は底知れないのです。

 こんな↓説明もありますが…

Illustration of Man's life - Short Inspirational Video - www.cityharvestag.org

↑ この動画はぼくは賛成しません!

その解決はイエスが仰った通り、「新しく生まれなければ」以外にありません。そして、このヨハネ3章の話の流れで、有名な3章16節の言葉が出て来るのです。

16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 神が私たちの所に、ひとり子をお与えになりました。人が、原罪の中で滅びるのを良しとされず、また人間が自浄努力をするのを待ち、良い行いをしたものだけを救ってあげる、でもありません。そして原罪があるまま、不安や闇には目を瞑って、それを癒やそうともせずにただ受け入れるというのでもありません。私たちが御子と出会って、御子イエス・キリストを知って、ああ神とはこんな方なのか、神は私をそう見ておられたのか、そう信じるようになる。それは、ただ私が信じるとか、キリスト教に同意するという以上に、神が私たちの心を新しくしてくださること、私たちに新生を与えてくださるという大きな出来事なのです。

 そうして神は私たちを神の国に入れて下さるのです。

 洗礼が象徴するのは、キリスト者とは「よい人」ではなく「新しくされた人」だという事実です。罪の心を良い行いで覆おうとするのでなく、この心をも新しくなさるイエスを信じて生きる人。それがキリスト者です。原罪の惨めな状態から、神の子どもとされた喜びへ。私たちは、自分が全的に惨めである事実を受け入れてよいのです。そして神が私たちを新しくしてくださることを信じます。私たちはもう神の子どもであり、心に神との関係を戴いています。徐々に、神の子どもとして成長している途中なのです。

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創世記1章26節~2章3節「ともに過ごす愛」 5つの愛の言葉⑥

2018-10-08 06:28:17 | 愛を伝える5つの方法

2018/10/7 創世記1章26節~2章3節「ともに過ごす愛 5つの愛の言葉⑥」

 「5つの愛の伝え方」の5回目です。肯定的な言葉、仕える行為、贈り物、スキンシップ。愛である神はこうした様々な愛の伝え方を造られ、人それぞれに愛の伝え方の優先度や必要を違うようになさいました。これが分かると夫婦や親子のこじれも随分スッキリするでしょう。

1.時のはじまり

 今日は五つ目の充実した時間(クォリティタイム)です。現代の特徴の一つは「恐ろしい程の孤独」だと言われています[1]。豊かな経済やテクノロジーで、安心して生きられるようになったはずが、むしろ淋しい、孤独だ、誰も分かってはくれない、という思いは強くなりました。その結果の病気やキレやすさ、社会問題は深刻です。言葉やお金や物ではなく、時間を掛けて一緒にいてくれて、自分の思いを聴いてくれる…そういう関係が必要です。

 自分と一緒に過ごしてくれるかどうか、それは本当に愛されているのだと感じる上で、とても不可欠なことです。後回しにせず、ぜひ時間を取って、家族とともに過ごしましょう。会話を遮ることなく聴いて、気持ちに耳を傾けましょう。明るい話だけでなく、重い気持ちも、そのままに分かち合って、どんな内容でも、心から「話してくれてありがとう」「一緒にいられて嬉しい」と伝え合いましょう。

 来週から「聖書の全体像」をお話ししていきます。聖書の物語そのものが、神が私たちと一緒に過ごしてくださる歴史です。聖書の中だけでなく、私たちの世界や歴史そのものが、神が私たちとともに歩んでくださる世界なのです。今もそうです。私たち一人一人の毎日の生活、生まれてから死ぬまでの生涯も、この世界の歩みそのものもそうです。神がともにおられ、一緒に時を過ごしてくださっています。

 聖書は、神が私たちに与えられた義務や規則を書いているだけの書物ではありませんし、立派で敬虔な信仰者たちの英雄伝でもありません。私たちが何かをするしない以前に、神は私たちとともにおられます。

 「王なる神が、私たちを導き、完成させる」

との希望が聖書の土台です。そして、だからこそその神の民として歩む倫理が(条件ではなく結果として)命じられるのです。神が私たちを愛され、ともにおられるように、私たちも互いを精一杯大事にし、愛し合う、ともに過ごす関係を育てなさいと言われるのです。

 創世記一章には、神が天地を創造された経緯が書かれています。神は世界を六日間掛けて創造されたと言い表されています。空や陸や植物、天体や鳥や魚、動物、そして最後に人間をお造りになりました。こうして二章、天地創造が完成された最初に神が何をなさるかと言うと、

「なさっていたすべてのわざをやめられた」

のです。

「すべての創造のわざをやめられた」

のです[2]。創造のお仕事は止めて、祝福の第七日となさり、人間も当然、一緒に休んだのです。他の神話は「神々が喧嘩して世界が出来た」とか、神が造った世界に邪魔が入って、今の問題だらけの世界になったと考えます。世界に愛想を尽かします。それと比べて聖書は世界に対して楽観的です。神は世界を良い世界として見ておられ、人間を祝福され、すべての仕事を止めてまでともにいてくださる。神は私たちとともにいる時間として、この世界を造られたのです。

2.それでも、神はともにいます

 神は時を通して働かれます。時間は「神の御手」です[3]。神は時間を通して、時間を掛けて働いてくださいます。世界の歴史にどんな紆余曲折があっても、必ず最後には聖とされ、神の目的を完成させると信じて良いのです。この創世記の創造記事はこの約束で締めくくるのです。

 この後二章4節からは、神が与えた約束を人が破り、神との断絶が始まって、人間もお互いに支配しよう、競争し争い合い、別れていく現実が展開していきます。これでもかとばかりに、人間の歩みが逸脱していく姿を聖書は目を逸らさずに直視しています。でもそういう中にも、神は語りかけて、和解や赦しへと導いてくださるのです。人間の罪の現実を悲しみつつ、それでも神は人を裁いて切り捨てません。人間の孤独や悲しみや呻きを、十分に汲み取り、受け止めて、神に帰ってくるよう呼びかけて、帰ってくるならば受け止めてくださる神です。この2章3節の原点は変わりません。そういう聖書の物語の全体像を来週から見ていきます。

 イエス・キリストは

「インマヌエル」

とも呼ばれます。

「神が私たちとともにおられる」

という意味です[4]。神は私たちとともにおられるお方。イエスは本当に人とともにおられました。未熟な弟子、汚れ仕事の取税人、売春婦たちの友となりました。マタイの福音書の最後はイエスの

「見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。」

という約束で結びます。「いつも」とは「すべての日々に」です。イエスは私たちと、すべての日に-良い日にも悪い日にも何があろうともともにいてくださいます。それは、私たちもお互いに、時間を共有し、ともにいる、という生き方へと招いています。神が私たちを愛して、私たちとともにいてくださるように、私たちがお互いに、ともにいることを大事にしていくのです。

3.ともに過ごすこと

 私たちはしかし、ともにいることが苦手です。一緒にいるだけでは足りない気がして、忙しくしたり余計な事を話したりします。何か相手のためにしなければと落ち着かず動き回ります。本当に心を分かち合う会話よりも、質問攻めにしたり、つい「でも」と口を挟み、アドバイスやとってつけたような励ましをしたりしがちです。一緒にはいても、相手に耳を傾けるより、テレビを観たり当たり障りのない話に逃げたりします。人の話をじっと聴き、相手の喜びも痛みも大切に聞き取るのは慣れていないことが多いのです。ヘンリ・ナウエンは、

「福音派のキリスト者はイエスのために働くことは熱心です。しかし、彼らはイエスとともに過ごすことを知りません」

と言いました。神との関係でも、夫婦や家族や教会での関係でも言えることです。

 ともにいるとは、思いを相手に向け、その時間を分かち合って、相手を最優先することです。安心できる場所を作ることです。話をしても聞いてもらえるだろうか、批判されるんじゃないか、そういう心配も受け止めて話しが出来る。気持ちを語る事が出来る。そういう時間です。

※ 「クオリティタイム」は「充実した時間」と訳されますが、そこには「何か意義深い会話・行動・生産的な過ごし方をして、その時間を充実させなければならない」という発想にすり替わる危険があるように思います。そのような真逆の意味にならないように、「お互いのいのちの質(クオリティ)そのものを味わい、分かち合い、祝う」という意味であることを、確認したいと思います。

 聖書は、まず神が、私たちとともに過ごすためにこの世界を造られたと語り始めています。その時間の中で人間が神からさ迷いだしても、神はインマヌエルの神です。人間がしくじって、ひどい痛みを引き起こし、躓くとしても、神はその人間とともにいようとなさいます。私たちの祈りに耳を傾けて、私たちの言葉にならない呻きさえも聴いておられます。聖書の記事、特に詩篇は、神が私たちの思いを掬い取り、悲しみや怒りや躍り上がるほどの賛美も大事にしておられる証拠です。人間に付き合うために、神ご自身がどんなに忍耐し、犠牲を払い、痛みを負わなければならないとしても、神は私たちとともにいることを選ばれました。イエス・キリストは、神が私たちとともにおられることをその生涯で体現してくださった方です。そういう大きな流れを生涯掛けて味わい知るのです。

 神が私とともにいてくださる。私に上手な話や立派な信仰を求める、気詰まりしそうな関係ではなくて、私を受け止め、あるがままの私を尊んでくださっている。人生は成功とか失敗とかで括らなくて良い、どんな歩みも主がともにいるかけがえのない時間なのだと気づくと、安心できます。肩の力を抜くことが出来ます。それが、今度は、自分も人に寄り添って見よう、誰かを大事にしよう。どんなに自分が聞き下手でも、話をじっと聴いてみよう、自分の気持ちも打ち明けてみよう、となるのです。たとえ私たちがそれを信じられず、忘れても、大丈夫です。主はそのために時間を造られたのですから。私たちと毎日ともにおられて、今まで何があろうとも、これから何が起ころうとも、私たちとともにおられる。そして、永遠にともにいたいと願ってくださっています。だとすれば、私たちが今、家族や友人と、時間を少しでも分かち合うことは永遠への練習でしょう。そして、一緒にいようとする事自体が、主イエスの愛を届けるメッセージとされるに違いありません。

「私たちとともにおられる主よ。与えられた人生の時間は、あなたからの愛のプレゼントです。どうぞ私たちが、毎日の時間を、あなたとともに過ごすため、また人と心を分かち合うために生かしていけますよう助けてください。孤独が蔓延しているこの時代に、身の回りの一人一人と、向き合い、心を傾けて過ごすことが出来ますように。そこに主がともにいてください」



[1] ハワーワス、『Ministry 2018年秋号』(キリスト新聞社)、6頁。

[2] 勿論、神が本当に何もしなくなったら、世界そのものが存在できません。創造の仕事を止められた、のです。それにしても、神は天地を完璧に作るだけでなく、その世界を祝福し、世界に働くよりも手をすべて休めて、喜ばれるお方です。ですから、創造された人間も、最初にしたのは何かをするよりも、神と一緒に休むことでした。神と、また夫婦で一緒に休んでただ過ごす、そこから始まったのです。

[3] 詩篇三一15「私の時は御手の中にあります。」

[4] マタイ伝一23。

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