聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問22 ルカの福音書一章35~37節 「キリストは人となられた」

2014-10-23 19:14:53 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/10/12 ウェストミンスター小教理問答22 ルカの福音書一章35~37節

                                          「キリストは人となられた」

 

 聖書には書かれていないのに、週報に毎週書いてあって、礼拝で告白し、世界中の教会で二千年近く告白されてきたもの。それは、「使徒信条」です。その使徒信条の中で、

  我は、我らの主イエス・キリストを信ず、主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、…

と言います。イエス様は、聖霊によって、マリヤの胎に奇跡的に宿られました。今日のウェストミンスター小教理問答の23は、その事に触れています。

問 キリストは、神の御子でありながら、どのようにして人間となられましたか。

答 神の御子キリストは、聖霊の力によりおとめマリヤの胎に宿られ、彼女から生まれながら、しかし罪はないという仕方で、ご自身に真実の体と理性あるたましいを取ることにより、人間となられました。

 母マリヤが、まだ結婚する前、夫になるヨセフといっしょにならないうちに、御使いガブリエルが来て、聖霊によって神の御子を宿すと告げたのですね。そして、聖霊の力によって、マリヤはイエス様を身ごもったことは、毎年クリスマスに聞くことです。

 ところで、皆さんは、イエス様の母となったマリヤという女性は、どんな人だったと考えていますか。カトリック教会ではハッキリしています。マリヤは「聖母」(マドンナ)と呼ばれて、イエス様の母になったくらいの偉大な方、生まれたときから罪がなかった特別な人だと言われます。マリヤ様の生まれた時から死ぬときまでの、奇蹟の物語さえ信じています。カトリックではない、プロテスタントの教会の人も、マリヤ様と言えば、イエス様の母として選ばれるほどなのだから、ものすごく偉く、立派で、きよい人だったに違いないと思い込んでいるような気がします。

 でも、実は聖書にはそのようなことは全然書いていません。それよりも、イエス様の母にふさわしい女性、というマリヤのイメージを引き上げる以上に大事なのは、イエス様が人間の所にまで低く低く降りて来てくださった、ということなのです。マリヤ様を持ち上げるのではなくて、イエス様が謙って貧しく、卑しめられるほどにこの世界に降りて来てくださった。その事に、心をとめていたい、と思うのです。

 本当にイエス様は、人間になってくださいました。私たちと一つとなるために、本当にこの世界の一番底にまで降りて来られたのです。今日の告白に、

…ご自身に真実の体と理性あるたましいを取ることにより、人間となられました。

 これは、本当に人間の体を取られたこと、そして、人間のたましいも持たれた、ということです。教会の中にも、イエス様は人間の体をした神様だ、とか、人間の魂や霊の部分に聖霊がおられるのだ、という人がいますが、それは間違いですね。人間になった、というのは、体だけでなくて、人間としての魂ももたれたことでなければなりません。私たちは、体だけの人間ではなく、人間としての心を持っています。イエス様も、体も心も、人間となられた、と言うことです。でも、罪はありませんでした。罪から救うために来られるのに、イエス様にも罪があったら、人を救うことなど出来ません。聖書にはハッキリと、イエス様に罪はないことが書かれています。

ルカ一35…聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

 マリヤはこのお告げにビックリしてしまいますが、最後にはこの言葉を受け入れるのですね。この時、マリヤは何歳ぐらいだったでしょうか。当時の結婚する年齢は、十五歳ぐらいだったそうですから、マリヤも十四か十五歳だったと考えられています。中学生ぐらいの、まだ少女でした。決して、神の御子の母となるという務めを、自分が相応しいからだったのだ、などとは思っていません。「神様をあがめます。主は私のような卑しい小さな者に目を留めてくださいました。私のことはずっと、幸せ者と言われるでしょう。力ある神様が私に大きな事をしてくださいました。でもそれは、私が特別だから、じゃない。主の憐れみは、主を恐れかしこむすべての人にいつまでも与えられます。主は、低い者、飢えた者を助けてくださるお方です。」と歌うのです(ルカ一46-55)。

 もしかしたら、マリヤよりも相応しそうな女の子はいっぱいいたんじゃないでしょうか。マリヤは、自分が神様の目にとまるなんて思えないような、不器用で、器量よしでもなく、何に自信もないような子だったのかも知れない、とも想像するのです。それは間違った想像かも知れませんが、でも、後に、ひとりの女がイエス様に、

ルカ十一27…「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」

と叫んだときに、イエス様はこう仰いました。

28…「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

 私たちが御言葉を頂いていると言うことは、マリヤがイエス様を宿した以上に幸いなことだといいます。では、私たちが神の言葉を聞かせていただいて、イエス様と交わりを持っているのは、私たちがそれに相応しいからですか。神様の救いをいただける立派な信仰を持っているからですか。そうではないですね。ただ、神様の恵みによることです。だったら、マリヤのことだって、特別だと考える必要は全くないのですね。

 イエス様が、結婚する前のマリヤから不思議な方法でお生まれになったのは、それによって、お生まれになるイエス様が特別なお方だとよく分からせるためでした。御使いがマリヤに告げた言葉の最後は、こうでした。

ルカ一37神にとって不可能なことは一つもありません。

 同じ事をイエス様は、「誰が救われることができるでしょう」という問に、

ルカ十八27…「人にはできないことが、神にはできるのです。」

とお答えになって、繰り返されます。私たち人間は、救いをいただくのに誰ひとり相応しくはなれません。でも、神様は、私たちを救うことがお出来になります。聖霊が、私たちのうちに働いて、救いを求めさせ、信じさせ、最後まで信じ続けて、救いに必ず与らせてくださいます。そのことを、確証させるためにも、御子イエス様は、聖霊の力によって、普通のおとめの胎に宿って、体も魂もある人間となってくださったのです。イエス様がこのようにお生まれになったことは、私たちにとっての慰めと勇気になります。

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問1 「神の栄光を現すために」ローマ十一33~36

2014-10-07 10:25:35 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/04/27 鳴門キリスト教会夕拝説教ウェストミンスター小教理問答1

「神の栄光を現すために」ローマ十一33~36

 

 聖書の最初の言葉は、「初めに神が天と地を創造した」です。神が天地を創造したことをスタートラインとする聖書の信仰を、今日のところではこう言い換えています。

36…すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 天も地も、すべてのことが神によって造られ、神によって存在し続けており、神を目的としている。そういう偉大な神様を、永遠に栄光をお受けになるお方として賛美することが相応しい。そういう告白を、私たちも常に確かめて、深めていきたいと思います。

 私たちも、神様によって造られました。神様が、この世界をお造りになったと同じ、御計画と不思議な力をもって、私たちをお造りになり、生かしておられます。ですから、私たちは、神様の尊い作品です。

「人のおもな目的は、何ですか。答人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」

 ウェストミンスター小教理問答という本の一番初めの言葉です。私たち人間の何よりの目的(ゴール)は、神の栄光を現すことだ、というのですね。幸せになること、でも、有名になる事とも言いません。友達を沢山造ることや人の役に立つ事も、それはそれで大切です。でも、それが目的ではないのです。世界が存在しているのは、神様がお造りになったからです。私たち人間も、神様がお造りになったものです。神様は、私たちを通して、神様の素晴らしい栄光を輝かせたいと思われたのです。

 クリスチャンは、人間の罪を確かに強調します。イエス様が十字架に掛からなければ赦されようがなかったほどの、罪の重さを薄める事なく信じます。けれども、聖書は私たちが元々罪人で愚かで、汚れて、価値がないと言っている、と考えるなら、それは誤解です。そうではありません。聖書は、私たちが、天地をお造りになった神の作品である、と教えます。原点は、その栄光ある神様です。もしも、その神様の作品を、人が「私なんか、詰まらない、ダメなものだ」とばかり言っているなら、謙遜のつもりでも、造り主なる神様に対して、失礼なことを言っていることになりますね。神様も、失敗したのかもしれない、と言いますか。それもまた、神様に対して、失礼ですね。

 勿論、人間が罪人となったのも事実です。でもそれは、神の栄光を現すべき目的を捨てて、神を疑い、神に背いたから、そこにあった本来の素晴らしい価値がなくなった、ということです。電球や蛍光灯には、電気の力で光り輝くという大事な使命があります。それなのに、コンセントを抜いてしまって、いくら自分の長さを自慢したり、ピカピカに綺麗にしたり飾ったりしても、何にもなりません。まして、人間は、この世界の中でも、神様のかたちに造られて、神様との親しい関係を与えられて、神の素晴らしさを輝かせるために造られたのに、その神様との関係を切ってしまったのなら、いくら人間の間で褒められるようなことをしようと頑張ったり、有名になったりしても、何の価値もありません。だけど、それはその人にもともと価値がない、という意味ではなくて、その逆に、もともとは物凄く価値があるのにその価値を放り出して、違うことを目的としている、そんな事に人の価値はない、それは本来の価値からしたら何の意味もない、という意味です。

 このローマ人への手紙を書いたパウロ自身、この言葉を深い感動をもって書いているのだと思います。以前のパウロは、イエス様を知りませんでした。とてもマジメに、一生懸命、神様を喜ばせようと思って、正しいと思った事ばかりしていました。誰よりも頑張って神様に褒められようと思っていました。でも、そうやって燃えていた時に、イエス様が彼に現れてくださいました。そして、自分がやっていた事の間違いに気付きました。でもそればかりではありません。自分が一生懸命、人一倍頑張る事で神様が喜ぶのではない、と気付きました。イエス様は、神様に背いた人間のために、十字架にかかってくださいました。イエス様にそうしてもらうだけの良いところが人間にあったのではありません。むしろ、滅ぼしてしまった方がいいような反逆者たちでした。でも、イエス様は、その人間たちの救いのために、限りなく低くなられて、十字架にまでかかってくださいました。その神様の大きな愛は、私たちが何かをしたから、良い事をするから、もらえるような、そんなちっぽけなものではありません。主イエス・キリストが示されたように、本当に大きく、深い愛でした。そして、パウロは、自分が正しく生きよう、人より頑張って遮二無二生きるという生き方から、一八〇度変わって、正しく生きようとしても人を傷つけて、間違ってしまう、そんな私をも愛して、考えられないほどの犠牲を払ってくださった神様の、赦しの恵み、大きな愛を証しするようになりました。自分をピーアールするのではなくて、神様の栄光を伝えるようになったのです。

 神様の栄光を現す、というのは、何かすごく立派な事や、ビックリするような特別なことをする、ということとは違います。神様は、この世界をお造りになるぐらい、力があり素晴らしい方ですが、人間がいくら強がったりすごい事が出来たりしても、そんなものは神様の偉大さを現すというには儚はかなすぎます。神様が人間に望まれたのも、そういう大きさではなくて、むしろ、神が愛なるお方、慈しみ深く、真実なお方である、という面を現すために人間をお造りになったのです。教会が立派な大会堂を建てたり、沢山の立派な人たちが集まる華やかな社会になったりしても、神様の栄光は輝かせません。むしろ、私たちが、心から受け入れ合い、違う者同士、尊重し合うようになることから、神様の栄光を現す事が始まるのです。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛し、隣人を自分のように愛することが、最も大事な命令だとイエス様は仰いました。それは、神様が人間をそのような者としてお造りになったということです。

 私たちの周りには、色々な雑音が溢れています。幸せになるためには、あれも必要、これも必要。神様よりも、お金の方がいい。神様なんて助けちゃくれない。人生を無駄にして、負け犬になるな。どれも、神様から私たちを引き離そうとします。でも、イエス様を見上げましょう。イエス様は、神様から離れたこの世界のまっただ中に来て下さいました。そして、十字架で死なれて、三日目によみがえられたのです。神の子イエス様は、私たちが神様に背いていた時に、すでに私たちのために犠牲を払って下さいました。そのイエス様の言葉に、耳を傾けるとき、私たちは自分が神様に造られた、尊い者である事を知らされて、安心することが出来ます。神の栄光を現すために何かをする、というよりも、イエス様によって、神様の限りない栄光を既にいただいている。その恵みに喜び溢れて、聖書に従って生きることが、神の栄光を現すのですね。それが、イエス様の福音です。

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問21 「神と人との間の、ただひとりの仲介者」 Ⅰテモテ2章5~6節

2014-10-07 10:10:22 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/10/05 ウェストミンスター小教理問答21   「神と人との間の、ただひとりの仲介者」 Ⅰテモテ2章5~6節

 

 前回から、神様が私たちを救うために「恵みの契約」に入ってくださったことを見ています。今日もまた、その素晴らしい神様の救いをもう一つ教えられましょう。神様のご計画は、「ひとりの贖い主によって」と言われていましたが、その、贖い主とは誰ですか、と言うのが、今日の問21です。

問 神の選びの民の贖い主とは、だれですか。

答 神の選びの民の唯一の贖い主は、主イエス・キリストです。彼は、永遠の、神の御子でありながら、人間となられ、かくして、二つの別個の本性である、神と人間でありつつ、一人格であられましたし、永遠にそうあり続けられます。

 「贖う」という言葉は、どういう意味でしょうか。貝偏(かいへん)が着いているように、この漢字は、お金を出すことに関係しています。(旁(つくり)は音の響きを表すもので意味とは関係ないそうです)。お金を出して、刑罰を免除してもらう。そこから、償う、という意味で使われます。教会で、「贖う」というのは、イエス様が私たちのために、御自分のいのちをもって、罪の莫大な借金を返済してくださった、ということです。返すなんて到底無理な借金を、イエス様が代わりに支払ってくださいました。そして、それで私たちが「自由の身」になった、のではないのですよ。神様から離れて自由に生きようなんてしたら、それ自体が神様に対する罪の上塗りになりますからね。イエス様が私たちの代金を支払ってくださったことによって、私たちが今、神様のものになった、というのが肝心なことです。ですから、「贖う」というのは、ただ救うとか、助ける、とかよりももっと積極的で、踏み込んだことです。イエス様は救い主とも呼ばれますが、それだけではなく、「贖い主」であられます。その贖いによって、イエス様は、私たちが罪の負債からキレイになるために完全な支払いをしてくださったことと、私たちは買い取られて神様のものになったのだ、ということを覚えるのです。

 さて、そういう贖い主である「主イエス・キリスト」は、

…永遠の、神の御子でありながら、人間となられ、かくして、二つの別個の本性である、神と人間でありつつ、一人格であられましたし、永遠にそうあり続けられます。

と言われています。イエス様は、完全な神、永遠の神の御子であられつつ、完全な人間ともなってくださいました。半分神で、半分人間、ではないんです。また、神と人間が混ざった、何か中途半端な生物とか、別物になったのでもない。もちろん、神を止めて人間になられたのでもないし、だからといって、人間としても片足突っ込んだだけ、というのでもなくて、100%神でありつつ、100%人間ともなられた。それが、贖い主イエス・キリストというお方なのだ、そう確認しているのです。

 どうしてそんなことが大事なのでしょうか。それは、私たち人間が、神様との関係を、罪によって壊してしまったからですね。正しく、聖なる神様と、罪を犯して汚れてしまった人間とは一緒になることが出来ません。もしそんなことをしようとしたら、人間はたちまち神様の聖なる愛に耐えられずに、焼き尽くされて何にも残らないでしょう。人間と神様との間には、罪という大きな隔たり(谷)が出来てしまいました。その断絶が解決されるには、間に橋を渡さなければなりません。でも、その橋は、神様の側と人間との間をつなぐ橋ですから、神様にも届いていなければなりません。こちら側の人間にも届かなければなりません。実は、神様と人間とは、距離が離れただけではなく、もともと永遠の見えないお方と、作られた形ある人間であるという、全く違う存在でもあります。だから、たとえ人間がいくら長い長い長い橋のようなものと作ったとしても、決して神様に届くことは出来ないのですね。宇宙のどこまで旅をしたとしても、そんなことで神様に近づくことは出来ないのです。神様と人間とは全然違うのです。

 だから、神様と人間との間の橋渡しをするには、神様でもあり、同時に人間でもある、ということが絶対必要なのです。でも、永遠の神様に、人間がなることは出来ませんし、神様が作ることもあり得ません。神様が人間になるしかないのです。ですから、三位一体の、御子なる神様が人間になって、贖いの架け橋になることにしてくださったのです。神様の方から、完全な人間ともなったイエス様がおいでになって、私たち人間に届いてくださいました。それが起きたのが、今から二千年前のイエス様のお誕生、クリスマスです。羊飼いや博士達は、マリヤから生まれた、どこからどうみても人間の赤ちゃんを見ました。私たちと同じ、本当の人間でした。なぜならイエス様は、完全な神でありつつ、完全な人間になってくださった、唯一の贖い主だからです。

Ⅰテモテ二5神は唯一です。また、神と人との仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

と言われる通りです。イエス様は、本当に私たちの中に、ひとりの人間となっておいでくださいました。こうも言われています。

ヘブル二14…子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、

15一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。…

17そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

18主は、御自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

 イエス様は、罪を別にして、全ての点で、私たちと同じようになってくださいました。私たちが弱いとき、疲れるとき、悩むとき、イエス様は、本当に私たちの苦しみや辛さを分かってくださいます。本当に私たちを助け、支えて、立ち上がらせてくださいます。イエス様は、まことの神であり、まことの人です。これは素晴らしいメッセージです。

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申命記三章12~29節「あなたのその目でよく見よ」

2014-10-07 10:04:33 | 申命記

2014/10/05 申命記三章12~29節「あなたのその目でよく見よ」

 

 申命記、モーセの遺言とも言える説教で、一章から三章まで、ここまでの歴史を振り返ります。そして、次の四章から、

四1今、イスラエルよ。あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。…

と本題に入っていこうとしています。その、本題に入る前、最後に語っているのが、今日の部分です。モーセが語っている通り、今イスラエルの民は、四十年荒野を放浪してきた末に、約束の地の手前までやってきました。そして、ヨルダン川向こうの約束の地に入る前、川のこちら、東側の、ギルアデやバシャン、アラバの地を、ルベン部族とガド部族、およびマナセの一部の部族に分け与えました[1]。もう、この後の行動としては、ヨルダン川を渡るだけです[2]。そういう歴史を振り返りながら、その最後の最後に、モーセはここで自分自身のことを差し出します。主の偉大さ、力、御業を素直に精一杯賛美した上で[3]

25どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」

と懇願するのです(23節)。これはモーセの悲願でした。どれだけモーセは約束の地を見たかったでしょうか。民が主に反逆したとき、それに巻き込まれるような形ではありましたけれど、モーセも主に逆らってしまい、主はモーセが約束の地に入れないことを宣告しておられました(一37)。でも、モーセはずっと約束の地への許可を求めていたのですね。

 ここでの言葉は、最後の最後に、「ひと目で良いから見せてください」と願った、でも主はそのささやかな望みを一蹴された、ということではないのです。ずっと、ヨルダンを渡らせてください、これからもまだ、この民を導かせてください、そして、約束の地の北の果て、レバノンまで見るような最後の日々を送らせてください、そう願い続けて、もう一度それを懇願したのです。でも、その強い願いを、主は退けられました。

26…「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。…

 モーセは、この主とのやり取りを、恨みめいた気持ちで記しているのではありません。民に愚痴を零(こぼ)しても、民にいい影響を与えるはずがありません。民を励ますために語っているのですから、未練たらたら、やりきれない思いをぶちまけているのではないのです。この後の申命記四章以降で明らかになっていきますが、モーセは本当にもうここで指導者としての責任を退くことを確認しているのです。民は、モーセに甘えて、不満をぶつけたり逆らったりしてきましたが、やっぱり頼りにもしていて、そのモーセがいなくなることは考えられなかったでしょう。でも、もう一緒にはいかないのだ、と念を押しているのです[4]。そして、これからはヨシュアが彼の後継車であって、民がヨシュアに聞き従わなければならないことも繰り返して民に覚えさせました。

 また、四22などで明らかなことですが、民がこれからも主に従うこと、他の神々を拝んだり、不正を行ったりして主の御怒りを買ってはならない、とモーセは繰り返します[5]。主の恵みは限りないけれど、主を侮って、軽々しく罪を犯したり異教に妥協したりしてはならない。それは「脅し」ではない、とモーセは自分を実例にして叫んでいるのです。

 けれども、それは主の恵みには限界があるということなのでしょうか。モーセへの主の言葉は厳しい言葉ですけれども、しかしそれだけなのでしょうか。いいえ、主が、

「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。」

と仰ったとき、もう残された最後の時間をその願いにしがみつくことなく、ヨシュアへのバトンタッチに専念せよ、と言ってくださったのです。また、

27ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。…

と、今から入るヨルダンの彼方を西や北に見せてくださったばかりでなく、今まで歩んできた南や東もお見せになりました[6]。振り返れば、一二〇年にわたる波乱に満ちた足跡を見る思いだったでしょう[7]。困難で、失敗もし、でも恵みがあり、主がともにいてくださった生涯でした。確かにその歩みの末に、彼らは今ここにいました。そして、前方にはモーセが入ることが出来ないこれからの地が見えます。それは素晴らしい地であると共に、新しい誘惑に満ちた地であり、民が堕落していくことも容易に想像できました[8]

…あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。

と言われた時、主は、なおモーセがその頑なで手こずらせる民を導く重責からは、もう十分だと言われて任を解かれたのです[9]。そして、その苛立たしい、困難な重責を引き継ぐ、

28ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。…

と言われて、終わりを見つめて、なすべきことに集中させられるのです。

 モーセが主に懇願したことそのものを、主は非難されてはいません。むしろ、モーセが主に自分の悲願を懇願し続けたところに、モーセの主に対する飾らない、率直な信頼、親しい絆が光っています。どうせダメだろうとか、黙っておいたほうがいいだろう、などとひねくれずに、願望は願望で、隠さず主にぶつけていたのです[10]。そしてその上で、御心に従ったのです。ちょうどイエス様が、あのゲッセマネの園で、十字架を覚悟しつつ、

マルコ十四36「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

と、それも三度も願われたことを思い出させてくれるでしょう。主イエス様が十字架にかかることを御心とされた天の父は、その十字架によって、私たちを御自身のものとしてくださり、私たちを約束の地へと導いてくださいます。イスラエルの民の歩みは、私たちに対する御国の保証です。神の民の歴史は、私たちに、恐れてはならない、主を信じて勇気と望みを持て、と励ましています。そして、私たちのうちにもまた、主の豊かな御心への信頼と服従を教えています。何でも願って良い、最後の最後まで自分の本心を打ち明けてよいほどの信頼、でも、どうしても叶って欲しい願いさえ叶わないとしてもそれでも、「もう十分だ」と言われる主の言葉を受け止めて、自分のなすべきこと、次の世代へのバトンタッチに専念する。そんな姿勢で人生に向かうようにとの招きがあります[11]。これは、測り知れない主の恵みです。時に厳しく、容易ならないことでもありますけれども、それでも測り知れない恵みです。人生は思うようには行きませんが、その中でも、諦めず、でも、握りしめず、という態度を主は確かに下さるし、そう歩むよう命じておられるのです。

 

「主よ。私たちが見渡せるのは、あなた様の大きな長いご計画のほんの一端でしかありません。それでも、そこに積み重ねてきた歩み、失敗も恵み、そして手の届かない将来も含めて今ここに私たちがあることを、御手の中に受け止めます。これから頂くパンと杯もまた、あなた様の贖いを保証し、やがて御国で祝う食卓の確かな前味です。一人一人の心の底の思いを汲み取りつつ、力と愛と慎みの霊を養って、それぞれの場へとお遣わし下さい」



[1] 三12~20の部分は、民数記三二章の顛末をなぞっています。これは、ヨシュア記一章でも確認されることです。この二部族半が、しっかりと自分たちの使命を銘記することは、モーセからヨシュアへのバトンタッチにおいて、非常に重視されていることの一つです。

[2] でも、その前にしなければならないことがいくつかありました。その一つが、モーセは約束の地に入れないと既に分かっていましたので、リーダーシップを後継者のヨシュアにしっかりバトンタッチすることです。そして、ヨルダンを渡る前の心備えを民にさせることでした。回顧も、ただの郷愁とか感慨ではありません。主がどのように導いてくださったのかを十分に踏まえることによって、新しい地に入ってから、怖じ気づいたり油断したりせずに、主の祝福に生きることが出来る。そこをあやふやにしているなら、折角の経験が、次に生かされないで、いくらでも愚かになって失敗し、罪を犯して、祝福どころか呪いを招く、勿体ない歩みになってしまうからです。モーセは、そういう目的をもって過去を振り返り、かいつまんで話してきました。ただこれまでの歴史をまとめた「総集編」ではなくて、今の民が振り返って、心に刻むべき事に絞って、話をしてきたのです。

[3] 24節の賛美は、葦の海を渡ったときの賛美(十五6-7、11)を彷彿とさせる言葉遣いです。

[4] 申命記の最後には、モーセが不世出の人であったことが記されて、結びとされます。「三四10モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。11それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、12また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。」 そして、モーセの後を継いだヨシュアが、その任務と権威を引き継いだことを民に印象づけるために、神もヨシュアも周到な手間を取ったこと(取らなければならなかったこと)も、大指導者モーセの不在をヨシュアが引き継ぐことに難しさがあったからでした。ヨシュア記一章、および、ヨルダン渡河の奇蹟に先立つ主の言葉(ヨシュア記三7「主はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。」」などを参照。

[5] モーセが約束の地には入れないことは、三二48-52でも繰り返されます。

[6] 日本語では「東西南北」の順ですが、聖書では「北南東西」(創世記十三14、エゼキエル四八17)、「北西南東」(Ⅰ列王七25、Ⅱ歴代四4)、「西東北南」(創世記二八14)、「西北南東」(申命記三27)、「東西北南」(詩篇一〇七3、ルカ十三29。新改訳では、ルカ一三29を「東からも西からも、また南からも北からも来て」の順で訳しています)、「東北南西」(黙示録二一13)と、一定していません。それでも、旧約では、北が先に来ることが多く、南が筆頭になることはない、などの法則が見られます。今日の申命記で「西、北」という順番になっているのは、慣習的ではなく、恣意的な意図があるのでしょう。

[7] 申命記三四7「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」は、モーセの退任理由が健康上・老化にあったのではないことを明瞭にしています。

[8] 過去を振り返って、将来への教訓として心に刻む。状況は大きく変わる。ヨルダンを渡り、戦いの日々。その先には、定住生活。放浪から農耕民族になる。けれども、どんなに状況が変化しても、主を信じて、恐れず、忠実に生きることには変わりはない。そして、そこから様々に引き離そうとする力が、内からも外からも働くことにも。恐れ、狡さ、未練、人間関係、などなど。

[9] 実用聖書注解「たとい地上的な約束の地において新しい世代を導くとしても、彼らは本質的には変わっていない。むしろ、荒野における統一体としての民とは対照的に、散在して定住し、先住民族と混在し同化していく民、更には主に背教する民の未来を読む者としては、ヨルダンを渡らせない主のあわれみを感じ取るのである。<もう十分だ>という主の言葉は、モーセの執拗な願いについてよりも、このかたくなな民を担う労苦について言われたのではないか。ピスガの頂から眺めるように言われた地は、アブラハムに約束され、彼が信仰によって望み見た地とは別のものであった。それを、主はモーセにも信仰によって見ることを求められたのではないか。ヨルダンを渡ると新しい困難な時代が始まる。その手前で彼の任務の完了を告げ、そして満足することを求め、新しい労苦を後継者ヨシュアにゆだねることを命じたのだろう。」(254頁)

[10] 御心に叶わない願いでも願って良いのです。結果として叶わないとしても、それは「願ったこと自体が間違っていた」と恥じたり無駄だと思ったりすることではありません。モーセも、信仰者としての「有終の美」などを追い求めたわけではありませんでした。最後まであがいたり、懇願したり、でよいのです。それによってもらえる答もあるのだ、と教えられます。

[11] この言葉は、創世記でヤコブ(イスラエル)が、人生の最終段階で行き着いた心境から発した、「それで十分だ」(創世記四五28)と重なります。

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