聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ガラテヤ書2章11-21節「私を愛しいのちまで捨てた主」宗教改革記念礼拝

2017-10-29 21:36:03 | 聖書

2017/10/29 ガラテヤ書2章11-21節「私を愛しいのちまで捨てた主」宗教改革記念礼拝

 五百年前の10月31日、マルチン・ルターが「九五箇条の提題」を張り出しました。しかし今日は、それより更に前にルターが出会っていた福音の原点に立ち戻ってお話しします。

1.「神の義」

 ルターは自分が正しい神の前に受け入れられようと、修道士になり苦行や巡礼で善行を積み、懺悔も真面目にしたのですが、一向に神の怒りを逃れたとは思えず長く苦しんだのです。その末に出会ったのがローマ書の一章17節の言葉でした。ここには「神の義」がこう言われます。

ローマ一17福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 ルターはずっと「神の義」を恐れていました。神が正しく、罪人を罰し裁く、物差しのような「義」を教えられ、考えていたのです。その義を逃れるために、良い行いをしたり、苦行を積んだり、献金をしたりする必要があると教えられていたのです。遂にノイローゼのようになったルターは「気分転換に聖書を研究」するよう進められました。そして聖書を読むうちに、特に詩篇に「神の義」が沢山出て来るけれども、それが希望とか喜びとか恵みや救いと同じような意味で使われていることに出くわして面食らいます。そのうちこのローマ書でも

「福音には神の義が啓示されている」

とあるのに悩んで長い間研究するうちに、ある日ルターは悟るのです。神の義は、罪人を罰する義ではなく、罪人に義を与える義、私たちが信じるだけで神の義を戴き、ますますキリストを信じるように進ませる義。そう気づいて喜びに満たされたのです。この事は、ローマ書の続きでずっと人間の不義を掘り下げた末に、こうも言われています。

ローマ三21しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。

22すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。

 善行や献金や奉仕を求める神ではなく、深い罪を抱えた人間に神が近づいてくださり、人間の罪の罰をご自身に引き受けてくださった。私たちはただイエス・キリストを受け入れるだけです。創造主なる神の義は、人間のように裁いて切り捨てる義ではなく、罪の問題を解決し(清算し)救いをもたらす福音です。それが聖書の神であり、その神が私たちの所に来られたのがキリストの福音です。宗教改革とはこの原点に立ち返ったことから始まっていったのです。

2.キリストの死は無意味に

 ローマ書とほぼ同じ時期に書かれたとも言われるガラテヤ書でも、今日読んだ所の後半、15節以下ではその福音が語られていました。律法を行うことで義と認められる人など一人もいない。ただキリストを信じることによって義とされる。それは罪を助成するのではなく、自分がキリストとともに十字架につけられた、キリストが私のうちに生きている、自分が生きているのはもう自分ではなく、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって生きているのだ、そう言い切るほどの神の恵みなのだ、というのです。

 でもそれをいうきっかけの前半はどうだったでしょう。アンテオケの教会で、ユダヤ人も異邦人も一緒に食事をしていたのに、ある人たちがエルサレムから来たら、ペテロは異邦人と一緒に食事をしないようになった。先週お話ししたことを思い出してください。使徒の働き一〇章十一章では、ペテロが異邦人のコルネリオと食事を一緒にするようになった出来事が詳しく書かれていました。神が不思議な幻をペテロに見せられて、異邦人もユダヤ人も一緒に分け隔てなく食事をするよう示された。それは当時の教会にとって本当に大きな出来事でした。その中心にいたのがペテロでした。そのペテロがまた、異邦人との食事を控えて、距離を置くようになっています。この行動の問題をきっかけにして、パウロはペテロの妥協が福音を実質的に否定することになると非難しました。キリストを信じて義とされると言いながら、異邦人は汚れているから一緒に食事などしない、という生活なら、福音は無意味になると非難しました。

 ではそれでこの問題はもう片付いたでしょうか。いいえ。ガラテヤ書は、パウロが開拓したガラテヤ教会がまた同じような教えに翻弄されたため書かれたのです。ローマ書の背景もそうでした[1]

 では聖書が完成したら大丈夫だったでしょうか。いいえ、教会は福音から離れ、宗教改革が必要になりました。

 宗教改革の後はどうでしょう。ルター派や改革派も、教理としては福音を確定しまとめました。しかし、自分たちを正しいとしてカトリックや再洗礼派を苦しめた事実もあります。奴隷制度を容認し、黒人差別を是認したのも歴史です。

 今の教会や私たちも、神の素晴らしい義よりも、人間的な物差しで生きてしまうことが何と多いかと思います。宗教改革をしたプロテスタントが正しい、福音派が正しい、でなくキリスト・イエスが示してくださった神の義に、宗教改革の原点があります。そして私たちは、教会としてもキリスト者としても、牧師も親も、むしろますます謙虚に正直に、正しいふりをしなくなりたいのです。

3.「正しくありたい」からの解放

 私たちには

 「正しくありたい」

という深い願い、基本的欲求があります。そしてそれは私たちを豊かな恵みで導き、正しく教え、赦しも回復も下さる神によってのみ満たされる願いです。世界の創造主なる方の大きく力強い義に結ばれることで満たされるのです。その神から背いた結果、人間は自分の正しさを握りしめ、必死にしがみついてしまいます。

 間違っていたら恥ずかしい、価値がない、負けだ。どこかで強くそう思っています。

 自分の感情や願いを我慢して、「~すべき」ことを無理にして、心の中には「させられ感」や被害者意識で一杯になる。

 だから伸び伸びしている人を妬みます。そんな自分に自己嫌悪しつつも、自分たちと違う人と比べて安心したがります。

 競争で勝つ優越感は心地よいし、レッテル貼りをするのは楽しいです。

 人を責めたり、言い訳をしたり、自分より間違っている人を見ると安心します。

 人を批判し、噂話をします。夫婦や親子の悪口をいい、陰口を叩きます。

 罪悪感をもたせる言い方をしますし、犯人捜しをしたがりします。

 批判に弱く、怒りやすい。そして災いが降りかかると、自分が正しくないから神が裁いたのだとすぐ思う。

 こうした根っこには、正しくなければならない、間違ったらダメだ、神も正しい者を喜ばれる、という漠然とした強迫観念があります。

 しかし福音は全く違う道を示しました。神の義は、私たちが正しくなることで与えられる義ではなく、罪人に一方的に与えられ、赦しと回復をもたらしてくれた義です。

 この神の福音を知った私たちは、自分が正しくなければという虚勢から解放されます。むしろ、自分の間違いや弱さを認めて正直になることが出来ます。

 「正しくないと不安だ」という恐れも正直に示すことが出来ます。なぜなら、キリストはまだ罪人であった時の私たちを愛して、私たちに赦しと救いを下さったからです。

 比較や災いで嘆いても、自分やその人への神の裁きだと思わなくてよいのです。「キリストが私の中に生きておられる」と言えるほどの愛を告白できるのです。

 そしてだからこそ、他の人にも分け隔てなく接するようになる。文化が違っていて、それ自体は相容れなくても、貶したり正邪や白黒をつけなくてもよい問題で線引きをしない生き方です。人を脅したり操作しようとしたりすることばはもう使わなくても良い。義なるキリストが来られ、私たちのうちに住んでくださって、私たちとの関係も、私たち同士の関係も新しくしてくださいました。こうしてキリストの義は、私たちが互いを尊ぶ神の民を育てるのです。

ガラテヤ書五13兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

「主よ。あなたの義を誉め称えます。あなたの素晴らしい福音を何度も再発見してはすぐまた自分の義を握りしめる、そんな歴史に私たちもいます。あなたはご自身の民と絶えず共におられて、原点に立ち戻らせてくださる方です。どうぞ、命をもたらす神の義に立たせ、私たちのすべての人間関係も日常生活も、新しくしてください。主の死を無意味にするような醜い批判や空しい自己正当化から救い出し、主の愛に生かされる交わりの一環に加えてください。」



[1] ローマの教会の中で、ユダヤ人と異邦人、違う文化の人々が一緒に認め合えず、裁き合っている問題があって書かれたものです。

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