モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

アリストテレスーー西洋的“観照”の原点

2020年03月27日 | 「‶見ること″の優位」

“観照”という言葉のそもそもの出どころは古代ギリシャ哲学であって、ギリシャ語で「テオリア」といい、「見る、観察する」という意味のほかに「考察する、研究する、理論付ける」といった意味を持っています。
古代ギリシャの人的世界においては、人間が日々従事しているあらゆる活動のなかで観照という行為が最も高尚であり、価値があるとされていたようです。
アリストテレスの『形而上学』や『二コマコス倫理学』といった著作では、このことがはっきりと表明されています。
『形而上学』は次のような文から始まっています。

「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感官知覚〔感覚〕への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえにさえ愛好されるものだからである。しかし、ことにそのうちでも、最も愛好されるのは、眼によるそれ〔すなわち視覚〕である。けだし我々は、ただ単に行為しようとしてだけでなく、全くなにごとを行為しようとしてない場合にも、見ることを、言わば他のすべての感覚にまさって選び好むものである。その理由は、この見ることが、他のいずれの感覚よりも最もよく我々に物事を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくれるからである。」

アリストテレスは人間の知能の働きを「観照(見ること) テオリア」と「実践(行動) プラクシス」と「制作(創作、生産) ポイエーシス」の3部門に大別し、
観照(見ること)を実践(行動)より優位に、実践(行動)を制作(創作、生産)より優位にあると考えました。
アリストテレスに限らず、おそらくこれが“人間”というものについての古代ギリシャ人の見識であったかと私は思います。

『形而上学』という哲学書は、観照という知能のはたらきがどのように進められていくのか、あるいは「考える」ということを組み立てていくのか、
そういったことを具体的に書いている書物であるように私は思います。
そういう観点で読むと、難解に感じられていた書物がわかりやすく、且つ面白く読めてきました。



後半の、この本のクライマックスともいうべき箇所の、観照という言葉が出てくる文節を紹介しましょう。

「その理性(ヌース)〔思惟するもの〕はその理性それ自身を思惟するがそれは、その理性がその思惟の対象の性(さが)を共有することによってである。というのは、この理性は、これがその思惟対象に接触し、これを思惟しているとき、すでに自らその思惟対象そのものになっているからであり、こうしてそれゆえ、ここでは理性〔思惟するもの〕とその思惟対象(ノエートン)「思惟されるもの」とは同じものである。けだし、思惟の対象を、すなわち実体〔形相〕を、受け容れるものは理性であるが、しかし、この理性が現実的に働くのは、これがその対象を受け〔容れて、現にそれを〕所有しているときにであるから、したがって、この理性が保っていると思われる神的な状態は、その対象を受け容れうる状態〔可能態〕というよりもむしろそれを現にみずから所有している状態〔現実態〕である。そしてこの観照は最も快であり最も善である。」(『形而上学』第十二巻第七章より)

ここに書かれている中で重要な点を拾い出して箇条書きしておきます。
これらは、私が思うには、古代から現代に至るまでのいわゆる「西洋的思惟」に通底する枠組みと見なされるからです。
① (観照のレベルでは)理性〔思惟するもの〕とその思惟対象「思惟されるもの」とは同じものである。(理性(ヌース)は理性それ自身を思惟する。)
② 理性が保っていると思われる神的な状態は、思惟の対象を現にみずから所有している状態すなわち〔現実態〕である。
③ (理性が現実態として在るとき)観照は最も快であり最も善である。

最後に『二コマコス倫理学』からも少し引きましょう。

「…かくしていま、もろもろの卓越性に即しての営みのうち、政治的とか軍事的なそれは、たとえうるわしさや規模の大いさにおいて優越してはいても、非閑暇的であり、或る目的を希求していてそれ自身のゆえに望ましくあるのではないのに対して、知性の活動は――まさに観照的なるがゆえに――その真剣さにおいてまさっており、活動それ自身以外のいかなる目的をも追求せず、その固有の快楽を内蔵していると考えられ(この快楽がまたその活動を増進する)、かく、自足的・閑暇的・人間に可能なかぎり無疲労的・その他およそ至福なるひとに配されるあらゆる条件がこの活動に具備されているものなることがあきらかなのであってみれば、当然の帰結として、人間の究極的な幸福とは、まさしくこの活動でなくてはならないであろう。」(第十巻第七章)

「…かくて、生きているところの神から「行為する」ということが、いわんや「制作する」ということが取り除かれるならば、そこには、観照のはたらき以外の何が残るであろうか。してみれば、至福な活動たることにおいて何よりも勝るところの神の活動は、観照的な性質のものでなくてはならない。したがってまた、人間のもろもろの活動のうちでも、やはり最もこれに近親的なものが、最も幸福な活動だということになる。」(第十巻第八章)



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 止観とはどういうものか | トップ | プロティノスーー自然、観照... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

「‶見ること″の優位」」カテゴリの最新記事