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津和野の街の印象


















     島根県津和野。いい語感の響きですね。何で有名かな、千姫にまつわる坂崎
     出羽守、それとも安野光雅・・。
     石畳を敷き詰めたメインロードの両側には、鯉のいる米屋さんや、能面屋さんや、
     骨董のお店や、酒屋さん・・、おっと、私の姿もガラスにうっすらと。
     特別大きなお屋敷やお寺は、ないのですが、旧く小奇麗で情緒ある街屋の風情
     です。城址公園の山に上がれば、石垣の上は一面の白い花。ここから、津和野
     の街が一望です。赤い石州瓦の多い家並、山に囲まれた風景に、どこか
     安野光雅の絵を思い出させるのです。

     (ちょっと思いもよらぬことですが、津和野は、明治の始まる前の年、長崎から
      送られてきた禁制のキリスト教徒の殉教の地でもあるのです。慰霊のマリア聖堂
      もあります。明治の時代、日本の中心に出て活躍した、森鴎外や西周がその少年
      時代を過ごした地でもあります。そんなことの残されたものを見、話を聞いていると、
      この津和野の街は、日本の歴史のなかの隠れ里のように思えてくるのでした。)
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金子みすヾ記念館で


















     上の雪 さむかろな。
     つめたい月がさしていて。
     下の雪 重かろな。
     何百人ものせていて。
     中の雪 さみしかろな。
     空も地面(じべた)もみえないで。

     山口県長門市仙崎の港の埠頭にジャンプする鯨の像がある。その昔、ここは
     日本有数の捕鯨基地であったようだ。
     そんな港が見える路地に面した本屋の店番をしながら・・、こんなやさしい詩を
     うたった 金子みすヾ。明治36年の生まれ、本名金子テル、才能に恵まれながら
     も、不幸な結婚を経て、26歳の若さで自らの命を絶った童謡詩人。
     本屋「金子文英堂」は、後に映画のロケセットとして復元。今は、記念館の一部
     としてある。その店先で、上がり框で、そして座り机の前で、しばしその人の
     影を追った。
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赤煉瓦と石の建物の時間
















     広島港から船で30分、瀬戸内海に浮かぶ江田島に、この赤い煉瓦の建物は
     ある。現在は、海上自衛隊幹部候補生学校の校舎として使われている。
     その昔、太平洋戦争の終戦までは、海軍兵学校の校舎(生徒館)。
     この場所では、明治以来培われてきた日本の軍隊の心が生きている。現に、
     校舎の隣の、教育参考館のなかでは、多くの軍人が、英霊として、神として、
     祀られているのだ。忌まわしい過去という言葉は、ここでは禁句。
     だから、そんな話はしたくない。赤煉瓦の建物として見る。長い年月を経た建物
     の存在感は頑としてあるのだから。
     この建物、明治26年(1893)イギリスから輸入されたという煉瓦を用いて、
     イギリス人技術者の指導により建設されたという。当時、日本では、これほど
     美しい色と肌を持った煉瓦は製造できなかったそうだ。
     校舎の隣にある大講堂。大正6年、瀬戸内の島の花崗岩で造られた。
     少し荒れた空模様のもと、堂々とした姿を誇示する二つの建物。

     (ここは、日に数回、元自衛隊員の方の案内で、集団で見学する。
      ここでは、終戦という言葉は無い。明治から現代まで繋がった日本海軍がある。
      それをどう考えるか・・。それは、別の問題である。赤い煉瓦の壁にそっと
      触れてみる。すべすべした表面と、意外な暖かさを持っていた。
      このイギリス生まれの煉瓦が、もっと我々の生活に身近な建物のなかで生か
      されていたら・・と思わせられた。
      因みに、現在まで残されている著名な煉瓦造建物としては、西にはこの建物の
      他、大阪中央公会堂、福岡今村天主堂(以前に紹介した)。東には、東京駅、
      横浜新港埠頭倉庫、片倉工業富岡工場がある。)
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昔日の輝き


















     広島県呉市にある入船山記念館。明治22年に建てられ、呉鎮守府司令長官
     官舎として使用されたものである。
     記念館の随所は、過去の忌まわしい思いを呼び起こすような設えが見えるので
     あるが、明治の建物として見れば、その豪華さとともに、憂いにも似た別の思いも
     湧いてくる。
     表側は洋館で、英国風(ハーフティンバー様式)、屋根は天然スレートの魚燐葺き
     である。玄関扉の華麗な装飾ガラス、内部は薄暗い照明に金唐紙の壁紙が浮か
     びあがる。壁も床も豪華な家具の背も、昔日の輝きの残照の中にあるようだ。
     そして、裏側の開放的な和風建物(和館)に繋がる。その段差に驚かされる。
     外から見れば、平でない明治のガラスが生む煌きも独特の雰囲気を生む。
     平成10年、国重要文化財に指定。

     (この呉は、太平洋戦争までは、軍港として栄えたところ。戦後の荒れ果てた街
      の面影は、今は見い出す術もありませんが、この入船山を中心とした旧軍の
      記念施設や、戦艦大和のドックがあった地に建つ大和ミュージアムなど、かって
      の軍港としての顔が今や、観光資源となっているのです。それらをどう捉えるか、
      それは我々見学者の問題でしょう。)
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花田植の里


















     広島県山県郡北広島町(旧千代田町)には、古くから無病息災と豊穣を願う
     田の神の祭り「花田植」が伝えられてきた。
     5月終りから6月の田植に時期、それは行われる。
     最初に、花傘に飾られた飾り牛が、追い子に促されて、田に入る。
     入念に代掻きが行われる。
     やがて遠くの道を太鼓と笛の音に連れられ、早乙女達が進んできて、
     田に入る。
     見物人から、歓声があがる、華やかさ。田植が始まる。
     撥を振り上げ体を反らすようにして太鼓をたたく囃子手の男たち。
     赤い襷が田面に踊る早乙女さん。菅笠の陰で紅潮した笑顔が漏れる。
     そして、一際心に沁みる、三拝さんの唄う、田植唄の調べ。

     (この花田植の楽しさ、華やかさそして漂う何処ともない憂いを写真に撮ることは、
      難しい。何故か。早乙女や囃子手の所作の動きもあろう。でも、最も大きなものは
      田園を渡る田植唄の調べではないか・・そのことに気付かされる。)
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