「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

うつせみ精神世界への誘い 「何度目かの『野垂れ死に』考」

2023年04月29日 20時54分58秒 | うつせみの精神世界への誘い
長く書いていますと「これ書いたっけ?」と思うことはよくあります。
今回書くことも同じです。
ですので、タイトルに「何度目かの~」という言葉を言い分けがましく付けているわけです(笑)

…さて、タイトルが相変わらず穏やかでありません。なにせ『野垂れ死に』ですからね。世の中を捨てたわけではありません。去年は次々に大切な人達が亡くなって、私の身にもいろいろと大変なことが数々ありました。私は今年で50歳。ですが、私の過去の出来事を考えれば「いつ何が起きてもおかしくない」と思うのです。年齢が若くても年老いていても突然事故や病気で亡くなる人は数多くいます。考えてみれば、日常生活にそういう確率は確かにあって、いわば「毎日、棺桶に片足を突っ込んで生活している」といってもいい。よく「悔いの無い人生を…」なんて言いますが、うつせみ的には、「野垂れ死にの覚悟」は日常持っておかなければいけない。結婚していても、可愛い子供が居ても、愛する恋人が居ても、世の中からどれだけ必要とされていても、誰もかまってくれなくても、いつの時もその可能性を秘めているのです。

私は「悔いの無い人生」なんていうことは言いたくもない。どの時点で亡くなっても人間は「もっと生きたい」と望みます。人間は強欲な生き物です。「多くのことをやり残すかも知れないが、いつ死んでもOK」というのは覚悟という力強いものではなくて『その死を優しく受け入れる』という気持ち。それが私が言う「野垂れ死にの覚悟(野垂れ死にを受け入れる気持ち」ということです。その瞬間が例え突然訪れても「まっ、いっか」、「そういう人もいるわな」という気持ちになれたら、その人は『上等な人』だと思うのです。
人間が「死」について考えるチャンスを与えてくれるのが、近親者の死です。考えるチャンスを身を挺して与えてくれていると言えるかも知れません。その死を無駄に看過することはできません。

どのように身近にある『自分の死』について考えるか?
考える時間は「死は突然来る」ということを考えばあまりありません、というか「無い」かもしれません。






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