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黄金の水田の中の社倉


















     広島県の中央部、加計町下筒賀(現安芸太田町)に、社倉(しゃそう)が残されて
     いるという話を聞いた。社倉とは何か・・  江戸時代の中頃、広島藩は飢饉に
     備え、村ごとに麦を貯蔵する倉を設けることを督促したという。貯蔵された麦の
     一部は年々低金利で貸しつけることも行われ、利殖と救用を兼ね備えた制度で
     ある。
     この社倉は、県内各地に残るものの一つ。小規模ながら、建立時の状態をよく
     伝えているものと言われる。
     山間を縫う太田川に沿った国道を歩いていると、人に尋ねて聞くまでもない、少し
     高い場所の田圃の中に、特徴ある茅葺き屋根と白壁の倉が目に入ってくる。
     純白の壁、塗り直されて間もないようだ。
     黄金に染まりつつある豊かな稲の穂の向こうに、輝くような土蔵・・。
     社倉を設け、運用し、そしてこの時代にまで立派に維持してきた・・。村の人々の
     誇りを見る思いがした。
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夏の田園、茅葺屋根の家


















     広島の市街からそれほど遠くないこの地、志和(現東広島市志和町)に、多くの
     茅葺き屋根の住居が残されていると聞いた。ああ、前に紹介した「酒造蔵のある
     村」、同じ場所です。6年前の調査では、15棟の茅葺き民家が確認されていたと
     いうことですが、当時も放置状態にあった4棟を除き10棟足らずが残されていま
     した。何といっても、住居として実際に住まわれているものであることが、貴重な
     ことです。維持保存には、大変な苦労がいることでしょう。でも・・、
     緑の濃さを増した水田の稲の向こうに茅葺き屋根の家を見るとき、何と美しく、
     そして何故か懐かしい風景を見たという思いを拭うことができませんでした。

     (暑い夏の日中、燃えあがるような田圃の中の道を歩く。
      「この辺に茅葺き屋根の家がたくさんあるって聞きましたが・・」
      こんな昼、田に出ている人は殆どいない。たまたま水の見回りに来た人を見つけ、
      聞く。丁寧に道を教えていただいたうえ、「夜来れば、蛍が見れるがのー・・
      是非・・」と、熱心に宣伝をされる。村の人は、茅葺の家や里山や蛍を求めて
      やってくる人を待っているのです。
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酒造蔵のある村


















     緑の濃くなってきた田圃の中の道を行くと、
     畦に咲くヒメジョオンの向こうに、
     広い瓦屋根と赤い煉瓦の煙突と、
     特徴のある窓を持った大きな蔵が見える。
     酒造蔵です。
     広島は酒どころ。西条(現東広島市)のように、
     多くの酒造元が集まった場所もありますが、
     一つの村の中央に、一つの造り酒屋さんがある・・
     そんな村もけっこうあったのです。
     ここは、西条から山一つ越えた隣村。
     (村といっても今はここも東広島市の市内ですけど)
     酒造りも経営は大変のよう。廃業するところも多いと聞きます。
     大きな蔵の一部は、レストランなどになっています。
     里山や蛍の川や・・、そんなものを求めて人が訪れる
     のを待っているようです。
     でも、もうすぐ黄金に変る水田の中にしっかりと座る
     この大きな蔵は、きっと昔から村の人の誇りであった・・
     そのように思えるのです。
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大正浪漫の残り香


















     北九州市、門司港駅近くにある旧門司三井倶楽部の建物。
     大正10年(1921)北九州市門司区谷町に、三井物産の社交クラブ(接客および
     宿泊施設)として建てられたもの。平成2年国重要文化財指定の後、平成6年
     解体、建設当初の姿に復旧し、このレトロ観光地区に移築されたという。
     大正11年には、アインシュタイン博士夫妻が宿泊したという。その記念の品も
     展示されている。
     外壁に柱梁を見せるハーフティンバー様式の建物。復旧された内装、家具調度
     とともに、大正浪漫の香りを色濃く残すと言われる。そんなものを見ながら、その
     時代の人々の夢がどんなものであったか・・想像を巡らす。

     (門司に港が開かれたのは、明治22年。北九州の工業と結んで、大陸貿易の
      基地として栄えた。このレトロ地区と呼ばれる新しい観光地には、この三井倶楽部
      の他にも、当時の繁栄の証しのような建物が集められ、様々な色と想いを振りまい
      ています。旧いものと新しいものが入り交じって、楽しい遊びの空間をつくって
      いるのです。)
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津和野、西周の生家
















     西周(にし あまね)と言っても、名前を何処かで・・といった程度でよく知りません
     でした。
     幕末の文政12年(1829)、津和野藩(現、島根県)の御典医の家に生まれ、
     藩校で蘭学を修めた後、幕命でオランダに留学、法学、カント哲学、国際法など
     を学ぶ。帰国後、徳川慶喜の政治顧問を務め、軍政を整備。明治になってから
     は、西洋哲学の翻訳、紹介に尽力。「哲学」、「芸術」、「理性」、「科学」などの
     言葉は、西の考案した訳語と言われるそうです。
     明治初期の啓蒙家、教育者として大きな業績を残した、西周の生家は、今も
     津和野の街外れに残されています。津和野生まれのもう一人の有名人森鴎外の
     生家も、川を隔てたすぐ近く。

     (西周の生家の前に、それは大きな栴檀の木があります。薄紫の花がまだ残って
      いました。家は、きっとその当時もそうであったことでしょう、とっぷりとした田園の
      中にありました。
      世の中が、とてつもなく変わっていきそうな・・、そんな予感のする幕末の時代の
      なかで、多感で才能溢れる少年は、どんな夢をみたのでしょうか。
      こじんまりとした、家の座敷に、土間に、しっとりとした風が渡っていました。)

     おまけ: 西周の生家の前の名残りの栴檀の花。

     
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