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鞆の浦、雛の表情(2)
















     鞆の浦の街の雛祭りで見た、雛人形の表情。続きです。
     今まで、お雛さまをこんなにじっくり見たことはなかった
     ような気がします。おっさんが、お雛さまでもあるめーし・・、
     それに、そういう機会も無かったしなー。
     妖艶なお雛さま、可愛いお雛さま、凛々しいお雛さま・・
     人形夫々が、ちゃんと主張をもって座っておられる・・
     ってことが、よくわかりました。
     鞆の街まで出掛けていって、歩きまわった甲斐、あったと
     いうものですよ。

     (山が海に迫り、残された僅かの土地に、鞆の浦の街がある。
      街の中を抜ける道路は、狭く曲がっていて車の離合に往生
      する。海岸を埋め立てる計画もあるらしい。埋立反対の署名
      運動をしている人がいる。「埋め立てちゃったら、この港も
      街の風情も・・もう終りですがなー・・。」
      昔からの狭い路地を歩き、旧い商家や民家の門を潜って、
      会えるお雛さまにこそ価値がある。華やかで、やるせない、
      いにしえの文化とひとの心に会うことができるから・・。
      でも、現代に生きる人の利便とは相容れないこと。日本の
      多くの旧い街に生じているジレンマは、この鞆の街でもある。)
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鞆の浦、雛の表情(1)
















     広島県の東部の鞆(とも)の浦(現、福山市鞆町)は、瀬戸内海の中央に位置す
     ることから、引き潮、満ち潮が出会い、別れる場所であり、古くから九州大宰府へ
     また遠く唐へと向う船の潮待ちの港として栄えた。
     平家の栄華の跡や、室町時代最後の将軍の末路の地、あるいは、幕末の京都、
     七卿落ちの港として、歴史の表舞台に時々顔を出してきた。
     路地の彼方此方から、長い時のやるせない香りが匂う、そんな街で・・。
     このところ、毎年2月中旬から3月末まで、雛人形祭りが催されている。江戸時代
     後期から明治、大正、昭和30年代に至る、日本全国の雛人形が、商店の店先
     や民家の座敷に飾られている。その数、約70軒、街中をあげての雛まつりなの
     である。

     (江戸時代から続いているという商店の店先。何組かの雛人形が飾られ、ご主人
      はちょん髷の鬘なんぞ被って、見物客に説明している。何とも嬉しそうな表情。
      民家の土間に飾られたお雛さま。「今年95になるおばーちゃんのお雛さまなん
      ですよー」と、お雛さま自慢のおかみさん。でも、「他所も見られましたー・・どこの
      お雛さまがよかったー・・ですかー」やはり、他所が気になるらしい。)
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岩国、錦帯橋を渡る
















     増水時の水流の激しい錦川に、流されない橋を架けることは、江戸時代、歴代の
     岩国藩主吉川氏の切なる願いであったといいます。1673年初代の橋が竣工し
     ますが、翌年の大洪水で流され、より堅牢な橋を再建。この二代目の橋が276年
     もの間、よく激流に耐えてきたのです。昭和25年の台風により流された橋の記憶
     は、まだ、お年寄りの頭に残っています。これまでの橋の構造のまま、直ちに再建
     された橋、それが今見る三代目だそうです。
     長さ210m、幅5m、橋脚の高さ5.6m。
     橋の周囲は、春は桜、夏は鵜飼いと花火、秋は紅葉、冬は雪景色・・春夏秋冬、
     多くの観光客を集めているのです。

     (紅葉の終わったこの時期、橋以外特に見るものはありません。でも休みの日
      には、若い二人連れも、おっさんも、おばさんの団体も、たくさんの人が訪れます。
      この橋、とても歩き難い・・と思われるかもしれませんが、実際歩いてみると、それ
      ほどでもないのです。みんな、みんな、エッサホイサで渡ります。)
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長府、土塀の印象














     下関市街地から東へ10k、今は下関に属する長府の町。戦国時代の末、その
     武勇、器量を謳われた毛利秀元が、関ヶ原の敗戦の後この地に入り、毛利藩の
     支藩、長府五万石を置いたその場所。幕末には、維新発祥の中心ともなり、
     高杉晋作、挙兵の地でもある。
     町の一画に、土塀に囲まれた、当時の街並みが残されている。しかし、所々に
     長屋門はあるが、土塀の中の主屋、武家屋敷は残されていないのだ。町屋も
     見られない。それは、この街が、生活の場として現在も住まわれているというこ
       とによるらしい。使い難い家は、取り壊され、近代的な住宅に替わったということ。
       ちょっと変わった風情の土塀の街なのである。

     (西に傾きかけた日差しが、土塀の間の石畳に影を落とす午後、この街の一画を
       歩いた。土塀は、立派で高く、その中の家の様子を伺うことはできないのです。
      電動車椅子のご婦人が、軽く頭を下げて通り過ぎて行きます。
      本来、住宅の境界を形作るべき土塀は、ここでは、あまりに雄弁なのです。
      歴史の重みを秘めた、不思議な長府の街でした。)
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土蔵、町屋そして劇場のあった街


















     広島県の東部、山間の町、上下(じょうげ)(現在は府中市に属する)
     は、江戸時代、幕府の天領として、また石見の銀を瀬戸内、尾道に
     運んだ石州街道(銀山街道)の宿場町として栄えたという。
     この地方の政治、経済の中心であった伝統は、明治、大正、昭和の
     時代に引き継がれ、現代に残る土蔵や町屋の並び、白壁、格子窓、
     なまこ壁、そして、うだつなどに往時が偲ばれるのです。
     街並みの外れに、劇場「翁座」が残されています。大正時代に建て
     られたもので、昭和の半ばまで、芝居や映画の上演に大いに賑わった
     という。高田浩吉、鶴田浩二・・、最近では、広島出身の平幹二郎も
     この舞台に立ったそうです。
     ここには、写真載せませんが、土蔵造りのキリスト教会や、田山花袋
     の「蒲団」のモデルとなったといわれる女流作家の生家があったり、
     盛りだくさんの不思議な街なのです。

     (翁座の中は、入場料を払って見ることができる。受付には、ちょっと
      風変わりな若い娘が、暇を持て余している。「おねーさん、写真撮って
      いいかい・・」、「うーん、まあいいや、いいことにしよう・・」、「ってこと
      はほんとはダメなの?・・」、「いやいや、自由、自由、でも暗いから、
      うまく撮れネーよ、きっと・・」。ちょっとズレてるのかなー。いや、まとも
      なのかなー・・。で、翁座の外に出て銀山街道の案内までしていただ
      いたのでした。)
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