聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/1/1 元旦礼拝 Ⅰコリント13章「信仰と希望と愛」

2021-01-01 09:11:51 | 聖書
2021/1/1 元旦礼拝 Ⅰコリント13章「信仰と希望と愛」

 2020年、色々なものが揺さぶられて変わった一年で、改めて深く思い巡らした御言葉が、

いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

でした。この「愛」、いつまでも残り、最も優れている愛に、色々な事が変わって、過ぎ去っていくことを痛感している今、ともに目を向けたいと思います。

 このⅠコリント13章、「愛の章」「愛の賛歌」として知られる美しい印象とは裏腹に、コリントの教会が問題だらけであった事を背景にしています。神からいただいた能力を自慢したり、妬んだり、比べ合って協力を忘れていた教会でした。そういう教会に対して、1~3節では繰り返して

「愛がなければ、私は無に等しい。何の役にも立ちません」

と強く言い切る言葉から始まって、愛に立ち返るよう歌い上げているのが、この「愛の賛歌」です。

 この「愛」とは、私たち自身の愛情とか思いやりという以上に、神ご自身の愛です。元々の言葉はアガペーです。他にも「愛」を表す言葉、恋愛とか友情を表す言葉も別にあるのです。しかしそれにも勝って、ここで言うのは「神の愛」です。恋とか優しさも勿論素晴らしいものです。私たち人間が精一杯愛するのも大事ですし、尊いこと、素敵なこと、素晴らしい事です。しかし、私たちがここに書かれるような愛があるか、こんな愛で愛せるでしょうか。

 4愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、6不正を喜ばずに、真理を喜びます。

 こんな愛は私のうちからは出て来ません。これは神の愛です。そしてその神が私たちを愛しておられます。神が私たちに寛容で、親切で、妬まず、自慢せず。私たちの悪を心に留めず、不正を喜ばずに真理を喜んでおられる、その愛を注いで生かしてくださっています。そして、

7すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

私たちがどんなに愛から遠くても、神は耐えてくださり、信じてくださり、望んでくださり、忍んでくださっています。神は、私たちの愛のなさ、今の罪の問題を知りつつ、なお、私たちを尊ばれ、私たちの成長や回復を信じて、希望を捨てないで、忍耐してくださっている。この手紙そのものが、愛を見失ったコリントの信徒たちにも、なおこの愛の賛歌が届くと信じた手紙です。冷たくなったコリント教会も、きっと回復できると希望をもって語られたのです。

 8~12節は、私たちの今の知識はごく部分的な、中途半端なものだと思い起こさせます。私たちに見えているのはごく一面です。しかし神は私たちを完全にご存じです。やがて私たちも完全に知ることになります。知りたかったことを全部、だけでなく、知りたくないようなことも、知られたくないことも全部、完全に知られた上で、なお神が私たちに、寛容で、親切で、すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍んでくださっていたかを知る。その時こそ、私たちは本当に、愛が残る、神の愛は決して絶えることがないと分かるでしょう[1]。

 結びの13節で
「いつまでも残るのは愛だけです」
とは言わず

「信仰と希望と愛、これら三つです」

と言います[2]。この「残る」という動詞は単数形です。愛と信仰と希望は一つのものです[3]。7節でも

「(愛は)すべてを信じ、すべてを望み」

と信仰と希望を生み出すと言っていました。神の愛は信仰を伴い、希望を生み出します。そしてこの「信仰と希望」は神に対する信仰だけでなく、神が働いておられるゆえに、横の関係、周りの他者を、色々な問題をも踏まえた上で、深いところで信じる関係性でもあります[4]。また、目に見える出来事の中でも、最善を信じる。やがての回復を疑わない、希望でもあります。私たちの想像や理解を超えた神の良いご計画を期待して、耐え忍び、待ち望んで良い。それが教会も共同体も育てるのです。[5]

 今私たちは人間の知識や考え、予想の限界を痛感していますが、その中にも愛や信じることや希望の尊さが輝く出来事もたくさん神は見せてくださっています。そして、やがて私たちが完全にすべてを知る時に、神の愛と信仰と希望が輝いて残る。そうここに約束されています。私が愛せない時も神は私を愛し、私が信じられない時も神は信頼を回復し続けておられ、私が希望をひとかけらも持てない時も、祝福に満ちたご計画へと私たちを運んでいてくださる。この言葉に立つのは、ただの優しさよりも遙かに大それた告白です。勇気がいります。そんな大それた確信への招きなのです。

 そこに至るまで、私たちには理解できないことが続くでしょう。自分の愛も、信仰も希望も、吹き飛ぶ出来事もあるでしょう。その私たちに御言葉は、人の知識を遙かに超えた、愛と信仰と希望こそ現実だと語るのです[6]。だから私たちは、どんな時にも、分かったようなことを語るよりも、互いに神の愛を分かち合えます。神を信じ、お互いの信頼を育てることを追い求めます。楽観的な将来を予測することは出来ませんが、希望を語り合えます。その希望と信仰を伴う愛へと立ち返って、一年を踏み出させていただきます。

「私たちを愛したもう主よ。新しい一年もあなたが主です。すべてを導き、私たちをあなたの愛によって成長させ、御栄えを現してください。私たちの知識も視野も限られています。本当に私たちは小さな者です。その与えられた小さな力を、あなたの愛によって用いてください。恵みならぬものを求めるたびに、教え諭してください。今こそ、私たちがあなたの愛に励まされ、あなたの愛の器となることを求めます。信仰と希望を受け取って、一年へと踏み出します」


聖書協会共同訳
1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。
2たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。
3また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
4愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。
6不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。
7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。
9私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。
10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。
11幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。
12私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。
13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。

たとえ私(わたし)が人(ひと)の異(い)言(げん)や御(み)使(つか)いの異(い)言(げん)で話(はな)しても、
愛(あい)がなければ、騒(さわ)がしいどらや、うるさいシンバルと同(おな)じです。
たとえ私(わたし)が預(よ)言(げん)の賜物(たまもの)を持(も)ち、
あらゆる奥(おく)義(ぎ)とあらゆる知(ち)識(しき)に通(つう)じていても、
たとえ山(やま)を動(うご)かすほどの完全(かんぜん)な信(しん)仰(こう)を持(も)っていても、
愛(あい)がないなら、私(わたし)は無(む)に等(ひと)しいのです。
たとえ私(わたし)が持(も)っている物(もの)のすべてを分(わ)け与(あた)えても、
たとえ私(わたし)の体(からだ)を引(ひ)き渡(わた)して誇(ほこ)ることになっても、
愛(あい)がなければ、何(なん)の役(やく)にも立(た)ちません。
愛(あい)は寛(かん)容(よう)であり、愛(あい)は親切(しんせつ)です。
また人(ひと)をねたみません。
愛(あい)は自(じ)慢(まん)せず、高慢(こうまん)になりません。
礼(れい)儀(ぎ)に反(はん)することをせず、自(じ)分(ぶん)の利(り)益(えき)を求(もと)めず、
苛(いら)立(だ)たず、人(ひと)がした悪(あく)を心(こころ)に留(と)めず、
不(ふ)正(せい)を喜(よろこ)ばずに、真(しん)理(り)を喜(よろこ)びます。
すべてを耐(た)え、すべてを信(しん)じ、すべてを望(のぞ)み、すべてを忍(しの)びます。
愛(あい)は決(けっ)して絶(た)えることがありません。
預(よ)言(げん)ならばすたれます。異(い)言(げん)ならば止(や)みます。知(ち)識(しき)ならすたれます。
私(わたし)たちが知(し)るのは一(いち)部(ぶ)分(ぶん)、預(よ)言(げん)するのも一(いち)部(ぶ)分(ぶん)であり、
完全(かんぜん)なものが現(あらわ)れたら、部分的(ぶぶんてき)なものはすたれるのです。
私(わたし)は、幼(おさな)子(ご)であったときには、幼(おさな)子(ご)として話(はな)し、
幼(おさな)子(ご)として思(おも)い、幼(おさな)子(ご)として考(かんが)えましたが、
大人(おとな)になったとき、幼(おさな)子(ご)のことはやめました。
今(いま)、私(わたし)たちは鏡(かがみ)にぼんやり映(うつ)るものを見(み)ていますが、
そのときには顔(かお)と顔(かお)を合(あ)わせて見(み)ることになります。
今(いま)、私(わたし)は一(いち)部(ぶ)分(ぶん)しか知(し)りませんが、
そのときには、私(わたし)が完全(かんぜん)に知(し)られているのと同(おな)じように、
私(わたし)も完全(かんぜん)に知(し)ることになります。
こういうわけで、いつまでも残(のこ)るのは信(しん)仰(こう)と希(き)望(ぼう)と愛(あい)、これら三(み)つです。
その中(なか)で一番(いちばん)すぐれているのは愛(あい)です。


 1たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。2たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。3たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私の体を引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
と強く、愛がないことの空々しさ、殺風景な味気なさを思い起こさせるのです。

O Lord,
Length of days does not profit me except the days are passed in Thy presence, in Thy service, to Thy glory.
Give me a grace that precedes, follows, guides, sustains, sanctifies, aids every hour, that I may not be one moment apart from Thee, but may rely on Thy Spirit to supply every thought, speak in every word, direct every step, prosper every work, build up every mote of faith, and give me a desire to show forth Thy praise; testify Thy love, advance Thy kingdom. I launch my bark on the unknown waters of this year, with Thee, O Father as my harbour, Thee, O Son, at my helm, Thee O Holy Spirit, filling my sails. Guide me to heaven with my loins girt, my lamp burning, my ear open to Thy calls, my heart full of love, my soul free.
Give me Thy grace to sanctify me, Thy comforts to cheer, Thy wisdom to teach, Thy right hand to guide, Thy counsel to instruct, Thy law to judge, Thy presence to stabilize.
May Thy fear be my awe, Thy triumphs my joy

神よ、新しい始まりと、不思議な驚きの神よ。新年という贈り物を感謝します。この年が私にとって恵みの時となりますように。信仰と愛において成長する時、あなたの御子イエスに従う忠実さを新たにする時となりますように。私にとっての祝福の時となりますように。私の家族と友人たちを大事にする時、新たに私の仕事に奮起する時、私の信仰を更に育む時となりますように。私とともに歩んでください。この新年の毎日、毎時間、キリストの光が私を通して輝きますように。たとえ、私が弱く、失敗しようとも。何よりも、この年、私があなたへの聖なる旅路を進む巡礼者であることを忘れませんように。
 O God of new beginnings and wonderful surprises,
thank you for the gift of a new year.
May it be a time of grace for me,
a time to grow in faith and love,
a time to renew my commitment to following Your Son, Jesus.
May it be a year of blessing for me,
a time to cherish my family and friends,
a time to renew my efforts at work,
a time to embrace my faith more fully.
Walk with me, please, in every day and every hour of this new year,
that the light of Christ might shine through me,
in spite of my weaknesses and failings.
Above all, may I remember this year that I am a pilgrim on the sacred path to You.

 Amen
And I would like to add to this prayer...
May it be a time of grace for you,
May it be a year of blessing for you,
May the Lord walk with you in every day and every hour of this new year,
and let you shine His light in this troubled world.
 Oh dear fellow pilgrims, let us enjoy together the sacred path to our Heavenly Father this year!
この年があなたにとっての恵みの時でありますように。
あなたにとっての祝福の年でありますように。
主が、この新年の毎日、毎時間、あなたとともに歩んでくださり、この問題多き世界であなたに主の光を輝かせてくださいますように。
愛する巡礼者仲間の皆さん、この年、私たちの天の父への聖なる旅路をともに楽しみましょう。

一年が家だとしたら
The Year as a House: A Blessing 
(by Jan Richardson)

一年が家だとしたら。
歓迎するように大きく開かれた扉、
きれいに掃かれて用意の整った戸口、
あなたのために差し出されている広々とした心地よい空間、
どの部屋も祝されますように。
どの部屋も隅々まで尊ばれますように。
どの小部屋も避難所となり、
そこにあるものはみな、
聖なることのために用いられますように。
ここに
安全がありますように。
健康がありますように。
平安がありますように。
愛がありますように。
ここに
疲れている人、
傷んでいる人、
迷っている人、
悲しんでいる人が
やって来れますように。
ここに
安らぎと慰めを見つけ、
居場所と喜びを見つけられますように。

そして一年というこの家で、
それぞれの季節が美しく紡がれますように。
日々刻々と、喜びが増し加えられますように。
そしてどの部屋も、
ふつうの恵みで満たされ、
どの窓からも光がこぼれ出ますように。
見知らぬ人を歓迎するために。

[1] 「8愛は決して絶えることがありません。預言ならばすたれます。異言ならば止みます。知識ならすたれます。9私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、10完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」私たちが知るのは、どんなに知ったつもりでも一部分。私たちの知ることは結局中途半端な聞きかじりです。知ることは大事ですが、全部知った気になったら勘違いです 。今、私たちが目にしているのは、ぼんやりした、ごく一面的なことでしかないのです。「12今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」 私たちの知識はごく一部分です。誰かのこと、自分のこと、今年どんなことが起きるか、また、今何が起きているのか、去年何が起きたのかも、僅かな、限られたことしか見えません。神の愛さえ分かってはいません。「神の愛を説明しろ」と言われても出来ない出来事はたくさん起きるのです 。でも、神は私を完全に知っておられます。そして、やがて私たちも完全に知ることになります。その時、自分が知っていたことはなんと一面的だったかをまざまざと思い知るでしょう。なんと知らなかったかと驚くのでしょう。なんて知ったかぶりで分かったようなことを話していたかを恥じ入るでしょう。それ以上に、神が私を完全に知っていてくださったこと、一人一人を神が完全に知って、愛しておられたか。何かが出来る出来ないにかかわらずの愛ですし、神は完璧に私たちを知った上で、愛してくださる。その愛は残るのです。今はそれは完全には分かりませんが、やがて私たちはハッキリ、愛を見る。

[2] 「目に見える望みは望みではない」(ローマ8:24)とも言われるが、やがてすべてが恵みの光の中で見る時、望みも信仰も、廃れるのではなく不動のものとなる。

[3] 新約聖書には、この三つの組み合わせが多く語られています。他でのこの組み合わせ:ローマ5:2-5(このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。)、エペソ1:15-18(こういうわけで私も、、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、16祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、)、4:2-5(謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。4あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。5主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。)、コロサイ1:4-5(キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。5それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。)、Ⅰテサロニケ1:3 (私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。)、5:8(しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。)、ヘブル6:10-12(神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。11私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、12その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。)、10:22-24(心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。23約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。24また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。)、Ⅰペテロ1:3-8(私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。4また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。)、21-22(あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。22あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。)

[4] 2節の「山を動かすほどの完全な信仰」は、まさに人間が持つ「信仰力」というものだろう。13節での「信仰」は、人間の信仰ではなく、神がもたらしてくださる信頼。愛から生まれる信仰であるはずが、いつのまにか、人間の業としての信仰となり、愛を欠いた信心となりうることが、「その中で一番すぐれているのは愛です」という言葉からも意識されています。

[5] 「すぐれている」 12:31「よりすぐれた」、14:5「まさっている」 教会の建徳を語る。信仰も希望も、愛(神の真実、ヘセド)から生み出されるが、愛抜きの信仰や希望では、人を益することは出来ない。しかし、愛だけで、信仰・信頼・誠実を育てず、希望を与えないということも不徹底である。

[6] 「愛だけではダメだ。信仰と希望もないと」というような言い方は、信仰と愛を切り離してしまいます。ガラテヤ書5章6節「割礼を受ける受けないは大事なことではありません。大事なのは、愛によって働く信仰です。」 愛によって働かない信仰、というのもあるのです。それは、私たちがよくよく注意しなければならないことの一つかもしれません。それ以上に注意しなければならないのは、神の愛抜きにして、自分の愛を誇ることです。愛ではなく、義務感や罪悪感によっては、信仰は育ち得ません。

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