感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
四国遍路の旅記録 平成24年秋 その5
雪蹊寺、種間寺、仁淀川、清瀧寺まで
朝、種崎を7時50分に発つ県営フェリーに乗って、対岸の御畳瀬(みませ)(長浜渡船場)に渡ります。
このフェリー、人々の足になっていることがよく感じられます。多くの人が自転車やバイクで乗ってきます。
船のおじさんとバイクに跨ったままの若い女性が親しげに話をしています。歩き人は遍路一人。寂しげですね・・
やがて、浦戸大橋が、空の随分高い所に架っているのを眺めます。昨日、桂浜の近くまで行くといってた遍路。橋越えに閉口したことだろう・・
(追記)御畳瀬の旧道について
この種崎から御畳瀬への渡しは、江戸時代は今の長浜ではなく北の御畳瀬浦に着いていました。真念の「道指南」には 「・・是より渡し有、五十丁ほど海中、右にさしまといふ小島あり。〇みませ浦、片原町。なか浜村。」と記されます。ここに記された「さしま」(狭島)は昭和30年代終わりに海上交通の邪魔になると爆破され、島にあった風光明媚な厳島神社は御畳瀬の街の北側海岸に移設されました。旧道は御畳瀬の南の小峠(みませ坂)を越えて長浜に向かっていました。今は切り開かれた道の南、長浜港近くにある徳右衛門標石(「是より雪蹊寺へ十一丁/文化五辰年」)は元は峠にあったと言われます。今の標石は地蔵堂の中心に祀られています。立派な仏像が彫られているためでしょうか、堂に祀られた徳右衛門標石は他にも見られるものです。
なお、この標石は、江戸期の文書の多くが次の札所を「高福寺」と記しますがここでは正式な寺名「雪蹊寺」が用いられていることの他、
・石の最初は読み「ア」の梵字の種子があてられることが多いが、ここでは「阿」と刻まれる、
・大師像ではなく地蔵菩薩像が刻まれている、
これらのことより特異な徳右衛門石と言われます。(平成30年7月追記)
33番札所雪蹊寺。
「どちらかでお会いしましたっけ・・」の夫婦遍路。また、お会いしました。実は、今日行く35番までの全ての札所でお会いすることになるのですが・・
ご主人は無口で、奥様が盛んに話掛けてこられます。ご主人が、ちょっと不機嫌そうな顔をされるので、適当に切り上げさせてもらいました。
桂浜近くに行った遍路にもお会いしました。何もかもひどかったと苦情ばかり。
高知城下と春野を内陸水路で結ぶため、江戸時代初期に開削された「唐音の切抜」(現地名は唐戸)を通り、ここも切り下げられた「こばら坂」へ。
なかなか立派な薬師堂があります。
その先、山裾に沿って標石が多く残る道。まず、「三十四番 へんろ道」と刻まれた大正時代の石。その先に、二つ並んだ明治時代の石。よくは判読できませんが、一つには「橋迄十五丁」の字が見えます。この橋は新川川に架る橋を言うのでしょう。
真念「道指南」や「名所図会」に拠ると、江戸初期は徒渡り、後期には舟渡しとなっています。
T字路に、春には花に包まれていた、秋の初めには彼岸花が溢れていた、あの懐かしい地蔵が四体並ぶ小屋。
小屋の横には「種間寺迄二十丁 へんろみち」の道標も。
諸木の明治期の標石
諸木の地蔵と標石 新川川を渡る
種間寺
新川川を渡り山に沿って行き、34番札所種間寺へ。
種間寺の先の柿の実の下、茂兵衛160度目、明治32年の標石。その元に「右邊路道」と刻された石が横たわるのも変わらぬ。その横に小さな地蔵、丸石三段重ね、これは何だろう・・
ここから右の水路沿いの道が旧い道。後から来た夫婦遍路が不審な顔で私の方を見ています。
「まっすぐいってツカーサイ、ワタシはミチクサでがんすけー」と大声で。
お宅の花壇の中に「右へんろ道」安永2年(1773)の自然石の標石。右側面に「為二世安楽」と刻まれます。
その先の地蔵堂には、台座に「辺路道」と刻まれた地蔵があるらしいのですが、ビニールハウスの横の畦道の先で、諦めました。
森山下の茂兵衛標石(160度目) 安永二年の標石「右へんろ道」
新川大師堂(堤防手前、文政6年標石)
新道に戻ったところに茂兵衛256度目、大正3年8月の標石。これは添句付です。
「旅うれし たた一筋に法の道 義教」
他にも同様の句を刻んだ石がある、茂兵衛さん得意の句ですね。
新川には涼月橋という、明治30年頃建造の立派なめがね橋が異彩を放っています。
そこからすぐ、仁淀川の土手に新川大師堂。お堂の手前に文政6年と明治13年「従是種巻寺へ四十○ 従是清瀧寺へ五十○」の標石など三基。
昔の仁淀川の渡し場については、以前の日記に書いた覚えがありますのでここでは繰り返しません。
仁淀川の土手の道を歩きながら思いました。「この川は何と美しい川なんだろう・・」と。白鷺の姿、岸辺の木陰、白い川砂、薄の河原・・
仁淀川の河原
仁淀川の河原仁淀川の畔
高岡の街中の道はいつも迷います。
どうにか行き着いた三島神社の前を通るのが、やはり正道でしょうか。門前に天保2年の「右清瀧寺道 大勝長兵衛孫」と刻まれた大きな標石がありますし・・
35番札所清瀧寺への道は、短いけれどけっこうきつい山道です。
立派な山門の天井の龍や本堂の極彩色の方位盤など・・そんな話も以前書いた気がしますので省略。
奥の院に行こうと裏山に入ると、そこには四国写し霊場が。いくつか参拝しましたが、どこが奥の院か分からなくなって戻ってしまいました。
境内のお堂の陰で潜んでいると、夫婦遍路の奥様に見つかって、またお話してしまいました。 清瀧寺山門の龍
清瀧寺に上る、上ってこられるのは・・・清瀧寺本堂
寺を下った所のうどん屋は休業。
コンビニでパンなど食って、また随分早目に高岡市街のビジネスホテルに入ってしまいました。
種間寺付近の地図 高岡付近の地図を追加しておきます。
(平成24年11月20日)
青龍寺を打ち戻り、区切り
須崎まで行って区切ろうかと思っておりましたが、ちょっと所用ができ今日中に帰宅することにしました。昼ごろのバスで宇佐を発ち、高知からは電車です。
ビジネスホテルですから、まだ暗いうちからこっそり抜け出します。
塚地峠に向う道。
県道39号の東側の山際の道が旧道。遍路はこの道を通るべし・・なのでしょうが、こんな早朝は止めといた方がいいでしょう。旧道沿いの家には大抵犬がいて、怪しげな人が通ると、とてつもない吠え声。まだ寝てる人まで起こしてしまいますから。
塚地峠の上り。
近年の補修とも思える立派な石畳の残る歩き易い道。道傍には多くの遍路墓が残ります。
峠付近には、これまた多くの標石。
峠の中央にある青龍寺を案内する手指しの彫られた石は「手やり石」として説明板までついています。
峠からは宇佐の街、宇佐大橋が霞んで見えます。 塚地峠
峠を下った萩谷にある大石の磨崖仏。最初に見た時より相当判読し難くなっているように思えます。
初見では、岩面の一部にある稚拙とも見える線彫りの部分に、星座のような絵がいくつか見え、私は勝手に「妙見さんじゃー」などとのたもうたこともあったのですが、これはともかく、現在明確に確認できる像は修行大師像で、あと地蔵菩薩像などが彫られているというのが通説のようです。
さらに下った田畑の道(字「萩谷」)に「南無阿弥陀佛」と大きく書かれた安政地震・津波の碑があります。
「津波は八、九度押し寄せ、多くの人家は流され、残った家は六、七十軒。溺死七十余人。山手に逃げた人は助かったが、船で逃げようとした人は亡くなった。流れてきた衣服等を拾い用いた人は伝染病で死んだ・・」などと、円柱状の石面にぎっしりと彫られています。
これらの教訓は、後に発生した南海地震で生かされ、死者は一名のみであったと伝えられています。
(追記)安政地震津波碑
この安政元年の地震・津波の記念碑(萩谷名号碑)は、その刻文の内容が極めて詳細で貴重なものと思われますので資料より写しここに追記しておきます。
(正面)「南無阿弥陁佛/安政元甲寅歳十一月五日申の刻大地震日入/前より津浪大尓溢れ進退八九度人家漂流/残る家僅六七十軒溺死能男女宇佐福島を/合而七十餘人なりき都て宇佐の地勢ハ前高く/後低く東ハ岩崎西江福島の低ミより汐先迯/路を取巻故昔寶永の変丹も油断の者夥/敷流死能由今度も楚能遺談越信じ取あへ/須山手へ逃登る者皆恙なく衣食等調度し又ハ/狼狽て船尓のりなとせるハ流死の数を免連須/可哀哉其翌日ハ御倉開希て御救米頂戴し/凍餓尓至るものなく誠ニ難有 御仁沢下り希れ/ハ後代の変丹逢ふ人必用意なくとも早く山/の平らなる傍尓岩な幾所を択ひて逃よ可し且流失/能家材衣服等拾ひ得し人暫時内福尓似堂れとも間/もなく流行の悪病ニ染ミ悉皆なくな利しを眼/前見聞し多ると越告残し殊ニ両変溺死の人能/菩提越弔ん為尓登衆議志て此碑を立る/も能と云爾 安政丁巳十一月 卥邨畊助識」
今回の区切り打ちにおいて、徳島県から高知県で多くの安政地震・津波の碑を見てきました。
その恐ろしさの心の痛手が、人々にとっていかに大きなものであったか・・物語るものでしょう。 萩谷の摩崖仏
安政地震・津波の碑
宇佐大橋を渡る
「龍の渡し」付近、対岸は井尻 井尻の大師堂
龍坂の峠より、萩岬を望む
宇佐大橋を渡ります。
この橋が出来たのは昭和48年のこと。それまでは福島から「龍の渡し」で対岸の井尻に渡っていたのです。
井尻には大師堂があり、その前を通り、山道に入って「龍坂」を越えます。昭和初期、海岸の道が開かれるまでは、この山道が青龍寺へ行く唯一の道であったのです。
この道は一昨年の春にも通り、日記にも、丁石のこと、一本松のこと、天明4年の日向の人の墓のこと・・など書いたように思いますので繰り返しません。ただ、樹木の成長の早さ。坂の途中から見えた宇佐大橋はもう殆ど見えなくなっていました。
36番札所青龍寺にお参り。
なお、昔の遍路記録に八十八ヶ寺の奥の院が登場することは少ないのですが、青龍寺の奥の院、不動堂は特別であるようです。澄禅は、独鈷山山頂にある不動堂について触れ、そこからの眺望を愛でていますが、「名所図会」にも「奥院、浪切不動尊 大師御作、本堂より四丁有、女人結界し、申の刻より人間不通・・」と案内しています。青龍寺に上る
青龍寺本堂
参道の仏、自然が供えたツワブキの花
宇佐の福島まで打ち戻り、ここで今回の遍路の区切りとする積りでしたが、バスの時刻までまだ余裕があります。
ここから先の「横浪三里」は、最近、昔のように船が運行されるようになり、これを利用する遍路も多いようです。澄禅も「陸路モ三里ナレドモ難所ニテ昔ヨリ舟路ヲ行也。」と記すように昔から難所と言われたようです。
昔は浦ノ内灰方までの海岸の道は無く、灰方坂という峠越えの道でした。この道を通ってみようと思います。
宇佐小学校の後方、少し高い所に20m以上はあろうかという赤い色の津波避難塔が出来ています。その裏の神社の所から山に入ります。(正しい入口は高台の北側のようですが・・)
文化、弘化、安政などの年号を刻んだ江戸後期の墓石が乱立する墓地の中。やがて山道に。
600mほどで峠に。 灰方峠への道
この道はハイキングコースの一部にもなっているようで、整備の手は入っています。
峠には、以前、天明元年の六十六部廻国供養塔があったようですが、今は見当たりません。
少し荒れた道を灰方の坂本まで下ります。
坂本には、昔の主要道であったことを示すように、石灯籠があったりします。
新しい海岸の道を福島まで戻り、宇佐大橋の袂のバス停で遍路装束を解きました。
浦ノ内湾の水面が傾いた陽に輝いていました。
その様をぼんやり眺めて、高知行きのバスを待ちます。今回の区切り遍路の終りです。 浦ノ内湾
(蛇足)
高知までのバスの窓から、これまで歩いたことのない四国の街をぼんやりと眺めながら、こんなことを考えていました。
私が遍路として、この四国の地を歩かせてもらうようになってから、8年近い時が経とうとしていることに気付きます。
最初の頃は、山の道で、川の畔で、心ときめくような、人との出会いが多くあったように思います。年を経るに従って、そのような出会いは随分少なくなったように感じます。
それは、四国が変わったのか、それとも自分が変わったのか・・ 山も山の道も、海も海辺の道も、相変わらず美しいのに・・ 東日本大震災以降は、歩いていること自体疚しいという気持ちもありました。
四国遍路を感傷的に捉えた記録やアピールはよく見ます。私は、特に最近、そういった観点には組みすることができなくなりました。少なくとも、まがりなりにも公開された形での日記のなかでは、書きたくないことだと・・
しかし、そのことと、これからも四国遍路を続けてゆくための糧とは別のことでしょう。その糧の不確かさ、もどかしさに心惑います。
私の心身は、あとどのくらいそのことに耐えて行けるのでしょうか・・ (あーあ、歳だなーの声も)
塚地峠付近の地図 青龍寺付近の地図を追加しておきます。
(平成24年11月21日)
四国遍路の旅記録 平成24年秋 その4
大日寺、国分寺、善楽寺、田辺島、竹林寺まで、出来るだけ昔道に拘る
今日の行程は。28番大日寺から32番禅師峰寺の先まで。
徒労の拘りを発揮して、出来るだけ昔の道を辿ってみることにします。
赤岡から大日寺に行くには、国道55号から、鉄道の野市駅の少し手前で県道22号に分岐するのが今の道ですが、昔の道は更に少し手前、石家から烏川の左岸に沿い切石山の麓を経て、現在も大日寺の手前に残る山道に繋がっていたようなのです。
石家の烏川畔のやや東方に「寶鏡山 吉祥寺道」と記した大きな石標(吉祥寺は今は廃寺)があり、その傍に殆ど土に埋まった標石があります。劣化が著しいものですが、形態から見て、照蓮標石のように思えます。
烏川に沿って行くと山裾の高い所に頌徳碑。その横の墓地を抜けると切石山裾の道。
この道は「のいちウオーキングトレイル」の一部になっているようで、整備されています。
山道の終点辺りに十五丁石と並んで「左へんろ道」と刻まれた標石があります。昔の遍路道に違いありません。それからしばらくは県道を通るしかありませんが、旧い道は前記の大日寺前の山道に繋がっていたと思われます。 切石山裾に残る道のへんろ石
大日寺
紅葉の鮮やかな大日寺を後にして国分寺に向います。
大日寺石段に「これより国分寺へ壱りはん」の徳右衛門標石。
父養寺の水豊かな農業用水路の傍を過ぎると、物部川の広い河原が見えてきます。今は県道234号の戸板島橋を渡るしかありませんが、昔はその300mほど下流が渡し場。
その土手に上部に枯れ枝が見える大きな杉の木があり、その傍に八王山蓮光院と書かれた小堂。二体の地蔵が祀られています。
物部川。昔の渡河地点の杉が見える。物部川畔の地蔵堂
小堂の横の小屋には「是邊(路)・為先祖菩代提供養」の文字が見える天明五年(1785)の石碑。
真念は「・・○ぶようじ(父養寺)村、此間に物部川、大水の時ハ大日寺よりの市町へもどり舟わたし有、つねハかちわたり・・」と書いており、江戸時代の初期は舟は無く、徒渉していたようです。
戸板島橋を渡り、戸板島から松本まで、赤い実が鈴なりの柿の木も見える田畑の中の真っ直ぐな農道を行きます。
松本に入ると、道の曲がり角2ヶ所に真念石があります。その中間に「左邊路道」と刻まれた明和六年(1769)の自然石の標石。
そして松本大師堂へ。このお堂は、平成20年、地元の人の努力と「へんろ小屋プロジェクト」の協力により、へんろ小屋と合築する形で再建されたもの。(私は、二巡目の平成19年10月、鉄パイプに支えられて辛うじて立っている大師堂を目にしています。)へんろ小屋としては、私の最も好きなもののひとつです。
昔は遍路の宿泊所もあったと言われる大師堂の周り、大きな甚兵衛桜の傍には、石仏や遍路墓など多くの石造物が見られます。
堂周辺の道は整備されコンクリート部分が増えた印象。車の通行には便利であろうけれど、この場の雰囲気は失われたよう・・残念と言うべきか。
松本から鉄道を越えて県道45号に至る農道には、以前は多くの標石が見られたように思います。ここも道の改修とともに、それらの多くが失われたようで寂しい限りです。
土佐山田付近の地図を追加しておきます。
松本大師堂への道。角に真念石甚兵衛桜の下
大師堂傍の石仏、墓石
県道45号に右折した角に茂兵衛160度目(明治31年)の標石。これには、全国の多くの神社仏閣への石の寄進者として知られる名古屋の伊藤萬(蔵)の銘が刻まれています。
茂兵衛標石と道を挟んで向い側に、半ば土中に埋まった古い標石(手印、大日○)があったはず・・見当たりません。住宅の塀を改修した際、撤去されたように思えます。
県道を少し行くと左手に、今や遍路の間でも有名な「へんろ石饅頭」の店。その前に茂兵衛157度目(明治30年)の標石。
水路沿いに西へ20mほど。この辺りの字名「へんろ石」の語源ともなった、天文三戌年十月(1738)の標石。「従是右国分寺遍路道」と刻まれています。
小川に沿って緑に囲まれた細い道が延びているのです。昔の遍路道は、こんなに密やかで美しかった・・羨みを抱かせる情景です。
この道は、先で左折して国分川の渡し場に繋がっていたようです。
川向こう、渡し場の先には、台座に文化七年(1810)と刻まれた地蔵があります。
無論、現在は県道45号を進み国分川に架る橋を渡るのですが、昔はこの橋は無く、大水で渡し船も動けぬことが多かったようです。
天文3年の標石と遍路道天文3年の標石
国分川畔の地蔵
澄禅は「・・・眠り川ト云川在、此ハ一睡ノ間ニ洪水出ル川ナリ。・・(是非ニ及バズ)近辺ノ田嶋寺ト云寺ニ一宿ス。住持八十余ノ老僧也。此僧ハ前ノ太守長曽我部殿普代相伝に侍也。・・・(翌日)寺ヲ出テ川下ノ橋ヲ渡リ国分寺ニ至る・・・」と記しています。
「眠り川」は国分川の別称、田嶋寺はその後廃寺で、研究者はその地に廿枝(はたえだ)の西島観音堂(西生寺)をあてているようです。また、川下の橋が今の岡豊橋辺りにあったのでしょうか。
29番札所国分寺は私の好きなお寺です。どっしりとした仁王門から正面の金堂に伸びる緑多い石畳の参道。柿葺きの素朴な金堂の佇まいもよいものです。
それに参道の周囲に椅子や腰掛けの石があって、お参りの人と声を掛け合うことができます。
(追記)国分寺境内、大師堂左手に自然石の標石があります。近くの遍路道から移されてきたものとおもわれますが、次のように刻まれています。
「これよりみき へんろみち 元禄二年三月二十日」
元禄二年は1689年、年号が刻まれた四国の遍路標石としては極めて古いものと思われますので追記しておきます。
国分寺付近の地図を追加しておきます。 国分寺
旧道に残る標石
国分寺を出る今の遍路道は、仁王門から南に田圃の中を辿るすばらしい道なのですが、昔の道は国分総社神社の前を通り西に向っていたようです。
田圃の中の道傍に「へんろみち(手印)大阪北堀江上通二丁目、平岡新助健之」と刻まれた道標(明治のものと思われる)が2基あります。
その道は笠ノ川川を橋で渡り、岡豊別宮八幡と岡豊城址の間の低い峠を越えて北山道(土佐北街道)に繋がっていたようです。笠ノ川川には橋脚を支えた石積みが今も残っています。
30番善楽寺への道は、県道384号ですが、昔の道はこれと重なってはいなかったようです。今の道の南側から北側の道へ・・
奥院、毘沙門堂に分岐する道のある滝本辺り、山裾に沿った昔の道の面影を追うことができます。 滝本辺りの道
「四国遍礼名所図会」に「滝本坂、小坂。峠より高知城下御城町家見ゆる・・」と書かれた逢坂峠。
今はトラックの往来激しい広い道で、当時の長閑な情景を偲ぶこともできません。
一宮墓地公園の階段を下り住宅地の中へ。旧い道もこの辺りを一の宮に向っていたようです。
元札所、土佐神社にお参りし、30番札所善楽寺へ。
納経所で「竹林寺への道筋を記した古い標石があると聞いてますが・・」と言うと、中年のご婦人が出てこられ、「古い道標と言えばこれしか・・」と境内入口右側の樹陰に案内してくださる。
「これです。これです・・」と、写真を撮って寺を出ようとすると、ご婦人が追ってこられ標石の読みを書いた資料を見せていただきました。ご親切なことです。 善楽寺境内の標石
文化九申年十月の標石には次のように刻まれています。
「(中央)遍路道 木ちん宿有 右 城下道五代山へ百丁船渡壱(あるいは三)ケ所 左 五代山江五拾丁船渡弐ヶ所有」
左の城下を通らない道を、出来るだけ古い道に依りながら五台山竹林寺まで行ってみようと思います。
土佐神社の門前を南へ。土佐神社お旅所、お旅所にしては随分立派なお堂・・までは今も昔も同じ道。ここから左折、土佐一宮駅前を通り田圃の中の道を国分川畔に出ます。
川を隔てて田辺(たべ)島隼人神社の小山が見えます。昔は渡船でしょう。(標石の一ヶ所目)
少し西の錦功橋を渡り田辺島の地蔵堂へ。
隼人神社の近くの家で地蔵堂の所在を聞きます。
若い人が出てきて、「それは、おばあちゃん・・」の声。別棟にいるおばあちゃんの所へ案内されます。
「アシはここに70年住んじゅうが、お堂はあそこんしかなか・・」と隼人神社の西の欅の大木の下の地蔵堂を教えられます。
追記「田辺島の福留隼人神社」
田辺川の傍の岩礁にある小さな神社。長宗我部氏の重臣福留氏11代、12代(隼人と呼ばれた)を祀った神社。隼人は天正14年長宗我部元親に従って豊後に出陣、島津氏と戦って戦死したと伝えます。
田辺島の隼人神社の森。右手が地蔵堂のある欅の木
田辺島の地蔵堂(実際は阿弥陀石仏が祀られる) 田辺島の道標(左)(文政3年)
右は「□ん路道/四十丁」と示す石
お堂の裏の岩の上には、多くの小社が集合されており、古い石仏も残っていますが、この近くにあったという「五台山三十丁」と刻まれた文政3年の標石は見つかりませんでした。(なお後日、地蔵堂より100mほど東、堤防道より少し入った所に存在を確認しました。「従是五臺山三十丁/右遍路道 文政三年 辰正月吉日」と刻まれます。この道標の右側にある頂部を失った石は、ここより10丁北(おそらく布師田あたり)にあり、ここに移動されたものと思われます。)
地蔵堂より南西に、高須病院の大きな建物を目指して、田畑の中の道を行きます。
道を南に転じ舟入川へ。川向こうは高須。ここが昔の渡船場。(善楽寺の標石にある二ヶ所目)
ここからは、今の遍路道に従い文珠通りを辿ります。
文珠通りの南端、絶海池には昔から橋があったと言われます。今ある橋の袂に、文化九年の照蓮標石があったはず・・以前は確認していますが、この度は見つかりませんでした。橋、道路の整備により移動したのかもしれません。(後日確認したところ、この照蓮標石は100mほど南の遍路道沿いに移動されたようでした。)
1kほどの山道を上り、牧野植物園の中を通って31番札所竹林寺へ。
高知市東部の地図を追加しておきます。竹林寺
竹林寺の紅葉
竹林寺の石段
竹林寺の石段
竹林寺のもみじ
竹林寺のもみじ
竹林寺は紅葉の盛り。石段と赤と緑の混じるもみじの対比は格別のものです。モデルさんが「ニッコリ」する撮影会もあったり、紅葉見物の観光客も多いようでした。
山門を下る荒れた石段の歩き難さもまた格別のもの。その下り口に「峯寺迄一里半」の徳右衛門標石。
(追記)江戸期前中期の五台山について
行基の開基以来藩政期に至るまで興廃を繰り返したといわれる五台山は、藩主山内家の加護を得て整備されます。「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689))と「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800))からその様子を見てみましょう。
霊場記には、開山堂(行基の像を置く)、弁財天祠、鎮守の山王権現、本堂(文殊堂)、大師堂、三重塔、鐘楼、仁王門、奥之院(阿弥陀堂)などが記されます。名所図会ではそれらに加えて、経蔵、雷堂、子安地蔵堂、茶堂、方丈などが記されています。
本堂(文殊堂)は室町時代の建立とされ、大師堂は寛永21年(1644)藩主山内忠義の建立。いずれも現在の配置とは異なり、明治以降移築されたことを示しています。(本堂の旧位置は仁王門に続く参道の石段の手前に東を向いていた。)
三重塔は明治32年に倒壊、その近接地(西側)に昭和55年五重塔が建てられました。現在奥ノ院は船岡堂とされていますが、これは大正10年の創建で昔の奥の院とは異なっています。また、現在の鎮守は当然ながら日吉神社となっています。
霊場記の絵図には寺への道について、「城下吸江道」「禅師峯寺江山中五町」、「林途?八町」と書き込みがあります。前記したように現在善楽寺境内にある文化9年の道標に、城下を通る道(百丁)と直接五台山への道(五十丁)が案内されていますが、「四国遍路道指南」では「・・行て たるミの渡、次に及古寺(吸江寺)・・かたはら町、これより五台へ八町・・」また「名所図会」では「樽見渡し、涼亭、及郷寺(吸江寺)・・」と記されいずれも城下を通る道が採られています。遍路はやはり城下の道を好んだのでしょうか。(「タルミの渡し」とは現在の青柳橋辺りにあった渡し舟と思われます。タルミ(絶海)の地名は五台山の北側に今も残ります。)霊場記絵図の道表記「林途?八丁」は現在牧野植物園に上がる北側からの坂道を示していると思われます。
四国偏礼霊場記 五台山
四国遍礼名所図会 五台山
下田川の畔、この土手を歩く
下田川沿いの道は始め右岸を、へんろ橋を渡って左岸の土手の道を辿ります。
(追記)「五台山から峰寺へ、下田川沿いの道」
「四国遍路道指南」では「これよりぜじぶじへ一里半。ごだいより八丁下江川有、舟わたし。・・」と記されます。
江川は今の下田川、現在の「遍路橋」より少し西、(和泉)の民家の前の道の側溝の上に一つの標石が寝かされています。
「(正面)(梵字)好月妙善信女為菩提 元禄七甲戊天 此はし施主、村上一雲/(裏面)右へん路ミち 舩わたし 是よりせんしふしへ一リ」(読み:小松勝記「へんろ道を辿る」より)と。以前は渡船、元禄7年(1694)橋が架かった、ということでしょうか。約100年後の「四国遍礼名所図会」では「・・川ばた行、江川 船渡し二文宛、又川ばた行・・」とあるところからすると、橋は屡々落ちたということでしょうか。
ともかく、この標石あたりが下田川右岸から左岸への渡河点であったことを示していると思われます。
それにしても17世紀の貴重な標石が道に転がっているのは残念なことに思えてなりません。今はどうなっているのでしょうか。
(さらに・・) 下田川堤の標石
下田川の堤防上にあったとされるこの標石、今はどうなっているでしょう。ズルして申し訳ないことですが、Google streat Viewを拝見。今も私が見たときと同じ場所、すこし家陰に。
この標石の表の刻文「・・此はし施主」の「はし」を「橋」と読めば、別面の「・・舩わたし・・」と矛盾するように思えます。でも、標石の再発見者である小松勝記氏は、「元禄7年に橋が架かった」と読んでいるのです。そして別資料を引いて、この辺りより禅師峯寺の上り口芦ケ谷までの廿丁を舩に乗った人がいたことも紹介しています。
(もう一度考え直してみます)要は、橋が架かった時期も渡しがあった時期も存在し、禅師峯寺まで歩いた遍路も、また舩を利用した遍路もいたということでしょうか・・(標石の両面が異なった時期に彫られたということもありますしね)戸惑いますね・・(令和5年2月追記)
十市に向う芦ヶ谷峠の手前に大師堂。周りには江戸期の墓や石仏などの石造物が多く集められています。峠近くに「右へんろ道」と刻んだ明治33年の標石。
十市の新しい住宅地を過ぎ、十市小学校の横から短い山道を上り、開発中の墓苑の中に。
墓地の中を通り、寺の参道である車道を経て32番札所禅師峰寺(通称峯寺)へ。
山道の入口に明治の標石。上った所にも以前、「三十二番」と京都の地名が刻まれた手指し標石がありましたが、この度は見ませんでした。
多くの丁石地蔵や墓など、寺の参道や境内に移されています。天明4年の地蔵、文化2年の地蔵、文化11年の丁石地蔵、それに「へんろ」「ぎゃく」と刻んだ政吉の手指しなど。
峯寺参道の地蔵(天明四甲辰年四月二日 下総国海上郡銚子荒野村(現銚子市)住人〇〇)他
峰寺付近の地図を追加しておきます。
峯寺より種崎方面を望む
峯寺からは、その一部は埋立により形を変えているものの、阿戸から種崎に繋がる弓型の海岸が見えます。ビニールハウスの列が傾いた陽のなかで輝いていました。
「砂地」という字名も残るように、ここは元々砂の浜であり、「四国遍礼名所図会」では「是より山を下る。此所より種崎迄一里の間海辺砂地なり・・」と書いています。
昔はその砂に足を取られながら歩いたのでしょう。今は種崎の渡しに乗る遍路は、一番北側の街の中の道を歩くことが多いようです。
今日は種崎近くの宿、その近くまで桂浜の近くの宿までという遍路と一緒に歩きました。
さて、この日は20番大日寺前から32番禅師峰寺まで。旧道好きの私としても、ちょっと執拗に・・昔(江戸期から明治期)に多くの遍路が歩いたと思われる道を辿ってみました。
もちろん、当時の「へんろ道」は遍路が歩いたというだけでなく、より多くの住民や旅人が利用した生活の道であったことでしょう。
その道、今はどうなっていたでしょうか・・
今も生活の道として使われている道筋も多くあります。そうでない道の多くは、昔は船で渡った川で阻まれ、消えかかった道となっているのです。
そういう道には、遍路のための「道しるべ」標石がまだ多く残っています。逆に、今も生活の道として使われている所は、道の改修により多くの標石が失われつつあります。
四国の地において、遍路の歴史(文化?)をどう残して行くのか・・考えて行かなくてはならない問題なのでしょう。
(平成24年11月19日)
四国遍路の旅記録 平成24年秋 その3
山の寺から蔵の街へ、津照寺、四十寺、金剛頂寺、吉良川
薄紅に染まる空(室戸、坂本付近)
薄紅に染まる空(室戸、津呂付近)
どうしてでしょうか、西の水平線の上がほんのり紅く染まっているのです。そんな空を眺めながら、行当岬を追っかけるように歩きます。
やがて津呂の港。早朝、出舟入船の往来が盛んです。津呂の港は、既に江戸時代の始めに整備された古い港で、真念も少し先の室津港とともに「○つろ浦・・よきみなと、石のきりとほし、目をおどろかす。○むろ津浦、ここにも石の切通、右両所のみなと、大きなるけいゑい、筆にもつくされず・・」と記しています。
津呂の港 津照寺
25番札所、津照寺参拝。
門前に珍しく保存状態の良い徳右衛門標石「是ヨリ西寺迄一里」があり、目を惹きます。
これから5年ぶりに四十寺に参ることにします。
県道202号を行き、室津川の橋の先を左折。山道に入るところは以前とは変わっています。
要所(3ヶ所か・・)には新しい石標が設置されており、道を間違えるはずはないのですが、私は最後の石標を見落とし、みかん畑のなかで草刈り機のエンジン音を響かせている主に聞いて数百m戻りました。
標石のところから新しい山道が出来ており、300mほどで従来の道と合流します。道もよく整備されており、協力会の遍路札も見ました。
ある宿の主人の話によると、室戸で観光開発を行っている室戸ジオパーク推進協議会の尽力が大きいとか・・
1kほどで頂上へ。本堂はプレファブ風でやや寂しいのですが、左手に大師像、本堂裏の山頂には室戸山大権現が祀られており、幽玄な空間を造っています。
本堂石段前の展望所からの眺望は素晴らしいもの。右手に室津の港、左手に電波鉄塔などが並ぶ室戸岬の山が望まれます。
大師の修行場跡と言われる「にしり岩」。室津方面から直登する旧参道の途中にあるようですが、草が繁茂して道筋が掴めず諦めました。
室津・四十寺付近の地図を追加しておきます。 新しい四十寺への上り口
四十寺
山頂より室津港を望む
室戸岬の山を望む
26番札所、金剛頂寺に向います。
岩戸に年号が入るものでは、四国最古という石碑があります。元は旧国道沿いにあったそうですが、今は新旧国道の間に移されています。
高さ2mもある大きなもので「従是西寺八町女人結界、右寺道 左なだ道、貞享二乙丑天二月吉日建之」と刻まれています。貞享二年は1685年。
昔は東寺と同様、西寺も女人禁制。女性は、なだ道即ち海岸の道を通って行当岬から不動岩の不動堂(女人堂)に参り札を納めていたのだそうです。
さらに、敷衍して申せば、五来重博士が言われたように、行当は修行形態としての「行道」です。弘法大師より古くからあったとされる宗教的場である行道が当時(江戸時代か・・)女人の道であったというのも、不思議な巡り合わせなのかもしれません・・
金剛頂寺門前で、徳右衛門標石「是ヨリ神峯迄六里」を見ます。
土佐に入ってこれまで、徳右衛門標石は7基あるはずなのですが、私が見たのは2基目。時間に追われ歩くなかで確認することの難しさを実感します。
東寺に続いてここでも例の夫婦にお会いしました。「どちらかでお会いしましたっけ・・」が挨拶代わりになりつつあります。
境内にある走り出しているような独特のスタイルの大師像。このお大師さん、最近一部の遍路の間で「けんちゃん88大師」と呼ばれているとか・・不幸にして私はその理由を知りません。 女人結界の石碑
金剛頂寺
下り道の遍路墓
26番から国道に下りる道は二つ。不動岩に下りる道と平尾の道の駅の所に下りる道。前者の方が古い道だと思われますが、今回は後者の道を下りました。この道も丁石仏のある緑に覆われたいい道です。
その道の途中で二つ並んだ遍路墓(と思われる・・)を見ました。
「播州加西郡綱引村 ○○墓 文政四巳丑八月廿八日」もう一つの墓も同地、同年で、日付だけが九月五日となっています。数日を経て亡くなった二人の遍路。この道は女人禁制の道だったのですから、考えられないことなのでしょうが、私にはこれは夫婦の遍路墓のように思えてならないのです。
様々な哀しく美しい想像を逞しくします。
金剛頂寺付近の地図を追加しておきます。 吉良川の街
吉良川の蔵
吉良川の街
いしぐら
吉良川の蔵
吉良川の蔵
吉良川の蔵
吉良川の蔵
東ノ川を渡って吉良川の街に入ります。
吉良川は近世には木材の産地として栄えていましたが、明治以降、木炭の生産、特に大正期には良質な備長炭の開発により、独自の繁栄を迎えたと言われます。
重要伝統的建築物群保存地区にも指定され、明治・大正期の立派な蔵が並ぶ街なのです。
蔵の壁は独特の土佐漆喰で塗られ、この地方の強い雨風から壁を守るための水切り瓦を備えています。また、台風などの強風から家を守るため、「いしぐら」と呼ばれる石垣塀が見られるのも特徴の一つでしょうか。
これらのどっしりとした佇まいには、圧倒されるような迫力さえ感じられます。
今日の宿もそんな立派な蔵があるお宅です。豪勢な日本家屋の、次の間付きの広い座敷に通されます。いささか緊張を感じるほどです。
宿の主は、いかにも大店のご主人と奥様といった風情の美男、美女。遍路のことは勉強中の様子、独特の語りの話もおもしろうございました。
(平成24年11月16日)
雨中、神峯寺へ
沈んだ色の海と空を(羽根付近)
今日は雨。風雨ともに次第に強くなる見込みとの予報。
昨日までとうって変わって、沈んだ色の海と空を左手に見ながら歩きます。
途中、バスにも乗ってズルもしました。強雨のなか、雨宿りに寄った田野の駅では、ニュージーランドから来て、北海道を始め日本全国を廻っている自転車の夫婦にもお会いしました。
「ハチジュウハチカショヘンロ・・ネ」向こうから話かけてこられます。半分もわからないながら、すっかり時間を費やしたもので・・の、そこから電車にも乗ることにしました。
唐浜で降りて、27番札所神峰寺への上り道。
4kの道に1時間15分かかりました。ポンチョを着て、ですからまあまあのペースです。 雨の神峰寺
寺ではまた例の夫婦にお会いしました。変・・敵も相当バス、電車、それともタクシーかな・・
この天気では、展望台に行っても何も見えませんから、今回は神峯神社を含め、行きません。
下りも上りとほぼ同じ時間掛けて、早めに麓の宿に入ります。今日は休養日となりました。
宿の女将おばちゃんは話好きの人で、「ここは、元々結婚式場での、そんでこんな造りになっちょる・・とか、私の父は、今の遍路道がある土地の大部分を所有する大地主であっての、寺の境内にも銅像が立ってる・・とか、N大師講の先達Yさんにはご贔屓いただいてる・・とか、バス遍路がタクシーに乗り換える所にある店のオネイサンはああ見えても孫がいるんだ・・とか、なかなかおもしろい話で退屈させないのですよ。
神峰寺付近の地図を追加しておきます。
(平成24年11月17日)
琴ヶ浜、浜の道の感動、赤岡へ 唐浜の松林
一日の雨で晴れは戻ってきました。
水平線近くの空は、やはり薄い紅に染まり、海には穏やかな波が寄せていました。
松林の傍の道を行きます。
唐浜の浜辺
釣人(大山岬付近)
大山観音や地蔵堂のある大山岬の道とは別に、昔は山越えで河野に出る道が主往還であったようです。ある地図によると、その道は名村川から山に入ったようになっています。その入口だけ、ちょっと見ておきたくなりました。
名村川に沿った道を400mほど行くと、左岸に小さな水力発電所があります。その対岸は急な山で、ここに道があったとはちょっと考え難いのですが、どうなのでしょうか・・
昔の道は徒歩道ですから、急な山でもジグザグに上って最短ルートが選ばれることが多いように思えますから、入口はここではない・・とは言いきれませんが。
主往還は河野の小さな神社付近で海岸の道に下りていたようです。
安芸までの現遍路道は防波堤の歩道です。道とは言えない道かもしれませんが、ジョギングや散歩する人にも出会え、いつも左手に海を見る気持ちの良いルートです。
安芸の市街を抜けると、今の遍路道は自転車専用道路となります。昔はどうだったのでしょうか。
真念は「○あき浦町過、しんぜう(新城)浜壱リ、すなふかし。やながれ(八流)のふもとにちゃ屋有。○やながれ山下りて小川。○わじき(和食)村、手井(手結)山ふもとに茶屋あり。・・」と書いています。
新城付近の海浜の砂道に難儀したであろうこと、そして八流辺りは今の国道より一段高い段丘上の道を通っていたことが覗えます。この道は地元では「殿様道」と呼ばれていたようです。
旧道は寸断されながらも残っているようで、ちょっと寄り道をしてみました。
どの道がその旧道であるのか、確認するのは難しいのですが、段丘上の畑と家の向こうに青い海が輝いていたのが印象的な道でした。
八流の旧道から見た海
浜と鉄道(赤野付近)
琴ヶ浜を望む
赤野の栗山英子さんの休憩所。今回も寄ってコーヒーを戴きました。ほっとする空間。ありがたいものです。
ここから続く琴ヶ浜の松林と海岸の様は、土佐の遍路道周囲の風景のなかでも、特にすばらしいものです。
海水健康プールの周囲には多くの車が止まり、静かな賑わいが感じられます。
その傍に、坂本龍馬の妻、お龍と海援隊士菅野覚兵衛の妻、君江の姉妹の胴像があります。
姉妹は京都の生まれですが、管野はここに近い芸西村和食の出身で、お龍は龍馬の死後、妹の嫁ぎ先に身を寄せたことがあり、その縁を頼りに、平成5年芸西村民の気持ちが姉妹の像として実ったということ。
遠い無限のような西の海に向って手を振る姉妹の姿は、様々な想いと感動を呼ぶものでした。
琴ケ浜
琴ケ浜サイクリングロード
琴ケ浜
お龍と君江の像
さよーなら
先に示した真念の記述にもあるように、手結山の峠を越える旧道には茶屋があったようです。
この辺り、新しい道が縦横に出来ており、昔の峠道は探し兼ねましたが、国道の手結山トンネルの出口に「天保八年創業、お茶屋餅」として、その名をとどめています。
この辺りの道から手結港が見えます。
澄禅が「・・小坂ヲ一越テテ井(手結)ト云所至ル。爰ハニギヤカ成舟津也。」と記しているように、江戸時代初期には既に立派な港であったことが覗えます。
道の駅夜須で昼食。
北側にこんもりとした山が見えます。これが観音山で、安政地震の際、この山に避難した住民は津波を逃れ助かったことから「命山」と呼ばれ、その時の様子を刻した石碑もあります。
赤岡の街は昔からの繁栄を思わせる風情のあるところです。
街中の飛鳥神社の境内にも安政地震の碑が残されています。「・・潮が引いて干上がった手結港で鰻を沢山採った。翌日大地震で家も塀も崩れ、人々は何日も徳王子の山で暮らした・・」等と刻まれています。
幕末の浮世絵師、弘瀬金蔵の絵を収納した絵金蔵(えきんくら)は特に注目。毎年7月、八幡宮の宵宮、そして「絵金祭り」に商家の軒先を飾る金蔵の屏風絵。私は2年前に来ました。蝋燭の明かりのなかの絵金の妖しい世界を思い出します。
(追記) 「絵金祭りの宵に・・」(枯雑草の写真日記2 2010.8.7)
赤岡の街中の道を、国道に曲がらずそのまま北上し橋を渡った高見地区に二つの標石が並んでいます。右側の道標石には「従是大日寺四十丁 寛政八年橋本重吉建之」と記してあります。
左側の石は下部が土中に埋まっていますが、おそらく文化7年の照蓮標石でしょう。(因みに、この近くには文化12年の照蓮標石がもう一つあります。国道55号沿いの馬袋、一里松跡碑と並んでいます。) 高見の遍路石
この標石がこの地区の通称の小字となったと言われます。それは「ヘンド石」というもの。その名付け、土佐の地故でしょうか・・
現在の遍路道の指定は国道。この標石に寄ると少々遠回りになるからですが、残念なことです。
その角を右折して国道に出れば今日の宿はすぐです。
夜須付近の地図 赤岡付近の地図を追加しておきます。
(平成24年11月18日)
四国遍路の旅記録 平成24年秋 その2
土佐街道の峠を越えて由岐へ
やめてからもう7、8年になりましょうか、私は東京にある会社に勤めておりました。
その時の同僚が四国遍路を始めて「四国の何処かで会いませんか・・」とメールを寄せてきました。
そのIさんは、普段は3000m級の山にも登られる健脚さんで、今回は阿波の国の一国打ちを計画。
私は、10月の遭難紛い(その1で書いちゃった・・)のダメージが心身ともに残っておりましたが、23番薬王寺に近い由岐の宿で会うことを約束しました。それが、今年の秋遍路再開のきっかけ。(この旅記録、その1とその2の間は、実は1ヶ月以上が経っているのです。)
由岐の宿では、特別料理として頼んだ伊勢海老のさしみ。Iさんも私も「こんなうまいもの食ったことねーべ・・」と焼酎を重ねながら、職場での昔話、退職後の夫々の別世界の話など尽きせぬ楽しさでした。
さて、その日宿に着くまで、遍路日記としてどうしても書いておかなくてはならないことがあります。
私は今年の春、22番平等寺と23番薬王寺の間の古道を探っておりましたが、小野から木岐田井に至る貝谷峠、松坂峠越えの道(土佐街道)は探索を断念、次の機会を待っていたという事情。ある方から、無理すれば通れるのでは・・というアドバイスもいただいて実行することにしたのです。
徳島からのJR牟岐線を阿波福井駅で降りて、国道55号、県道25号を歩いて県道上の貝谷口まで。新しい自動車専用道が真上に見えます。右折して、貝谷の集落の道を行き峠に向います。
山道手前の最後の家の方に聞きます。
「あしは、昔からここに居るもんじゃないが・・家内の話では、昔の街道じゃが、今は崩れて通れんと・・」 「行けるとこまで行ってダメなら戻ってきますけー・・」と、常套の問答。
最初はコンクリートを流した2m幅の山道。おそらく大師像の小堂も右手に。やがて、右に折り返し急坂に。羊歯と小木の藪が道を塞いでいます。秘密兵器の鋸鎌が威力発揮。押し通ります。
これを繰り返すこと数度。街道の名残り、掘割状の道が現れます。
最高点(貝谷峠だと・・)を過ぎる辺りから、また藪漕ぎ数度。先人が残した赤テープも所々、ありがたいものです。
松坂峠と思われる所から樹間を通して、自動車道と田井の海が見えてきます。終点は近い。
峠から少し下った所、荒れた竹林の中で首のない地蔵を見ます。台座正面に「奉施日本廻國千人 奉供養光明真言百万遍」右に「寛政五癸丑年(1793)七月」の銘。街道であった証、うれしいものです。近くには人工の石積みも残っています。なお、その折は発見できませんでしたが地蔵の近くに立派な大師像道標「右遍んろ道 大願主 泉州波有手村住 西由岐村住〇門造之 石工庄兵衛自作」があります。
そこから暫く下ると、新しく開通した自動車道の側板が眼前に現れます。
山道の出口は、自動車道の下を潜り、工事作業小屋がある所。
貝谷峠への道の始まり。右手に小堂も見える。 貝谷峠への道
尾根付近。街道特有の掘割道
松坂峠付近、自動車道が見える
荒れた竹林の中
寛政5年銘の地蔵
山道の出口。自動車道の下
この貝谷峠、松坂峠越えの道、同じ土佐街道でも今春探った田井、北河内間の小田坂越えの道とは様相を異にし、尾根付近の掘割状の道の大部分は残っており、草刈りと多少の補修により復活できる道に思えました。全長2k強というところでしょうか。
昔、松坂峠を下った土佐街道沿いにあったとされる大師堂(目晴大師)は、今は西方300mほどの山裾に、江戸初期に中興開基された地蔵庵ともども移されています。
この地蔵庵の本尊は、胸元に十字が刻まれた地蔵菩薩立像で、キリシタン資料としても貴重と言われます。(もちろん拝観できませんけど・・) 目晴大師
地蔵庵に寄り、それから石仏の点在する山裾の道を通って、由岐港口の宿に到着したのでした。 由岐港
(平成24年11月13日)
海と浜の美しさに戸惑う、田井、日和佐、生見
田井の浜の朝
田井の浜
朝、由岐から海岸の道をIさんと連れだって薬王寺まで歩きました。
田井の朝の海はねっとりとした美顔を装っていました。
南白浜では、安政地震津波を記録した石灯籠を見ます。
嘉永7年(1854)11月5日の地震は、マグニチュード8.4と推定され、石灯籠にも津波の高さ4丈余(12m以上)と記されています。木岐浦の203戸のうち190戸が流出、11人が死亡したと伝えられています。
灯籠の横には立派な二体の大師像、何を祈られるのか・・
恐ろしい海の力の記憶。それに対して今日の海の優しさ。我々はこの海にどう向き合えばよいのか・・戸惑いを覚えるほどの眼前の海です。 安政地震津波石灯籠
白浜の大師像
山座峠から
日和佐の海
日和佐の海 日和佐の浜
山座峠では、逆打ちの赤札の女性遍路さんと遭遇。へんろ靴談義のおまけまでついて。
えびす洞にも寄って、あまりにもきれいに清められた日和佐の浜に、また驚きを新たにします。
薬王寺にお参りして、Iさんは東京へ、私は甲浦まで、同時に南北に分かれる列車で発ちます。
不思議なことに、子供のように手を振ってお別れしました。
私は甲浦から生見の今日の宿まで歩きます。
この浜はサーファーのメッカとか。冬近い日とはいえまだ十分明るい時間。サーファーも浜に数人。
いつもは時間の余裕は無かった場所ですが、始めてゆっくりと浜を歩かせていただきました。その美しさを堪能するために・・
生見の浜
生見の浜生見の浜
生見の浜
生見の浜
(平成24年11月14日)
道草しながら室戸岬まで
生見の浜の朝
生見の浜の朝
生見の浜の朝
生見の浜の朝の美しさも格別のもの。歩きまわって、ついつい時間を費やします。
生見から24番最御崎寺までは35kほど。私のように足弱で、かつ道草遍路にとって、1日の歩行距離としては長過ぎるのです。そこで、ちょっと?バス利用。
同宿の夫婦遍路も同様にバス停に・・(この夫婦とは、今回の区切りの最終日前日まで何度もお会いしました。このお二人、後で知ることになるのですが、全国の旧街道を歩き通しているという、着実なペースの健脚さん夫婦なのだ・・)
私と夫婦のどちらが先にバスを降りたか? それは秘密です。
5、6k行ったと思われる頃、降車ボタンを押してバスを降ります。
やがて入木の仏海庵。
仏海は伊予国風早郡猿川村(現北条)出身、江戸時代中期の木食僧で、地元の人に慕われ、土中入定したと伝わる旧暦11月1日には、今も仏海祭りが行われているといいます。
庵内はきれいに整理され、花や供物で飾られ、今し方も読経の声があったような気配。
庵の裏には、仏海がその下で土中入定した宝筐印塔があります。
(追記)仏海について
仏海は江戸時代の四国遍路においては、真念とともに最も大きな影響を与えた人物と言いうるでしょう。ここで仏海の一生について簡単に触れておかねばならないでしょう。(その人物像と業績については、鶴村松一、喜代吉栄徳両氏の研究をもとに纏められた「えひめの記憶」四国遍路のあゆみ(平成12年度)に詳しく記されています。)
仏海は伊予、猿川の地に宝永7年(1710)の生まれ。西国三十三観音を巡拝、高野山で修行に入ります。時に18歳、5年後の23歳で落髪改衣、諸国を行脚。享保20年(1735)26歳で木食戒をもって湯殿山に参籠。一千体の地蔵尊刻像を目指し27歳で、さらに三千体刻像を31歳で成満。四国三角寺奥の院仙龍寺などに籠ります。37歳で全国廻国行脚の後、40歳で故郷猿川に戻ります。その後は四国遍路21度、土佐佐喜浜飛石に摂待庵建立。
人々に慕われ、明和6年(1769)60歳、入木村の宝篋印塔の下に土中入定するのです。
仏海の彫った石仏は多くは道標地蔵として四国各地に残されていますが、ここでは土佐に入った野根から室戸に至る遍路道で確認されたものを記しておきましょう。いずれも宝暦4年(1764)頃の建立とみられています。(刻字の読みは一部、喜代吉栄徳氏に依ります。)
・東洋町野根、野根橋を渡った所の地蔵堂内の舟形地蔵。「左へんろみち/さきのはまへ四リ」
・東洋町淀ケ磯付近の擁壁内の舟形地蔵。「さきのはまへ三(リ) 〇主木食佛海」
・室戸市佐喜浜 小仏崎 水尻海岸の舟形地蔵。「是よりさきのはまへ一リ半 のねへニリ半 願主木食佛海/三界万霊 覚然童子 智雲童子 」
・室戸市佐喜浜 津呂 墓地前の小祀(一般に地蔵堂と呼ばれる)内の石仏。「左へんろ道 願主木食佛海」。 この石仏、確定はされていませんが阿弥陀如来であると言われます。 (令和1年12月追記) 仏海の宝筐印塔
佐喜浜の入口にある八幡宮は、鎌倉時代の天福元年(1232)創立という古いお宮です。祭神は応神天皇。
今春、阿波・土佐国境の古目峠で見た「神社五里半」の道標もきっとこの神社のことです。
鳥居の両側に置かれた煉瓦造りの灯明台が目を惹きます。
昭和17年(何故か、「あー」とため息)出征兵士の武運長久を願って建てられたもののようです。
佐喜浜港、湾口にあるという徳右衛門標石は見つからず、代わりに「源内槍掛けの松」の碑を見ます。阿波侵攻の長宗我部元親と戦った大野源内佐衛門の碑です。
この地の人にとっては、数少ない中央からの侵攻軍、その残酷さを含め大きな心の傷として植え付けられたのかもしれません。鹿岡鼻を望む
夫婦岩
左側は大きな丸石が犇めく浜。右側に迫る山。そんな風景の道が続きます。
尾崎の2軒の民宿を過ぎると、鹿岡鼻(かぶかのはな)の夫婦岩が見えてきます。
真念「道指南」には「・・○おざき村、かぶか坂、村もあり・・」とあり、昔は海岸を歩くことはできなかったようです。見ると鹿岡鼻の尾根続きに樹木が伐採された所があって電線が通っていますが、この辺りが「かぶか坂」であったと推定できます。
なお、夫婦岩は崩落の危険があるとかで、現在は立入が禁止されており、以前ここにあった休憩所も姿を消しています。
椎名から三津までは山が海岸まで迫り、昔は浜を歩くことができず、山の中腹に道が開かれていたようです。
「四国偏禮絵図」(1763)その他の文献に「カシコサカ」あるいは「ひ置坂」と書かれた山道があるといいます。この道の一部は、昭和の初めまで旧国道として使われていたらしい・・それに、三津に下る所に茂兵衛標石も残っているらしい・・などと聞いては旧道好き(マニアともいう)は黙ってはおれません。
椎名川を越えたところから旧道に入ります。
「その道は通れんぞー・・」の声。「通れるとこまで行って戻ってきまーす・・」といつもの答え。
元国道だけあって道は平で、所々アスファルトも残っています。しかし、笹竹の繁茂箇所は次第に増え先が見えないところも。それに山側からの水が路面に溜まり泥沼状のところも。
また、鋸鎌が大活躍する場面です。奮戦しながら2kほど進むと、左手に下る山道を発見。
ここを下ると坂半ばに日吉神社。ここからはコンクリートを流した参道。ここに茂兵衛標石を見つけました。
「薬王寺へ十九里半 東京本郷湯島三組町 高田〇〇/弐百十九度目為供養 願主 中務茂兵衛義教/明治四十年十一月吉辰」(順打ちの東寺への標示がありません。ひょっとしたら岩側の裏面にあったのかも・・(追記)と思ったけどM氏のご教示によると何もないんだそうです。それに、この石は元々もう少し南の三津と領家の境辺りにあったとか。薬王寺門前の茂兵衛標石には「東寺へ二十一里」と記されていることからすると、なるほどその辺り。室津、四十寺方面への道の分岐地点。東寺への距離が記されていないことと関係があるのでしょうか・・) ひ置坂の茂兵衛標石
国道55号に出た所には、日吉神社の鳥居。
この近くに、明治41年茂兵衛発願による厄除弘法大師像があるはずですが、残念ながら見落としました。
三津から高岡までの旧道は、海岸の傍を通る道ですが、海洋深層水サイトやジオパークなど様々な施設が出来、道は寸断されてしまっています。
室戸岬の近く、今では空海が「三教指帰」で明星が来影したと記す修行の場所として「御蔵洞」が最も名高いように思われていますが、江戸時代の記録にはそのような記述は無いのです。ちょっと不可思議なことではあります。
東寺直前の空海所縁の窟などについては、澄禅「四国遍路日記」、真念「四国遍路道指南」(貞享4年(1687)、「四国遍礼名所図会」に詳細な記述があり、ほぼ共通したものとなっています。真念のものを引いておきます。
「・・・是より東寺までの廿町よの中に見所おほし。まづ大あな、おくへ入事十七八間、高壱丈、或ハ三四丈、広ハ二三間、或は五けん十間。太守いしをうがち五社建立あり、愛満権現と号す。この岩屋に毒竜ありて人畜をそんがいしけるに、大師〇徐し(退散させた)、其あとに権現を安置し給ふ。東に太神宮御社有。過て霊水、これを亡者にたむける。過て聞持道場、又庵有。うしろに岩窟、口壱間余、奥へ五七間。本尊によいりん石仏、坐二尺、竜宮より上り給うよし。石にてづしだん、わきだち(脇持)二尺六寸の二王、両のとびらに天人のうけぼり、ことごとく石なり。権化にあらずバ(神仏の権化でなければ)たれか此妙用をなさんや。その外竜燈時にあがり、霊瑞無辺の幽渓なり。東寺へハ女人禁制のゆへに此所にふだおさめ。海辺をすぐに津呂浦へ出る。男ハ聞持堂より七丁東寺へのぼる。」
上記で前者の窟が「御蔵洞」、後者が「神明窟」、また聞持道場うしろの窟が「一夜建立の岩屋」にあたるとおもわれます。
「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800))の東寺、女人堂の絵図を掲げておきます。
右方に窟があり、大神宮、イハヤ、アイマンなどの書き込み、中央にショウコイシなど、左に庵、女人堂の書き込みが見られます。
四国遍礼名所図会 東寺
五来重は、空海のお供が炊事をした所「御厨人窟(みくりやどうくつ)」がなまって「御蔵洞」になった、そして一夜建立の岩屋が空海が虚空蔵求聞持法を修した所(昔はここに虚空蔵菩薩が祀られていた)と推定しています。
求聞持法による修行は、真言を繰る、火を焚く、行道をするの三つの条件が揃うことであるという。最御崎の「最」は「火(ほ)つ」の意であること、洞窟を胎蔵界、岩や岬を金剛界、両方を巡ることを金胎両部の修行と見做すこと、などを知ります。この室戸岬周辺の地はこれらを実感を持って感じることのできる特別の地です。
室戸岬一夜建立の岩屋
最御崎寺
最御崎寺本堂
24番札所、最御崎寺(東寺)はいつも遍路で賑わっているように思えます。
歩き遍路はもとより、車遍路にとっても、この室戸岬の先端にある最果の寺は格別の意味を持っているように思えます。
室戸の街、行当岬遠望 眼下の荒磯
西の海の夕暮れ
寺からヘアピンカーブの車道を下ります。
この道から見る室戸の街、津呂・室津の港、そして行当岬を遠望する風景は、何度みても感動を呼ぶものです。
眼下の荒磯も、岬を遠く廻る貨物船の姿もやはりこの岬特有のものと思われます。
今日の宿は、岬から1.5k先、坂本にあります。
椎名付近の地図を追加しておきます。
(平成24年11月15日)
四国遍路の旅記録 平成24年秋 その1(番外)
野根山街道はやはり無理でした
私の四国遍路は四巡目となり、「乱れ打ち」ながら、この春一応、阿波、土佐の国境まで来ています。次は土佐の入口、東洋町からということになるのですが、大きな四国の地図を眺めながら、以前から気になっていて、通ってみたいと思う古道がありました。
室戸の岬をバイパスして、奈半利から野根に通じる野根山街道です。
この道を通ってその後、野根からは室戸の24番、25番・・・と順打ちに繋げないか、と考えていました。
この野根山街道は、718年、土佐で最も早く開かれた道と言われ、遠くは紀貫之が都との往還に、江戸時代には土佐の殿様の参勤交代の行列も通った道なのです。
土佐から江戸に向う参勤交代のルートは、この街道以外には、浦戸から船によるもの、それに北山越え(笹ヶ峰越えで瀬戸沿岸の川之江に出る土佐北街道)があったようです。
野根山街道ルートでは、土佐の城下を出て赤岡、安芸、田野に泊り四日目に野根山を越えて野根に泊ったとか。
さて、全長35.6kmの野根山街道の全てを1日で歩くことは、私には当然無理ですが、奈半利からタクシーが通行可能な米ヶ岡までが7km、また、野根側の国道493号上の四郎ヶ野峠から野根まで3、4kmに近づけば、携帯電話が可能でタクシーが呼べる・・と考えていました。
見込み通りに行けば、歩行距離は24kmほど。不可能ではないのでは・・と。しかし、結果を先に言ってしまえば無理でした。無謀でした。
この道と交差する林道はいくつかあるものの、人里離れた山地であり、トラブル時に有効なエスケープルートにはなり得ないこと。携帯電話が通じないこと・・等の悪条件があるものの、最も根本的な原因は私の足の力不足です。遍路装備の背中の荷物も、歩き始めた最初の日であったことも、その足に重しをつけることになったようです。(日頃の歩きトレーニングなどしないズボラは、初日二日の足と数日後のそれと大きな差があるのです。)
正直、遭難を辛うじて回避したという状態でした。とても恥ずかしく、見っともないことですから、その辺の記述は曖昧になることをお赦しください。
朝、奈半利から7kmほど、米ヶ岡にタクシーで行きます。この道は野根山街道に併行した谷の道で、最近全面舗装化が完了した・・と運転手。
米ヶ岡には、町立生活体験学校があり、その周りにはかなりの田畑が拡がっています。
江戸時代の前期、北川村野友の庄屋が百姓の二、三男対策として水田開墾された地で、最奥の高みにその白石伝左衛門を祀った白石神社があります。 白石神社
神社にお参りして歩き始め。薄暗い切り通しの道です。
瀬川と須川を結ぶ林道を交差して進むと、街道であった頃の石畳が残った道が現れます。
それから二里塚。塚は奈半利からの里程を示すもので野根まで8ヶ所あるとか。残念ながら、石標は当時の形式を模して造られた新しいもののようです。
その先に「六部様」。地蔵と小社があります。六部遍路は鎌倉時代末から始まったと言われる諸国霊場巡礼ですが、ここにある説明板によると、住民に嫌われ鉄砲で撃たれたこともあったとか・・それも昭和20年代・・信じ難い話です。(何やら、松本清張の小説「砂の器」の一場面を想起します・・)
土佐の殿様が参勤の際、籠を置いて休んだという石畳が残る「お茶屋場」を見て三里塚を過ぎると、街道での見物の一つでしょうか・・「宿屋杉」に到着。
この杉は嘗て周長16.6m、高さ32mの樹齢千年以上と言われる大樹で、昭和9年の室戸台風で倒壊。残る根元の空洞は四畳半もあり、旅人の4、5人も泊れたというもの。 三里塚
宿屋杉
熊笹峠。奈半利辺りの海が微かに・・
室戸市と北川村を結ぶ長大な林道(森林管理道羽根線)を交差すると、やがて街道の最高点装束峠(1082m)です。その少し手前、熊笹峠から奈半利辺りの太平洋が微かに望まれます。
「お産杉」。臨月にここを通った女性を襲ったオオカミ、それを撃退した飛脚、出産。そしてこれに纏わる怪談話・・
四里塚を過ぎ岩佐関所跡へ。ここは土佐藩にとって重要な関所の一つで、豊臣秀吉の家臣、木下家が関ヶ原戦後山内家に預けられ、番所長を勤めたといいます。復元された関所門と近くには幕末期の木下家の墓が残されています。
(追記)「安喜郡の関所について」
土佐藩では関所のことを番所とも呼んだ。国境近くのものを「境目番所」、領内の要所に置かれたものを「内番所」と云った。
「南路志」では、土佐、安喜郡(後、安芸郡)として、元越(甲浦、阿州堺)、野根伏越、岩佐、竹屋敷(阿州堺)、魚簗瀬(柳瀬)口(阿州堺)、別役口(阿州堺)、嶋村(別役の近くの旧村名)口が挙げられている。岩佐番所は主往還道(野根山道)に置かれた重要な内番所の一つである。岩佐関所跡
関所の石垣と杉
地蔵峠。この道では殆どみることのない地蔵に出会います。
地蔵は天保3年(1832)に祀られたもので、それ以前のこの辺りは「千本峠」と呼ばれるほどに多くの大杉が茂っていたといいます。今もその名残り、峠を南に下ると天狗杉という大杉があるそうです。(その先は段林道を経て佐喜浜に繋がる道であるとか・・)
見えるのは山また山地蔵峠の地蔵(天保三年辰五月銘)
ここまでの道、昔の街道とはいえ今はけっこう荒れていました。飛石や樹木の枝は足の上がらぬ者にとっては難。体調も不良で急激に足が重くなり休憩の連続。
ガイドブックなどに示された標準所要時間(2.3k/h)を15%以上下回っています。明るい内に国道493号の四郎ヶ野峠に着くことは無理。
五里塚の手前で、ついに野宿を決意。米ヶ岡から約15kmの地点です。 樹枝の屋根の下で
標高900mの夜は寒い。予報には無かったけれど、時々雨まで降ってくるほどだから・・
やがて全くの暗黒の世界に。たまに見る携帯電話の時刻表示が唯一の明かり。
雨が止むと、葉の落ちる音と、小さな無数の虫たちでしょうか、パチン、パチンと葉や枝を切る音がしていただけですが、夜半を過ぎるといくつかの動物の鳴き声。
近くで四足が枯葉を踏む音。体の一部がビリッと痺れる感覚。人間としての我が身も動物の感覚を失っていない証しなのかも。
突然、至近に「キーン、キーン・・・・・・」 「ギャーチャー、ギャーチャー・・・・・・・」と甲高い鳴き声。おそらくハクビシンでしょう。大声で唸り返すと、その声もやがて遠ざかります。でも、朝までに数度やってきました。
ふと目を開けると、黒い樹木の影が空にいっぱい。月が空を照らしていました。やがて天の一角が薄い紅に染まります。
夜明けにより、森は色を得る代わりに、その緊迫した命の満ちた世界は失われていくように思えました。
夜が動物や「もののけ」たち有象無象の世界であることを心に深く感じさせられた枯草の上でした。
朝、歩きだしても、彼の縄張りでもありましょうか、数百メートルの間「キーン、キーン・・・」と声の見送りを受けたのでした。
肝心なことを忘れておりましたが、この街道は基本的に尾根道ですから、水場は極めて少ないのです。確か、岩佐関所跡の一ヶ所のみ。うっかりしていました。
水は殆どなし、四郎ヶ野峠まで5kmはある、我慢はできないでしょう。五里塚から一の門まで行き、その先、野根山街道から離れて鐙(あぶみ)街道に入れば水場があるという情報を思い出しました。
荒れた廃道のような鐙街道に入り水場を見つけた時は嬉しかったこと。そして、その甘いような水のうまかったこと。 水場
鐙街道
鐙街道は0.5kmほどで矢筈林道に繋がっています。鐙街道を上り返す気力は失せて、そのまま矢筈林道を下ることにします。
広い道幅の林道で、造成当時は奥まで車が入ることが可能であったでしょうが、今は各所で崩れています。それでも10kmほども行けば国道493号に繋がっていることは確かです。
私の頭はどうかしていたのでしょう。木の幹に書かれた消えかかった矢印についつい従って、林道とその下の渓谷の間にある道と言えない道・・廃道に迷いこんだのです。
この道は、あるいは昔の鐙街道の延長であったのかもしれません。
結果的には、国道に繋がる前、川に阻まれて行きどまり、袋小路の道であることがわかるのです。
林道からの出入口はおそらく二ヶ所。(私が入り、脱出したところ)いずれも恐怖の地形。
50mほど下には渓谷の水が騒いでいます。足元の石は、足を運ぶ度にそこまで音をたてて転がって行きます。
そんな所を、しっかりした木に足場をもとめ、手は次の枝や幹に持ち場を探す・・といった歩行です。菅笠の代わりに被っていた帽子も、いつか渓谷に落ちてゆきました。金剛杖は辛うじて斜面に止まってくれましたが・・
午後になると恐ろしい幻覚が襲ってきました。木や石は石仏に見えます。谷川に橋が架っています。その先には民家があって、六地蔵があって、人の姿だって見えるではないですか・・
「オーイ・・」声をかけても返答はありません。すべては幻覚の為せる技なのです。
水場だけはいくつかあります。ですから・・・
ふと、私はここから永久に出ることはできないのではないか、と思ったりしました。
水場の傍に座って「南無大師遍照金剛・・・・」何度も声をあげて唱えました。
兎に角、何とかそこを脱出して、林道を辿り国道493号に出たのは、その日だったのか、あるいは翌日だったのか・・
国道といっても、そこには人家は無く、車の通行も少ないのです。しばらくして、最初に来たのはオートバイの若者。停まってもらい、電話の通じる場所まで行ってタクシーを呼んでもらうよう頼んだのです。
脱出・・・・・・恐怖と悔恨の野根山街道越えの終りでした。
(平成24年10月6~8日)
(追記)この日記自体、消える運命に近づいているように思われますので、恥を忍んで本当のことを記しておくことにしましょう。
野根山街道に続くこの渓谷の傍の廃道に野宿(テントなし、食料なし、水のみふんだんな場所)したのは丸々二日に渡ったことでした。
身に迫る危険な状態を実感しました。二日目の昼、木の幹を掴んで急坂を這ってやっと林道へ出ることができました。無謀を恥じるのみです。 (令和5年1月)
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