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四国遍路の旅記録  平成25年秋  その4

大岐の浜、足摺岬、金剛福寺



久百々の浜


久百々の浜


久百々の浜

久百々の海岸の巌と波、そして道の先に浮かぶ足摺の山影。
この風景を、酔うような気持ちで眺め何度歩いたことでしょう。今度もまた写真に収めました。
やがて、大岐の浜が見えてきます。浜全体が見渡せる高所から、無限のように幾重にも寄せてくる波頭をづっと眺めていました。
この浜は遍路が歩く道でもあります。
私は、四国の遍路道の中で最も素晴らしいと思う道の一つであり、今回の遍路で最も希求した、その道です。
浜には、昔から多くの命が波に乗って、あるいは空を渡ってやってきているように思えます。浜の砂をゆっくり歩き、渚で祈りました。
浜に渡る危うい木橋の上を逆打ち遍路が通っていました。その黒い影は瞬く間に消えてゆきました。どの時空に行ったのか・・疑います。


大岐の浜


大岐の浜

大岐の浜


大岐の浜


大岐の浜


大岐の浜


大岐の浜

大岐の浜の海岸線は、昭和に入ってからでもかなり後退していると、地元のお年寄りから聞きました。昔の砂浜はもっと豊かで遠浅に沖に張り出していたのでしょう。
「名所図会」には 「くもゝ村山路也、大木村此所ニテ支度、小谷川水出の時ハ川上よし、浜辺砂道廿丁斗リ 山路此間二一丁四方芝原有、景吉・・」とあります。
水出のない時や潮の引いた時は松林の中の浜辺砂道を通ったようです。
浜の風景は白砂青松と言われるのでしょうが、ここの松は若木が多いようです。件の野中兼山の命により植えられた松が昭和30年代のマツクイムシのために枯れ、今見る松はその後に植えられたものといいます。
浜の最後、「靴を脱いで小川を渡る・・」のが常でしたが、この度は小川はすっかり姿を消していました。


以布利港の近く、民宿旅路。ここには何度お世話になったことか・・お父さんとお母さんがおられました。お父さんは以布利の漁協の組合長もやられていたとか。
お父さんからもお母さんからも、たくさんいいお話をいただきました。照葉樹林は命を育むという話や、海の資源と人の生活水の循環の係わりの話を熱く語られたことを思いだします。それらは自らの生活の中から得られたものである故に特に強く心に残っているのです。
最近、お父さんは亡くなられたと聞きました。民宿の看板も外された家の前で、合掌させていただきました。
以布利の港を抜け浜を通って以布利遍路道へ。
山道の入口の岩に立つ仏海の地蔵菩薩。その限りなく穏やかな表情に見入ります。この地蔵「道しるべ地蔵」とも呼ばれるように道標でもあります。光背の左側上部に「あしすりへ三リ五丁」と刻まれているようです。


以布利の浜の仏海の地蔵

 「あしすりへ三リ五丁」

 足摺の遍路道

 足摺の遍路道

細い県道27号をショートカットするように、いくつもの山道があります。昔からの足摺の遍路道を思わせるような豊かな道です。
それらの道の所々に足摺遍路道特有の自然石の丁石を見ることがあります。真念庵の近くの「三原分岐」の350丁石から始まって、38番金剛福寺まで一つづつ数を減らして、350の丁石があったと言われます。
三原分岐の案内板には、「55基が今に残る」と記されていますが、さて今は・・ 
しかし、考えてみるとこの丁石の丁数はちょっと不思議。
足摺七里と言われますから、1里を36丁とすると252となり350と合いません。これは、土佐においては1里を50丁とする慣行があり、これに拠ったとされています。
そして、丁石の多くは美作国(岡山北部)の行者、玉林院宗英が建立を呼び掛け、弘化2年(1845)から嘉永5年(1852)までの間に設置されたものと言われます。
足摺の丁石というと、何となく真念の時代との関連を想うのですが、ずっと後、幕末のものなのですね。
(丁石の写真も撮りましたが、ごきげんの悪いコンデジでは手に負えない。ごきげんでも刻字を表すのは難しいかも・・とにかく載せません。)

県道27号から348号が南へ分岐する所の直後から始まる山道は、足摺まででは最も長く残っている旧道。3k近くはありましょうか。
民宿旅路のお父さんの話を思いだしました。
「ワシが子供の頃、この道の途中に家があってなー そこへ新聞配達に通ったもんや・・この道だけは通らん方がええ、きつい道じゃ・・」 
でも、今回は通ってみます。
他の旧道には付けられている「足摺遍路道」の標示は、どういう訳か外されていました。(この標示には確か「県道30分、山道60分)」と書かれていたはず。)
代わりに蜘蛛の巣の出迎えです。
この道には丁石が特に多く残っているようでした。10基近くはあったか・・ 
入って暫く、平な場所に石垣。家の跡。
後半は谷を橋で渡り、尾根に上るのを繰り返す。数えた人がおられて、木橋5、石橋1だそうです。
山道の出口は墓地を通り、窪津の街を見おろす海蔵院の前に。
多くの石仏がありますが、特に注目されるのは、石段の降り口に置かれた文化9年(1812)、捕鯨を生業としていた津呂組が寄進した地蔵石仏。
補修の跡が目立つ石仏ですが、台座には「(手印)へんろみち 文化九壬申 津呂組 為鯨供養也 施主鯨方当本 奥宮正敬立之」と刻まれています。

(追記)海蔵院について
窪津の海蔵院については「南路志」に次のような記述がある。(意訳)
「本尊十一面観音、寺記に云う、宝永4年(1707宝永地震)に流失して今の所に移る。以前はホノキ山の際と中段にあったが、寺地が大きく流失した。阿弥陀堂がある。」
今は寺地も細い坂道を上った高所にあり、本尊も変わっている。(大日如来)

 海蔵院と鯨供養地蔵

(追記)江戸期の捕鯨について
海蔵院の鯨供養地蔵を見たところ、土佐の捕鯨について少々触れておきましょう。
土佐で捕鯨が盛んとなるのは17世紀後半、紀州の網取捕鯨を習い取り入れたことに始まるとされています。津呂組、浮津組の二つのグループが、室戸の津呂港、足摺の窪津浦を拠点に活動してしていたようです。
津呂という地名は室戸と足摺にあること、室戸の津呂港は土佐藩家老野中兼山の命により整備されたことなども知ります。
捕鯨の様子は宝暦4年(1754)日本山海名物図会にも示されています。


日本山海名物図会「鯨置網」


さて、この山道(旧道)を通るべきか、はたまた県道を通るべきか? 
山道からは海は殆ど見えないし、私のような山道好きでもちょっと考えますね。

時間に余裕がないときは通らない方がよいでしょうね。

窪津から足摺岬までは只管県道歩き。
途中の赤碆には、昔38番の奥の院があった白皇山に行く道があった所で、首の無い地蔵の台座に古い標示も残っています。「右へんろみち 左白王山みち」 寶歴丁丑(=7年(1757))。山道も伸びていますが、白皇山まで行けるかどうか・・

余談ながら、昭和18年の漫画家宮尾重男「四国遍路」には首のある立派な地蔵の姿と白王山に向かうリュック、帽子、ゲートル姿の本人?が描かれています。当時、ここより白王山へは打ち戻りの道を辿ったと思われます。

足摺岬に近ずくと、右側に上る山道が多く見られます。昔の遍路道でしょうか。その辺りで見た11丁石、最も若い数の足摺遍路道丁石か・・。
 

38番札所金剛福寺。境内は改装が終り、新しく出来た池が鏡の様。
この寺の山門にかかる扁額には、補陀洛東門と書かれています。昔、多くの人がこの地から補陀洛渡海を目指したという、その永遠の水のおもてを表しているように思えました。(金剛福寺の寺の推移と足摺の地名起源については、三巡目の日記に記しました。省略します。)

納経所で「きれいになりましたねー・・」というと「お蔭さまで・・」四つ目の重ね印を見て「これ全部歩きで?・・ああ、たまには電車、バス・・そりゃ仕方ないですよ・・」と年長者には労り。

門前には寺名を彫った石の他に二つの標石が立っています。
左側は徳右衛門標石「是ヨリ寺山迠十二里」。これは、打ち戻りでの延光寺までの距離
を示しています。
右側、蘇鉄の葉に隠れるような古い標石。(読み辛いですが)「従是寺山江打抜十三里 (小さく)月山へ九里」。月山まわりで十三里はおかしい・・これも、1里を五十丁で表示した里程だと言われています。(1里を36丁で計算すると18里となる。)そして、下に小さく彫られた「月山へ九リ」は1里、36丁での追刻だということのようです。

 金剛福寺前の標石

足摺岬

本日の宿はまだ5kほど先。歩いたか・・? それを聞かねーでください。まだ、足摺り岬も見学せにゃいかんのですから・・

 大岐浜付近の地図 土佐清水付近の地図 津呂付近の地図 足摺岬付近の地図を追加しておきます。

                                                     (10月2日)


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四国遍路の旅記録  平成25年秋  その3

窪川岩本寺、松山廃寺、伊田へ

37番札所岩本寺から足摺の38番札所金剛福寺までの距離は、協力会地図によると80.4km。四国88ヶ所巡礼の札所間の距離としては最長。
でも、民宿のご主人の中には、実際の距離はそれより5kくらいは長い・・と言っている人がいます。実際はどうなのでしょうか。

岩本寺を出て国道56号を行くと、金上野(きんじょうの)という所の外れ、もう峠に近い場所ですが、地蔵の横に徳右衛門標石 「是ヨリ足すり迄廿里」があります。

 
金上野の徳右衛門標石
 

峠を少し下って国道を離れ片坂へんろ道に入ります。そう、最近この入り口にお大師さんの像が移されていますね。
「名所図会」にはちょっとおもしろい言い回しがあります。 「片坂、上り壱丁斗りにして下り十丁余、是ハ昨日とふりし添身見ず坂半里上りしに下り五丁斗りゆへ爰ニてもどし、峠に景よし高岡郡、幡多郡の境標木有り。・・」。
前半、なるほどそうも言えるか・・ 後半、今は景観も無いし標木もないなー・・
下りが殆どで、上りよりは楽なのですが、夜来の雨で石畳は濡れていて滑ります。石畳というのは草鞋(わらじ)に向いた道なのでしょうか。
市野瀬から佐賀の道について「名所図会」には「・・是より佐賀町、四里の間谷合にして家すくなく用心悪し・・」と記しています。
市野瀬から伊与喜までの旧往還道の多くの部分は今の国道に変わっているので、協力会でもこちらを遍路道に充てているのでしょうが、私が3巡目に通った伊与木川右岸の道の方が、若干距離は長くなるものの、車の通行も少ないだけでなく、点々と神社や人家が見られ生活の中で今も生きている道、歩くにはいい道だと思います。
こちらは「四国のみち」。意地を張らず(?)にこちらを遍路の道とすべきでは、と思うのですが・・ 
(いや、失礼。協力会地図10版ではこの道を遍路道に充てたようです。)
今回は国道を行きます。
(追記)市野瀬から橘川に入ると国道の橋の左、旧道に沿って地蔵堂があり文化7年の道標があります。道標には「右遍路道 是ヨリ足摺江十八里半 肥前・・」と刻まれています。

拳ノ川で川の流に沿って、道は大きく左折します。この箇所、昔は辻越坂という峠越えの道で、峠には一里塚があったそうです。ちょっと入ってみました。 
入って少しの所で倒木があり引き返しましたが、道筋はちゃんと残っています。出口側は、一軒の民家がある所で立派な石垣も残る道。道傍には若狭の人の墓があります。(「若州三方郡笹田村・・」と刻まれる。)遍路墓と思われます。

辻越坂の出口。遍路墓も見える。

道は伊与喜から国道を離れ熊井に入り、遍路の間でも人気の高い熊井トンネルを潜ります。その先、民家の植込みの中にあるという徳右衛門標石、予想の通り見落としました。 
佐賀から井の岬に近い灘までの白浜の道は、山が迫った海岸を行きます。昔は台風などで波が高い時は通行できないことが多かったと思われます。
澄禅は佐賀の先 「是ヨリ大坂ヲ上下スル事一里半也」と記しており、海岸を通らず、馬路、黒瀬を経て有井川に至る山中の道を選んだと考えられています。


白浜の海岸(晴れの日の表情)


白浜の海岸(荒れた日の表情)

 灘から国道は井の岬トンネルを通りますが、昔は今のトンネルの北側に山を越える道があったようです。「なだみね坂」とか「松山坂」とか呼ばれていました。
ちょっと入口を探ってみましたが、見つかりません。
灘の街中で尋ねてみます。
「今はそういう道はないのー、ワシら井の岬を回る道をへんろ道と呼んどったけどなー・・」 
井の岬を回る道を遍路が歩いたことがあったとしても、それはそれほど長い期間ではなかったような気がするのですが、まあとにかく歩いてみることにします。
岬を回る道は、その殆どが崖と海との間に貼りつくように造られています。
崖に迫る樹木は「魚寄りつきの森」として保護されているのはよいのですが、産業廃棄物の処理施設がいかにも大仰に見える他、民家は一軒もないという寂しい忘れられたような道なのです。

営業を止めた温泉施設の建物の前を右折して、松山廃寺跡に寄ります。
松山寺は空海の開基と伝えられ、江戸時代には大いに栄えたと言われます。
明治の廃仏毀釈により廃寺。紀貫之の「月字の額」が伝承されたことでも知られる。それに因んだ「月字和歌集」なども現在に伝わっていると言われます。(継承寺は伊田の観音寺と思われます。)
「松山寺跡」の石標から山道を200mほど上ると、荒れ果てて墓石の散乱する寺跡。
元の境内と思われる場所に個人の家の新しい墓があったりします。
墓石の半分を鋭い切面で切り取った僧侶の墓が気味悪く、印象に残ります。町の史跡に指定されているとはいえ、この荒れようは・・寂しい限りです。

 松山廃寺への入口 

 松山廃寺跡

今日の宿の有井川のさきまで。

伊田の海岸の朝


拳ノ川付近の地図 佐賀付近の地図 上川口付近の地図を追加しておきます。
                                             (9月30日)



入野の浜の魅惑、そして伊豆田峠へ

上川口から先には、「王迎」とか「王無」とか、曰くありそうな地名が続きます。
これは、元弘の乱(1331)に敗れた後醍醐天皇の第一皇子、尊良親王(たかよししんのう または たかながしんのう)が土佐に遠流となったことによります。
王無の浜には「尊良親王御上陸地」の碑があります。
親王は土佐での2年の後、九州に渡り挙兵、戦乱に明け暮れた27年の生涯を越前で閉じることになります。

 王無浜の碑

 鞭の大師堂

鞭(ぶち)に大師堂。堂前に「足摺山十二里」の明治期の標石があります。
吹上川に架る洒落た形の橋(月見ヶ浜橋)を渡って入野松原へ。
昔の主往還も今の遍路道もメインは段丘上の道ですが、できればもっと浜に近い道を歩きたくなります。
輝く海、波、静かにたゆとう入江、深い松原・・土佐は東方の芸西村に琴ケ浜という素晴らしい浜と松原の道を持っていますが、この入野の浜は、長さこそ吹上川と蛎瀬川の間の3kほどに過ぎないけれど、その美しさにおいて決して引けをとらないと思えます。
浜はサーファーの舞台でもあります。時に外国人のサーファーに出会うこともあります。
沖の波頭を一心に見つめる碧い眼差し。遍路のあいさつに応えることはありませんでしたが・・


入野の浜


入野の浜(吹上川)

入野の浜(吹上川)

入野の浜(松林)


入野の浜


入野の浜(サーファーの影)


蛎瀬川

入野から四万十川を渡り、対岸の津蔵渕に至る道は協力会地図などによれば、凡そ3つが示されています。
一つ目は、入野から蛎瀬を渡り田野浦へ。そこから広域農道などを経由して竹島、四万十大橋を渡るルート。 二つ目は、上記の田野浦から海岸沿いの道をとり双海から下田に至る。そして、最近再開された下田の渡しにより初崎に渡るルート。
そして三つ目は、入野から田の口、国道56号に沿い古津賀まで。古津賀から井沢を経て四万十大橋を渡るルート。 
昔はどうであったのでしょうか。
「道指南」では 「○入野村、かきぜ川引舟有。○たの浦(田野浦)、これより七八町はまを行、標石有。むかふ山はなハ下田道、こなたハ舟わたし。少まわり道、○いでくち村(出口)、此間小川・坂有。○たかしま村(竹島)、大河、舟わたし、さね崎村(実崎)天ま(天満)という所に引舟有。ま崎村(間崎)薬師堂有。、つくらふち村・・」とあります。
現在の道の一つ目、二つ目にほぼ合致するのですが、一つ目のルートとの違いは、「いでくち」からほぼ真っ直ぐに(文中「此間小川・坂有」の部分)渡し場のあった竹島(竹島大師堂)に向っていたと想像できることです。なお、上記引用中、四万十川を渡った後更に「天まという所に引舟有」の部分について、今の地図によると支流、中筋川を渡ったように思ってしまうのですが、この川は上流の坂本で合流していたのを近代に付け替えられたもので、引舟の場所としては深木川が充てられているようです。
一方、三つ目の道に相当するルートは「四国偏禮繪図」に「○イルノ(入野)○タノクチ(田の口)、谷川五ツ○アフサカ(逢坂)、谷川四ツ○コツカ(古津賀)○イサムラ(井沢)○タケシマ(竹島)」と示されています。ただし、古津賀、井沢間は今の田圃の中を行くルートではなく、古津賀大師堂から井沢祠堂を経る山の道だと思われます。
私は、田野浦の分岐で下田の渡しが欠航であることを確認した上で、一つ目のルートを辿りました。出口から竹島へ直進する昔の道を意識しながら、時々脇道へ入っては寄り道をしました。石仏の一つでも出会いはしないかと期待しながら・・ 空しい期待でしたが。

(追記)田浦の浜 昔 昔
澄禅は江戸初期の「四国遍路日記」の仁井田五社の後に田浦(田野浦)の塩浜作業の様子を書き留めています。澄禅が人々の生活の様を記すのは珍しいこと・・高級僧侶の感じ方に興味を覚えます。引用しておきましょう。
「田浦ト云浜ニ出タリ。・・爰ニテ塩焼海士ドモノ作業ヲ見ルニ、中々衾成躰ナリ。(嬉々として作業をしている様子をいう) 先男女ノワカチモ慥ナラス(男女の区別もわからない)女ドモガ小キ子ヲ脇ニハサミ来テ、件ノ児ヲ白砂ノ上ニ捨置テ、荷ヒ(担桶?)ト云物ニ潮ヲ汲テ、柄ノ長キ柄杓ニテ平砂ニ汲掛テ砂ヲ染タル有様、誠ニ浮世ヲ渡ル業ハ扱モ品多キ者哉ト弥思ヒシラレタリ。」
                                   (令和5年9月追記)       

竹島、もう四万十川が近い道。8年前、私の最初の遍路の時。納屋のような家から出てきたおばあさん。少し傷んだ梨を戴き、いろんなお話を
伺った終りに「おへんろさん、おひとりで たまりませんなー」と言われた言葉、想い出していました。その道傍、今はもう家もありませんでした。

 四万十川

10月に入ったというのに夏のような日。間崎に「おへんろさん 寄っていってー・・」の看板を掲げた小さな食堂があります。熱中症の始めのような眩暈がしてきていたので「氷水くださーい」と倒れ込みます。
氷水、凍ったイチジク・・これお接待。
「広島には会いたい人がいるんよー・・」 60台半ばには見えない若振りでふくよかな女主人。「ワタシはここにくる前は埼玉のT、その前はT・・」何と、私が住んでいたと同じ時期に同じ場所に。ちょっと奇跡のような符号に話が異常に弾みます。

間崎には、少々人を驚かせる案内板を見ます。
「室町時代、戦乱の京を逃れて土佐国幡多荘(中心は中村)に下向した、前の関白、一条教房が、この地の山を大文字山と称し、京を偲んで毎年大文字焼きを行っていた・・それは今も引き続がれている。」というような。

これから、昔の清水往還の一部であると言われる伊豆田坂を越えるつもりです。
この道が清水往還であったということについては、若干の疑問を感じないわけではありません。元禄の頃の地図には、間崎から海岸沿いで下ノ加江に行く道が往還の道として示されているということですし、ネット公開されている
天保国絵図(国立公文書館)を見ると、入野村で中村へ行く大道と別れた往還道は、田ノ口村、田ノ浦村、出口村、伊屋村(現在は双海と改称)、下田村(渡し)初崎村、(ここまで前記の二つ目のルート)立石村、布村、下野茅村、鍵懸村、久百村と、やはり海岸沿いの道となっています。
また、これは以前のこの日記にも引用したかと思いますが、澄禅が「イツタ坂トテ大坂在り、石ドモ落重タル上ニ大木倒テ横タワリシ間、下ヲ通上ヲ越テ苦痛シテ峠ニ至ル。」と書いています。台風の後の様子らしいとはいえ、相当な悪路であったようです。

往還であったかどうかは兎も角、江戸時代の殆どの遍路記に登場しますから、最短距離を選ぶ遍路が通った道であることは間違いありません。 
今は閉鎖されている国道の旧トンネルが出来たのが、昭和34年。それまでは、昭和32年、痛ましい転落事故が起きたことでも知られる峠越えのバスが、細い曲がり曲がりを重ねた道を走っていました。(バス道のルートは今の25000地形図でも確認することができます。) 
昔からの伊豆田坂は、少なくともこの半世紀の間、忘れられた道であったのでしょう。

私は、2010年4月、逆打ち方向で強引に尾根を登り、峠の茶屋跡に達しています。(3巡目第4回その5の日記参照) 
その数ケ月後、東京のMさんをリーダとする4人の方が(3人の方は私も存じあげている方です。)草や竹を切り、標示を整備され、迷わず通れる道となりました。
伊豆田峠に通じる旧国道を行くと「この道、通ったことあるん・・えらいのー」軽トラのおばさんから声。 
無線鉄塔のある葛篭山(つづらやま)への1車線車道から右の山道に入ります。
荒れた急坂。枯竹、浮石で歩き難い。やがて2基の大師像。その先すぐが峠の茶屋跡。
「四国遍礼名所図会」には「いつた坂大坂也 甚だけハしく、峠ニて休足、右手に金剛水右手ニ有、人皆是をのみ悦ぶ、加持水也、坂九合ニ有、坂下る・・」とあります。
表記は曖昧な所もありますが、大師像の場所に水が湧いていたようです。 
二つの大師像、以前にも書きましたが、向って右が天保5年(1834)大師御遠忌一千年に立てられたものといいます。また、左の像は台座に享和元年(1801)の銘があります。2011年の暮以降、首が無くなっています。残念至極です。
峠には作州の人の名で「足摺え 七里二十町」刻まれた標石。茶屋の礎石と思われる石や陶器の欠片が散乱。
茶屋につては「名所図会」にも何らの記載が無いことから、明治以降の比較的後のある期間、開かれていたのではないかという気がします。
峠から尾根道に下る道筋は、前記のMさん達は随分左右に振って設定しています。私は、もう少し直登に近いルートが旧道であったような気がするのですが・・ 
尾根道も浮石、路肩の崩れなど歩き易い道とは言えません。
最後、尾根から右折して舗装道に下りるところだけは、十分な手が入り整備されています。舗装道からこの道を見れば、前回の私のように川に沿って直進することはなかったでしょう。(あっ、誰かに怒られそうなので・・、枯竹、浮石、いくらかは片ずけたこと、追記しときます。)

伊豆田峠の大師像(左側の大師像の首があった頃)

 峠の標石


峠からの下り道

 舗装道への出口

旧国道を下った所は、三原への道の始まり、「三原分岐」と呼ばれる場所。
右へ行けば三原を経て延光寺への道。真念庵もすぐ傍ですが、ちょっと理由があって今日は寄りません。
少し時間を消費し過ぎました。下ノ加江の今日の宿に急ぎます。
宿の主人は、けっこう独特で評判の分かれる方。「伊豆田峠、あの道は地元じゃ整備しとらん。あんな道を通るもんじゃない・・」と叱責。私のような山道好きには厳しい言葉ですが、遍路道とその整備のあり方について、考えさせられる言葉であると受け取らせていただきましたよ・・

入野付近の地図 田野浦付近の地図 実崎付近の地図 津蔵渕付近の地図
 市野瀬付近の地図を追加しておきます。

                                                (10月1日)



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四国遍路の旅記録  平成25年秋  その2

久礼から大坂を越え岩本寺へ



朝の安和の海

昨日に続いてまた安和の海を眺め、電車で久礼に移動します。安和の海は今朝も静かでした。

久礼から七子峠への遍路の道は、添蚯蚓(そえみみず)道と大坂道が充てられてています。
今回は大坂道を行きます。これで私は、夫々の道を2回づつ歩いたことになります。
この区間、江戸時代の遍路記を見ると殆ど全てが添蚯蚓坂の記録であって大坂が現れることはありません。
古くから土佐往還と呼ばれた主往還は、尾根を通る添蚯蚓道であったということです。しかし、この道は標高差が400mもある厳しい道。それを解決するため、現在国道56号となっている道の近くに、久礼坂という道や、その南の谷の大坂道が開かれたという経緯もあるようです。

追記「久礼坂道について」
中土佐町久礼から七子峠に向う道。最も古い道は中世以来江戸期を通じて主道(往還道)であった添蚯蚓坂。そしてその後に南の谷「奥大坂」集落を経る道を延長した奥大坂道(遍路道)がありました。

明治に入り、添蚯蚓坂の山道の不便さを解消するため建設された道が久礼坂道であったようです。(久礼坂道の開通は明治25年という記録もあります。この時期は他の国道化整備に比べ早期です。このことが明治後期より始まる車道化としての目的を十分達成することができなかった理由になったとも考えられます。)
明治から昭和前期の久礼坂道(旧国道56号)は、久礼から七子峠まで延長9.5km、狭く急カーブの連続で「魔の久礼坂」と呼ばれたといいます。そして、昭和42年、久礼坂の北方にその道に接するように建設に着手されるのが新国道56号であったのです。
明治末期の地図(今昔マップ)を見てみましょう。北から南へ、添蚯蚓坂、久礼坂道(旧国道)、奥大坂道と並ぶ三つの道が、その存在した役割を果たした時を主張しているように思えます。
国道56号が通じた現在、久礼坂道の現状はどうなっているでしょうか・・ 久礼の街から西へ太陽光パネルが広く並ぶ山中を過ぎ、中坂峠辺りまでは生活道です。(奥大坂遍路道の一筋北側の道)それから西は・・ 危険が伴うので勧められることではないでしょうが、廃道マニアも結構おられるようです。その情報によれば、新国道と繋がる標高200m辺りまでは通行可能。それより先は廃道、通行不能のよう。役割を終えた道の行く末を見る寂しさを感じます。


明治末期の地図、添蚯蚓坂、久礼坂、奥大坂道
                                  (令和5年6月追記)


(道草を食う) 古い道を好んで歩いていますと、往還と呼ばれるような主要道は、近くに川に沿った平らな地形があっても、尾根を通る山道が多いということに気付かされます。最短距離を結ぶということもあるでしょうが、出水などの時の道の保全ということを考えてのことなのでしょうか。実際、尾根に残る、今は利用されなくなった古道の堀割を見ることが何度かありました。

さて、この大坂谷川に沿った道は、花と緑と水が織りなす、なかなか見事な人里の風景を堪能できる道・・と私は思います。ただ、奥大坂辺り、天空に架る異様な四国横断自動車道は目を瞑って通りたいですね。
最後の山道、大坂は急坂ですが距離が短いので、添蚯蚓よりづっと楽です。

 大坂への道、彼岸花

 大坂への道、田圃と彼岸花


大坂への道

 七子峠へ

七子峠を下り、山裾を通る緑溢れる古道。今夏の異常な暑さは、既に彼岸花の姿を殆
ど消してしまっていましたが、床鍋青木丸と呼ばれる場所にあるという一里塚跡、そこにある徳右衛門標石を見られることを期待していました。
五社迄三里の場所。標石は五片に破断していますが、文化十一年十月の年号が入っているらしい。それは、徳右衛門が亡くなる二ケ月ほど前、最後の標石と見做されています。
私は以前この辺りを通ったとき、多くの石造物群を見た記憶があります。でもその頃は徳右衛門標石のことは知らなかった・・ 
この度は、道を行ったり戻ったりしながら探しましたが、見付けることはできませんでした。少し行った民家で尋ねてみました。
「一里塚の松はもう随分前に無くなっとるよ・・ああ、石標ね、それももう今は無いよ・・」
と素っ気ない。
探し方が悪いのか? 本当に無くなったのか? 草の中に埋もれたのか?それとも他の場所に移されたのか・・

影野から37番札所岩本寺への道は、昔の大道(主往還)に沿ったもので、大略の部分は国道56号です。しかし、江戸時代までの37番札所は通称、仁井田五社(明治以降は高岡神社)であったのですから、その道筋も異なります。
真念の「道指南」では、「○かげの村(影野)・・かい坂村(替坂本)○六たんち゛村(六反地)○かミあり村(神有)○かわゐ村(川井:平串村の別名)」(括弧内は現地名)までは大道。
平串より南西に道をとり、今は高岡神社の鳥居を通ります。
(今ある鳥居は昭和3年の設置。以前、影野から西に道をとり四万十川沿いを高岡神社まで行ったことがあります。この道の西川角には現在ある石の鳥居の以前に木造の「五社一ノ鳥居」があったといわれます。こちらの方が古い参道なのかもしれません。)
「道指南」では続けて 「此間に少山越、うしろ川、引舟あり。これハねゝざき村善六遍路のためにつくりおく。」 ねゝざき(根々崎)は今も残る地名。うしろ川は今の仁井田川。善六が仁井田川を渡るため善意の舟を置いたことを意味しています。
「道指南」に記された「少山越」の場所に今は「計り場の由来」の案内板が立っています。
「ここより西の東川角地区は広大な原野であったが、土佐藩奉行野中兼山の命により仁井田川に堰を設けて導水路を整備する計画に着手。工事は難行するが、その打開策として、土工が掘った岩盤の量によって賃金を払う策を打ち工事を完成させた・・」
(要旨こんなとこ。野中兼山、こういう話には必ず登場する名奉行!) 
今もこの東川角地区は見渡す美田。この時期、それは黄金です。

東川角の旧道は現在「計り場の由来」の案内板が立つ辺りから少し北側の丘陵の上を通っていました。その道に宝暦8年(1758)の道標が立っています。
「左 へんろみち 従是四丁計行 子々崎村有渡舩 邊路為信施渡之/右意趣者先祖為菩提 市川仲右衛門守光自分以後渡守壹人之附置者也/渡領壹ケ年分井損田米一石六斗代二拾石買求備置」
「道指南」が書かれてから70年後、善意の渡し船が続けられていたこと、渡船者への手厚い保護があったことを示しています。「名所図会」(寛政12年(1800))にも「…後川 行ふねあり・・・」と記されます。

仁井田川を渡り、根々崎からは時々河畔の竹林に入り、四万十川の表情を確かめながら進むうち、川向こうに微かに仁井田五社が見えてきます。
この神は良い場所に座っておられる。見晴るかす田畑とそれを潤すように流れる深い川。長い間、人の心に豊かなものを与え続けてきた神にように思えてなりません。

ここで仁井田五社について少々書き加えておきましょう。

追記 仁井田五社
伊予の豪族、越智氏の一族(河野氏とも)がこの地に移り地主神と協力して開墾し、祖神を祀った仁井田明神がこの神社の始まりとされます。現在五の宮が置かれる山上の地は元々墓であったとも云われます。
天平年間(8世紀前期)、行基が来て仁井田七福寺を開創、弘仁年間(9世紀前期)、空海が社を五つに分け夫々に祭神と本地仏を置く神仏習合の神社としたとされます。また神宮寺(別当)
を福円満寺に定めます。後に37番札所となります。 
一の宮(東大宮)大日本根子彦太迩尊=不動明王、
二の宮(今大神宮)磯城細姫命=観世音菩薩、
三の宮(中ノ宮)大山祇命・吉備彦狭嶋命=阿弥陀如来、
四の宮(今宮、西今宮)伊予二名洲小千命=薬師如来、
五の宮(森の宮、聖宮)伊予天狭貫尊=地蔵菩薩。 

16世紀、福円満寺が火災により廃寺、窪川の岩本坊が岩本寺として仁井田五社の別当となります。
岩本寺に伝わる伝承として、「空海の七不思議」があります。これは「三度栗」「桜貝」「口なし蛭」「子安桜」「筆草」「尻なし貝」「戸たてずの庄屋」というもので、これらのなかには四国各地にある同様の伝承も含まれています。また各地の伝承と同様に空海に託けられるものも多いと思われます。これらはもともと仁井田五社に伝わるものですが、注目すべきは「桜貝」と「筆草」は、この地より東南へ行くこと10kほどの海辺「小室ノ浜」の伝承であることです。このことは仁井田五社の大社としての影響力の及ぶ地域の大きさを表すとともに、江戸時代の四国遍路の活動の前、平安後期から鎌倉期に存在した海辺の難所を回遊する辺地修行、それに続く観音を主尊とする補陀落信仰が受容された場所を示していると言われます。
四国の外海に面した辺地修行と補陀落信仰の場所としては、大きく見れば室戸と足摺といいうるでしょう。この室戸の範囲は八浜八坂の辺りから室戸岬、(その昔は室津から室戸付近も「足摺」と呼ばれていました。)行当岬、羽根岬、大山岬までが含まれます。また、足摺の範囲には竜串や月山、篠山までも含まれると言われます。これらの地域の間にある修行地としては青龍寺奥の院不動堂裏の絶壁、そして上記、仁井田五社南の小室の浜と三崎山が当たるとされています。江戸時代以降の遍路道とは遠く離れた小室の浜周辺にも、その昔の辺地修行地が存在したということに気付かされるのです。
                                       (平成30年12月追記)


四国遍礼霊場記 仁井田五社

 平串の高岡神社の鳥居

 東川角の水路

黄金の稲田

仁井田川

仁井田川


四万十川の畔


四万十川の畔

四万十川の畔

四万十川の畔

四万十川の畔

「道指南」には、先の引用に続いて 「・・大河洪水の時は手まえの山に札おさめどころあり、水なき時は五社へ詣。」とあります。

ちょっと脱線。
江戸時代前期の澄禅や真念の記録を見ると「札を納む」という表現はあっても、今のように「納経帳に印」という慣わしは無かったのではないかとも思われます。
もちろん、写経を納めるということはそれ以前から為されていたことでしょうが。(それもやはり寺に限られることでしょう。)
四国遍路においては元々「納札」が慣わしであったけれども、江戸時代の中期以降、寺々の整備とも併行して「納経」や「納経帳」が加えられるようになってきた・・ということなのでしょうか。
この疑問に答えるべく、ここに、四国遍路における納経と納経の歴史について、研究者により明らかにされた最近の知見の一端を追記しておきましょう。

(追記) 納札、納経について
上にも引いた澄禅の日記、例えば「新田ノ五社」の項に「札ヲ納、読経念仏シテ、・・」とあるように各札所で札を納めて巡っている様子が伺えます。また、真念の「道指南」では納める札(紙札)の仕様、うち様を細かく記したのち「・・男女ともに光明真言、大師の宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり。」とあります。いずれも納経については一切触れられていません。
ここで、澄禅は札所によっては「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えていたこと、真念においてはそれが「光明真言」に変わったことは注目されることで、四国遍路の弘法大師一尊化への動きと見られているようです。
その動きはともかく、江戸時代初期までは四国遍路において納経とその行為への何らかの請け取り状を渡すという習わしは無かったと見られています。
一方、日本全国の社寺参詣に伴う経典の奉納は古くから行われ、納経請取状(後のいわゆる納経帳)の古例は南北朝時代にまで遡れるといわれますが、江戸時代の初期までの間のそれは専ら六十六部の廻国(そのなかに四国遍路の札所が含まれることはあっても)
においてであったようです。
四国遍路のみを行う者が納経を行い納経帳を作成するようになるのは宝暦年間前後(18世紀中期)と言われ、それは廻国行者との交流が契機であったと見られています。
奉納された経典についての実態は不明(大部の経典が頻繁に奉納されたとは考え難い)ながら納経帳への記入に依れば、六十六部廻国については「普門品」(法華経の一部観音経)から「大乗妙典」(法華経(大部経典))に移行、初期の四国遍路もこれを踏襲しますが、後には経名が記入されなくなります。また、江戸時代を通じ、遍路の増加に伴って納経帳の版木押しも増加したといわれます。(h29.7)
なるほど・・これで大体わかった・・

さて、仁井田五社(五社大明神)には、8世紀、行基が開いた福円満寺という神宮寺があったが、16世紀廃れた後、岩本寺が別当になったということのようです。(今は中ノ宮の境内に、福円満寺跡の標示が立てられています。今も、高岡神社で朱印を戴くと、そこには「元三十七番札所藤井山五徳智院福圓満寺ノ裔」と印されています。不可思議なことです。) 
江戸時代後期の記録である「四国遍礼名所図会」には、三十七番仁井田五社の項に「納経所ハ 十八丁をへて久保川町ニ有。」と書かれています。

大分寄り道(この日記の上で)をしてきましたが・・四万十川を前に高岡神社対岸の地。二つの標石があります。
政吉の手指し標石、一つは「(手印)三十七ばん五社 三丁」、もう一つは「(手印)大しどう」と刻します。
標石の元の場所は、一つは五社への渡船の渡し場、一つは岩本寺への小峠(宮向越)の分岐に置かれていたということです。「大しどう」とは岩本寺のことを指しているのでしょう。

追記 政吉の手指し道標について(ここに記すのは適当な場所ではないが・・)
ここで、他の日の記事と重複することを覚悟の上で、四国の遍路道で見られる政吉の手指し道標について纏めて記しておくことにします。
川の屋政吉は五島の福江の行者(と思われる)で、江戸時代末期に四国中の遍路道に素朴な開いた手形の自然石標石を残した人として知られます。
手形以外の刻字は少なく、その手形はまるで自らの手を見ながら刻んだように生き生きとした表情を見せ魅せられます。選んだ石質の所為か、保存状態の良いものが多いのも特徴でしょうか。
五島の福江(島)といえば、江戸時代中期、長崎大村藩外海(そとめ)(現長崎市)の多くのキリシタンが開拓のため、信徒であることを隠し移住してきた・・そんな所、そんな時代でした。その地に生をうけ、この独特な手指しを石に刻んで四国中を歩いた川の屋政吉が、何を祈り、何を考えたのか・・大いなる関心をそそられる事です。

四国の遍路道中には多くの政吉の手指し道標が残されている(あるいは存在した)と思われますが、私が確認した(政吉のものではないかと感じた)ものを以下に記しておきます。

・8番9番の間。阿波市土成町土成。「八ばん 九ばん」と刻した両手指しの道標。なお、この先9番法輪寺境内にも「八ばん 十八丁」、両手差しの標石があるといいます。(私は未見)
・9番10番の間。阿波市土成町水田。「南無阿弥陀佛 手指し 九ばんへ八丁 手指し 十ばんへ十七丁 當所弥右衛門 五嶋政吉」と刻す。当所の人と共に捧げた道標と思われます。
・10番、11番の間、阿波市市場町大野島、地蔵堂前。「十一ばん」とのみ刻まれます。

・12番焼山寺への山道、長戸庵の先。  「五嶋政吉」と刻まれます。
・12番、13番の間建治寺近くの道。  手指し以外は無刻。政吉のものとの確信はない。
・21番、22番の間、阿瀬比の手差し「右へんろ道」。

・27番、28番の間、田野町旧地名芝の商店街入口。  珍しく多くの刻字のある標石。「肥前五嶋 福江 川のや 政吉 此手四国中へ何百有 ミなへんろ道」と刻まれます。
・28番大日寺への道、香南市夜須町手結千切。刻字なし(判読不明)。
・28番大日寺の先、野市市母代寺。手指しは政吉のものと見られている。手指しの下「右遍路道 二十八番 大日寺 天明5年(1785)」刻まれており、その年代からみて手指しが後刻と思える。
・32番禅師峰寺境内、夫々手指しに「へんろ」「ぎゃく」と刻します。

・37番五社手前。2基(上記本文中に示す)1基 「三十七番五社三丁」 1基 「大しどう」と刻します。
・38番金剛福寺への道、土佐清水市市野瀬、三原分岐。真念石の隣り。手指し以外は無刻。
・39番延光寺への道、幡多郡三原村成山峠出口。両手指し以外無刻。政吉の手指し中、両手の表情が最も見事に表現されたものと私には思えます。(遍路日記「平成25年秋その6」の写真でご確認ください。)
・40番観自在寺への道、愛南町豊田。徳右衛門石の隣り。「へんろ ひぜん五嶋政吉」と刻みます。
・54番先、今治市阿方引地の手差しのみの自然石。確信は持てないが・・

・56番泰山寺手前、今治市小泉2丁目。道路縁石の傍。小さな石で手指し以外無刻。政吉のものとの確信はない。
・67番大興寺前、観音寺市粟井町、土仏観音。殆ど見えませんが「是より 小松尾行道」そして政吉のものとしては唯一年号、天保2年(1831)が刻まれている。
(以上18基、遍路道地図上にも示しています。)         (R2.8追記 R4.7改)

私が勝手に確認した政吉の手指し道標は以上のとおりですが、見落としている道標も相当数あると想像できます。
ここに記していない道標のうち、特に気になっているものがあります。ここに追記しておきます。
一つは白鳥温泉の近く入野山黒川の高さ105cmほど、三角形の自然石道標。劣化が進行し読み難いところも多いのですが、
・(左手指し)「 白鳥へ百十丁 大くぼじ九十丁 兼八」
この石、政吉の特徴を十分備えているように思えます。
もう一つは焼山寺下杖杉庵前(近くから移動されたと思われる)の標石。くずし字が巧みで私ごときには読むこと不可能なのですが、えいや・・と思い切って。
・自然石 「右ろ(道)? 三丁 古跡  為父母 五嶋 政吉」
古跡が杖杉庵の衛門三郎の墓(大杉)を指すものかどうか・・手差しは前面からはみることはできませんが、何しろあの独特の書体で「五嶋 政吉」と記されていますから。ご存じの方どうぞお教えください。


杖杉庵前の政吉?石


                                                                                                   (R4.9 R5.5追)



政吉の手指し標石(1)


政吉の手指し標石(2)

 高岡神社(東大宮)

高岡神社前の徳右衛門標

昔の遍路のように、高岡神社にお詣りし、岩本寺へ納経に向います。
おっと、中ノ宮の前に徳右衛門標石「是ヨリ足すり迄廿一里」がありました。これは忘れず書き留めておきましょう。

この時季としては矢鱈と蒸し暑い日。窪川の街外れで珍しく「氷」の旗を見付け、カキ氷をいただきました。
どうしたことか、今日の日記にはまだ余談が続きます。四巡目ともなれば書くことも尽きた・・と言ってはそれまでですが、この日記自体が余談のようなものですから・・お赦しください。

追記「岩本寺への古道」
明治以降の37番札所は、それまで別当寺であった岩本寺に移ります。当然ながら遍路道もまた平串を直進し(現在の国道56号(旧道)またはその周辺の道筋)岩本寺へ向かうことになります。
国道が窪川の街に入る最後の小峠を今は呼坂トンネル(昭和5年開通)で抜けますが、以前は呼坂峠と呼ばれる山越えの道でした。この道は江戸時代には高知から幡多地方への大道(往還道)の一部でもありました。呼坂峠の道筋は今はもう消えつつあると思われますが、嘗ては多くの旅人が辿った道でもあり、峠には地蔵堂が残り、幕末期には岩本寺を案内する遍路道
道標もあったと言われます。(窪川の街の入口、北琴平町にある道標は呼坂峠に在ったと伝えられている・・)
呼坂峠の道(想定を含む)を遍路道地図の「窪川付近」に示しておきます。

さて岩本寺です。

本文上記でも少しふれましたように37番札所仁井田五社の大師堂および納経所は岩本寺にありました。
山門を入った裏側に文化13年(1816)の道標が残されています。
「卅七番大師堂」/並 五社納経所」、「(指差し)ぎやく邊路みち/是ゟ五社へ 十八丁/卅六番へ 十三里」、「(指差し)じゆん邊路道/是ゟ卅八番迠 廿壹里/四万十川まで 十壹里」と刻まれます。

添蚯蚓坂の途中にあった海月庵。そこに、あの高田屋嘉兵衛が建てたとされる、願主聖心の標石が岩本寺境内に移されていると聞いています。
高田屋嘉兵衛は、江戸時代中後期の神戸の海商。蝦夷地経営に活躍、ロシア船に捕えられカムチャッカに連行されるなど・・というより、司馬遼太郎の「菜の花の沖」で知られる人でしょうか。
納経所で尋ねてみます。ベテランのご婦人が「あー、時々お参りにくる団体もいる・・あの鐘楼前にある石でしょう・・」。 調べてみても該当する名は見当たりません。(因みに、この墓形式の石は巡礼途中に客死した越後の阿部定珍の供養塔であるらしい。)
ふとその右、手指し、大師像のある徳右衛門形式の標石が目に入ります。聖心の標石ですから(聖心は徳右衛門に影響を受けたとい
われる照蓮のグループの人と言われます。)きっとこれです。
劣化が進み刻字は殆ど読み取れませんが、正面に微かに、高田屋嘉平・・の文字が。文献に依ると、文化11年十月一四日、施主勝浦屋留之助、正面に「當庵施主 攝州兵庫 高田屋嘉兵衛 願主聖心」彫ってあるようです。(奇しくも、今日床鍋で見れなかった徳右衛門石と同年同月・・それより、この文面に拠ると海月庵自体、嘉兵衛が建てたもののよう・・) 
文化11年(1814)といえば、嘉兵衛がカムチャッカを解放され、帰国した翌年に当たり、それ以前、妻おふさが嘉兵衛の無事を祈って四国巡礼をした、との言い伝えもあるとか・・(「菜の花の沖」はこれを採っていましたね。)

施主高田屋嘉平の標石

今日の宿は岩本寺の宿坊。団体が入っていないので食事は出ません。

 七子峠付近の地図
 影野付近の地図 仁井田付近の地図 窪川付近の地図を追加しておきます。
                                                (9月29日)


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四国遍路の旅記録  平成25年秋  その1

1年ぶりの四国へ

ここに私ごとを書くのは気が進まないのですが、お赦しください。2月から半年の母の看取り、そして別れ。今年の春は遍路に行く時間もありませんでした。
ホスピス病棟のベッドの上で、母は昔行った四国遍路を想うこともあったのでしょう。私の撮ったあの足摺の大岐の浜に波が寄せる写真を見て、「ここにもう一度行きたい・・」と呟いていました。
それが「その浜の上に飛んでいってください。そこでお会いしましょう。供養させてもらいますよ・・」の何となくの約束ごととなりました。

加齢による体力の衰えは、この半年で拍車がかかったような気がします。歩けるうちに歩いておこう・・というのが、1年ぶりの四国歩きの動機でした。もちろん、母の供養ということも一つの口実です。
苦しい歩きでした。そのあまり、ほんの短い区間ですが電車やバスにも乗りました。それでも予定通りには進めませんでした。
足摺の前後の二つの浜、大岐の浜と益野の浜で、自分なりの方法で供養もすることができたことが、せめてもの自らへの慰めと思っています。

私が四国遍路の旅を始めて、もう8年になります。初めの頃は、遍路道の所々で地の人、お年寄りから話かけられることが多く、その話のなかに、その地に息づく生活の知恵のようなものを感じて、感動もしてきたのですが、最近はそういうことも随分少なくなったような気がします。そのことに対応するように、(いや、反動かな・・)昔より多くの遍路が、旅人が、その地の人が、周囲の自然や風物に多くの心を残してきた、そんな道を確かめて、歩きたいという希望は強くなったような気がします。そして、歩いた人達が、後に歩く人の心を思い、また自らの証しのように道に残してきた石の仏や標石や丁石や・・そんなものを見て、手を触れて確かめていきたいとも。
実際の遍路旅では、遍路仲間や宿の人との熱中した話、偶にはその地の人との短い会話など、そんな出会いから、思わぬ遍路(遍路道以外の場所を含めて)になったりするものです。それが旅の楽しみの一つに違いないのですが、この度の日記の上では、そういうことを極力排して、上記の趣旨に沿いたいと思っています。
退屈な面白味のない日記となります・・えー いつものことだって・・おっしゃる通り、こらえてつかーさい。
これもいつものことですが、私の遍路は、巡礼の掟を少々違えるところがあるのかもしれません。我儘、勝手をお赦しください。

これまでの日記にも度々登場していますが、今回も江戸期の遍路記を参考として、日記の随所にその一部を引用させてもらっています。それらのうち主なもの、改めてここに示しておきます。
  ・澄禅 「四国遍路日記」 (承応2年(1653)の記録)
  ・真念 「四国遍路道指南」 (貞享4年(1687)の出版)
  ・「四国遍礼名所図会」 (著者、出版年ともに不明ですが、寛政12年(1800)の写本)
文はいずれも伊予史談会版によっています。

では、行ってきます。
(この度、同伴したコンデジカメラの御機嫌がすこぶる悪く、写真が撮れなかった所もあります。所によっては、前回までの写真で補ってズルしています。)







池ノ浦の漁港の民宿で

昼、宇佐大橋の袂から歩き始めます。
去年の秋、もう36番青龍寺まで行っています。ですから杓子定規には、ここはもう歩かなくてもよいのですが、実は今日の宿は、横浪黒潮ライン(通称「スカイライン」)の途中の漁港、池ノ浦にあるのです。
青龍寺に向けて歩きます。その途中で出会った可哀そうな茂兵衛標石のことなど、書いておきましょう。
宇佐大橋から海岸に沿う新道を通れば出会うことはありませんが、橋を渡り終わってすぐ右折、丹生神社の鳥居前の石垣にもたれかかるように放置され、それはありました。
一見、苔生した石塊のようにしか見えないため、これまで見逃していました。よく見ると、「・・廻目供養 ・・島郡椋の村 ・・司茂兵衛」の字が辛うじて読み取れます。上部は破損して無くなっているようですが、確かに茂兵衛標石です。
何とも哀れな姿です。どうにかならないでしょうか・・
(冒頭で言い訳したようにカメラのご機嫌が悪く、こういうものはちゃんと写してくれません。よって写真はありません。)

ここまで来たら、青龍寺へはやはり旧道「龍の道」を通ります。
井尻の大師堂のまわりは、まだ百日紅が紅さを保っていました。お堂の前には文化二年銘の灯籠、台座に明治8年の日付けで由来が刻まれた地蔵など、昔からの遍路道沿い故の歴史の重なりが見てとれます。
龍坂の樹木の成長は早く、3年前の春には上り道から見えていた宇佐大橋は、もうすっかり樹木に隠されていましたが、「九丁目」丁石や日向国小内海邑の代右衛門さんの墓(天明4年)など、お約束の心安らぐ出会いでした。

龍の道、九丁目丁石 

 

龍の道から萩岬を見る

 青龍寺の遍路

青龍寺にお詣りして、大師堂の横から奥の院不動堂に行きます。
不動堂には、以前「靴を脱いでおまいりください・・」の立札と靴箱まで置いてあったように思いますが、この度は何もなし。お不動さんのお赦しが出たのでしょうか・・ 
奥の院の南は断崖絶壁、驚くほどの青さの海が見渡せます。前回もここに立ちました。崖の下には青龍窟という岩屋があるそうです。そこに籠って修行をする行者もいるとか・・
ここは青龍寺の発祥の地、古くからの霊場です。
鳥居が並ぶ不動堂の参道の途中から南へ30mほど、大きな巌の上に置かれた虚空蔵菩薩におまいりしました。私は初めてです。
幽玄な雰囲気の立派な霊場ですが、江戸時代の遍路記には記載されていないようです。あるいは明治以降の比較的新しいものかもしれません。

ここで「虚空蔵求聞持法」についてオーバーラン気味の追記をしておきます。
(追記)「虚空蔵求聞持法」について
わが国には、古来より山岳信仰という素朴な宗教形態が存在し、それが奈良時代に入り半ば伝説化した役の行者の修験道などへの動きとして進んでいったと考えられていますが、そういった動きの中で養老二年(718)、「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼」(略して「虚空蔵求聞持法」)の請来は大きな影響を与える事柄であったと言われます。
「虚空蔵求聞持法」は山林修行の中で「自然智」を得るための知的能力、記憶力の増進に功徳があるとして流行します。
青年時代の空海もまたこういった動きの延長線上にあった時代。「三教指帰」の中で「・・阿国大滝嶽に躋り攀じ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星、来影す。」と記されています。(求聞持法が成功したというしるしに虚空蔵菩薩の使いである明星天子が流星あるいは明けの明星となって現れるといわれています。(五來重))
空海の山林修行の足跡は焼山寺(奥の院)、大龍寺(舎心)、最御崎寺(一夜建立窟)と辿れます。これらの寺は現在も本尊は虚空蔵菩薩です。空海の生地に近い出釈迦寺(捨身ケ嶽禅定)は求聞持院の院号を持ちます。(真念「道指南」には「虚空蔵尊います」の記述) また、空海の伝えはないものの禅師峰寺や竹林寺でも辺路修行の求聞持法が行われた所との伝えがあります。(禅師峰寺も求聞持院の院号を持つ) 番外霊場では多度津町奥白方の八王山虚空蔵寺、西白方の虚空蔵堂も気になる所。さらに坂出市高屋町の松浦寺(遍照院)の(求)聞持石、砥部町の総津権現山付近(五十一番石手寺奥の院石鉄山とも)(ここには赤の水岳(閼伽水)、コクゾ峰(虚空蔵窟)の地名も残る)など。
当時の求聞持法は虚空蔵菩薩の真言を唱えるだけでなく、行道と火を焚く(海の神に火を捧げる)ことを伴う厳しい修行であったと言われ、この条件に合致する場所(海岸の近くの岩場、高地)で多く行われたと考えられています。(最御崎寺の「最」は「火(ほ)つ」であると。)
この青龍寺の奥の院の場所もこの条件に合致する所であり、空海との係わりはともかく、虚空蔵求聞持法が行われた場所として考えてもよいのかもしれません。
平安中・後期になると、後に「雑密」と呼ばれる要素の強い求聞持法は(空海の請来した)体系的な「純密」あるいは阿弥陀信仰、観音信仰などの流れのなかに埋没して行ったと見られています。

 奥の院不動堂


 巖上の虚空蔵菩薩


スカイラインの道から(外海)


スカイラインの道から(外海)


スカイラインの道から(外海)

スカイラインの道から(外海)

スカイラインの道から(外海)

スカイラインの道から(内海)

 白い彼岸花

スカイラインから眺める海の様はやはり素晴らしい。
今日は快晴。濃淡二色の青に塗り分けられた海、岬の緑と黒い岩の影、岩の周りの白い波、隠されたような小さな浜の渚・・ 
舗装道であり、けっこうな上り下りがあるので、歩くのを嫌う人が多いようですが、私はこの風景の見事さに免じて、好きな方の道です。
池ノ浦の漁港まで4、5kばかりの所でしょうか、道がカーブする先の広場にスカイライン唯一の出店。出店のおばちゃんも池ノ浦から。
「みっちゃん、お元気ですか・・」 「ああ・・元気よ・・」 
そう、今日の宿はみっちゃん民宿。辰濃和男さんの「四国遍路」(岩波新書)で紹介され有名になったみっちゃんはそこの女将です。
私にとっては、最初の遍路で泊ってから8年目の再訪になります。

スカイラインから池ノ浦まで、高低差150mの長い坂を曲がり曲がって下ります。
宿の前の道は井戸端会議風、おばちゃんたち数人の話声。その中から「○○さん・・」 声を掛けられました。
みっちゃんは元気そうでしたが、8年間の間にいろんな病気もしたようです。足も人工関節、手も骨折・・ 「津波が来てももう逃げないよう・・」と気の弱いことを。
辰濃さんからは今も励ましの便りが届くとか。
                                                     (9月27日)
南海トラフ地震の話も自然に出てくる。この池ノ浦地区には48戸の人が住むという。直接太平洋に面するこの浜に寄せる津波は20mという。到達時間は10から20分、スカイラインに向った高台への避難は悲劇的な結果を多く孕んでいるいるように思えます。「津波が来てももう逃げないよ・・」と言って眼前に迫る海に目を伏せたみっちゃんの顔を私は直視することができませんでした。(令和5年3月、思い出して・・)




須崎から焼坂を越えて久礼まで


スカイラインの道から(曇天の海)


甲崎の先端

朝、スカイラインの途中まで送ってくれたみっちゃんの軽自動車は、マニュアルシフト。エンジン音も元気です。ヘッドレストのカバーには、私が8年前に差し上げた浅草の半纏屋の手ぬぐいがありました。
うれしかったですよ。いま、私も同じ花柄の手ぬぐいを頭に被っています。

国土地理院25000地形図を見ると、池ノ浦から4kほど行ったところ、海に向って1.5kほども半島状に出た甲崎という岬があります。その狭い脊梁の上には山道が。
もし、両側に展望が開ける場所があれば、まるで「天空の道」。そそられますね・・
昨晩、みっちゃんに問うと、「あー、偶に釣り人が行く道かもねー・・、でも入口はわかんねー」 
その辺り見当を付けて、行きつ戻りつ探しました。やっと見付けた入口はガードレールが切れたところの小さな樹木のトンネル。
曇り日の薄暗い山道を蜘蛛の巣を払い払い進みます。道の下からはごうごうと波の騒ぐ音、樹の間から時折白い波が垣間見えますが、両側はづっと樹木に覆われています。
一つ目、二つ目のピークを過ぎて三つ目のピークへ。もう半ばです。でも、ここまでで諦めました。戻ります。
浦ノ内東分からは、内海を隔てて鳴無神社の赤い鳥居が見えます。いい神社でした。そこも懐かしい想い出の場所です。

 鳴無神社の鳥居

浦ノ内の舟


彼岸花の咲く道(浦ノ内西分)

鳥坂トンネルを抜けて須崎の市街へ。
この辺り、新しい道が縦横に出来ていて進む道筋は大層分かり難い。今回は観音寺にも大善寺にも寄りません。
新荘の道の駅に寄って、角谷(かどや)峠へ。
現在の遍路道は、峠の下を迂回する旧国道が充てられていますが、昔は、澄禅も「・・カトヤ坂ト云大坂ヲ越行。・・」と書いているように直登の道でした。
ちょっと探ってみます。旧国道が新国道のトンネル入口の上を越える少し手前、右手に上る山道。これは四国電力の保守用道路にもなっているようですが、途中までは保守用としてはかなり広い道。この道で尾根の送電鉄塔まで行けますが、旧角谷峠はこの道の途中から左に入る道。おそらく石積みが残っている辺りと思われます。残念ながら樹木繁茂です。
折角ですから、尾根まであがって、そこから須崎の街を眺めてから戻ります。

 角谷峠の入口(?)


角谷尾根から見た須崎の街

尾根から南側への下りは北側よりさらに急坂を思わせる地形。昔の道は残っていないでしょう。
この辺りの南斜面はみかん畑。急坂に設置された搬出用モノレールを見上げていると、地元の人に話掛けられます。
「昔の人はここを歩いたって・・ワシらー毎日命掛けだよ・・」

安和の海は今日も静かでした。
焼坂峠に向かう道の途中、消防屯所の横に一際大きな標石を見ます。徳右衛門の標石です。
梵字「ア」(大師像) 「是より五社迄六里」

安和の海

徳右衛門標石が出たところで、標石の御託を書いておきましょうか。(以前の日記にも書いたかな・・、私のメモとして書いている
ので、ここも読み飛ばしを)
今回の区切り(10月4日まで)では、今までよく登場してきた茂兵衛標石や真念石は、この日の冒頭の1基を除き、見られず、(実は、通った道筋に夫々1基づつあったのですが、熱中症気味とかと称して見逃したのです。)徳右衛門標石を4基見ることになります
武田徳右衛門は伊予国越智郡朝倉上之村の人。
徳右衛門の標石は、寛政6年(1794)から文化11年(1814)にかけて設置されたもので、多くは石の上部に梵字(「ア」:胎蔵界大日如来他諸仏、または「ユ」:弥勒菩薩)と大師像を彫り、その下に、最大の特徴である「是より○○迄 ○里」と札所までの里程が刻されています。
正確な地図のない当時としては、遍路にとって随分頼りになる道標であったことでしょう。
ただ、200年の年月は多くの石を劣化させており、破損し失われた石も多くあります。寂しい限りです。


 安和の徳右衛門標石

 焼坂峠の道

焼坂峠の道。他の道の選択枝はありませんから、私にとっては4度目の通行となります。
3年前に通ったときは、峠道の入口の砂防ダムが工事中で、2k以上もある迂回路(明治時代の県道らしい)を通り、距離は長いが楽ではありました。
砂防ダム工事の完了により、以前の遍路道が復活しました。
標高差200mを0.5kほどで登る急坂です。年齢を経るごとにこの道の厳しさが見に沁みる気がします。いえ、いえ、これは単に私の所為。
健脚であった昔の人も、この峠はきつかったと見え、澄禅は「・・焼坂トテ 跡ノ坂ニ 十倍シタル大坂在り・・焼坂ヲ上ル、土佐無双ノ大坂也。」と表現しています。
峠を越え、四国横断自動車道がトンネルを出て入る間300mほど、遍路道と併行する不思議な風景を味あうことになります。
久礼の街まで行きましたが、久礼の宿はどこも満員。安和に宿をとりました。一駅電車で戻ります。

須崎、安和付近の地図を追加しておきます。
                                                     (9月28日)


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「遍路」を振り返る・・

(今年の春は、ある事情により四国を歩くことができそうにありません。気の重い日々の時間の隙間で、蛇足記事を一つ書いておきます。)

遍路の道を歩いている人に、あなたは何のために・・、何をもとめて・・などと問うてはならない。
と、私は思っています。そのことは人夫々。いろいろな立場、思いの人がおられることでしょうから。

特定の宗教、宗派に身を置く人。(先達と呼ばれる方もそれに近いかな・・) 近親者の供養のため。自分探しや癒しをもとめて。山登りやハイキングの延長。風土観察の旅の一環。それに「何となく・・」など、など。
敢えて、私の場合を言えば、最初はこの「何となく」に近かったような。
そうか・・札所を廻って納経帳を埋めることだけが目的という人は別でしょうが、多くの人は四国の地を歩き始めてから次第に自らが何をもとめていたのかということに気が付く・・そんなものかもしれませんね。

他人の目から隠れた自分だけの記録ならともかく、限られた範囲とはいえ、こういった公開の形の日記のなかで自らの気持ちをあからさまにすることは気が進まぬことです。私は、これまでの日記のなかで、時々の気紛れはありますけれど、その殆どは遍路道の紹介に徹してきたつもりです。
しかし、もう私の遍路の期間も残り少なくなってきたように思います。そこで、そんなことも少々書き残しておいても・・と思ってきたところです。

私の生まれた家は、すぐ近くにあった寺の檀家で、葬祭の度にご院家さんの上げるお経を聞いていたものです。
しかし、自分が仏教徒であると思ったことはないし、宗派の教えを知ることもありませんでした。
長年勤めた会社を辞めて、ふと思い立った四国遍路・・そう、どちらかと言えば「何となく・・」 それは決して宗教的な思いからではありません。 それから、年月は経って、遍路も四巡目ともなれば「南無大師遍照金剛」のご宝号と「般若心経」を唱えながら巡ることに心の充実感と、その根拠はよくわからぬながら幸せのようなものを感じているのです。「お大師信仰」と言われますが、「お大師さん」とは真言密教の教祖である特定の人を指すのではなく、この自然と風土の奥の方にある、とてつもなく大きな存在の「象徴」のように私には思えるのです。そして、充実感を生む根源、遍路の中で何を見て何を感ずるのか・・それは般若心経の中に示されているのではないか・・これも私が至った勝手な思い込みです。
般若心経の解説書、随分たくさん出版されています。そのいくつかにも目を通しました。
ある解説者が言われるように、この経が言わんとするメッセージは、その最後に示されたマントラこそが般若波羅密としての真実の言葉であるということ・・まさにそうなのでありましょうけれど。 
また、多くの解説者が説くように、その前段、道筋としての「空の思想」により多くの魅力を感じるのです。
すべては、それ自体として存在するものは何一つとしてなく、原因や条件など他に依存して成立する。(これを縁起ともいう)これが空(性)と表現されるもの。
「我れあり、我がものあり」とする我執(がしゅう)、我所執を離れ、我身が「空ぜられる」ことに始まるその考え。現代の世の様々な悩み、課題を解く鍵がここにあるように思えてならないのです。
(遍路が被る笠の上に「・・悟故十方空・・(悟るが故に十方は空)」と書かれています。この言葉もいろいろ読まれています。私はこの「空」も心経に説くものと同じように解したいと思っています。)
このことは、以前の遍路日記の中でも少し書いたことかもしれません。
遍路とは、寺に、寺々を繋ぐ道々の自然に、人々に、風土に、石の仏に・・そういうものにとっぷり漬かりながら、自然のなかに、自然と人間の係わり中に潜む連鎖の様を見、この「空」の認識に近づこうとする行為ではないかと思えるのです。
それは、一つの宗教、宗派の宗教行為に限定されるものではないように思えます。今の言葉で言えば、スピリチュアリティ(霊性と訳されることが多いようですが、そう表現すると、また多くの意味が欠落すると・・)をもとめる行為に近いものかもしれません。スピリチュアリティを「個人の自我を超えた何かとのつながりを模索すること」と定義する人(パーカー・パーマー)もいるそうですから。

以上、春の夜の戯言を書き連ねました。ちょっと誇大妄想じゃないか、もっと気楽に・・の声も聞こえそうです。
でも、本人はけっこう本気でそう思っている・・そうに違いありません。
                                                  (平成25年3月)



                                                                                                  浜の遍路道

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