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いじめと報道

2012年07月15日 | 私見
学校関係者として、学校寄りの立場で今回のいじめ事件に触れたいと思います。

滋賀で起きた事件は、当事者のみならず、教育長や警察まで巻き込んだ騒ぎになっています。もちろん、いじめを肯定する気持ちは毛頭ありませんし、真相を解明し「同じ悲劇を繰り返さない」ために、直ちに考えられる限り最善の手立てを余すことなく打つべきであると考えています。しかし、その考えとは裏腹に、今のこのいじめ報道の有り様が、「同じ悲劇を繰り返すため」に行われているような気がして、悪寒を通り越して虫唾が走る思いでいます。

自分は2008年の記事でも述べたとおり、「いじめによる子どもの自殺数は、30年間ほぼ横ばい」という統計数値を根拠にスタンスを取っており、今回のケースもその一端であると捉えています(繰り返しますが、だからといっていじめを肯定しているわけではありません。)では、何故今、こんな大騒動になっているのでしょうか。事件があったのは昨年のようですが、じゃあ一昨年はいじめによる自殺がなかったかというと、過去の報道を調べる限り小学生と中学生の自殺がありましたし、その前の3年前にも高校生が自殺に追い込まれています。もちろん、今回のように「いじめによる自殺」と認知されてこなかったケースも多々あるでしょう。そういうのもひっくるめた自殺の統計は、本当にここの所ほぼ横ばいなのです。成人も含めた自殺者は年々増加傾向にありますから、自殺者数における児童生徒の割合は、年々減少しているとも言えます。
記憶に新しい岐阜県瑞浪市で起きた自殺を含む、文部科学大臣が緊急の手紙を配布するという事態にまで至った2006年には、既にいじめの定義が「一方的・継続的・深刻」から「本人がいじめと感じた」に変わっています。つまり、今回のケースで「いじめがあったか」を判断するのは本人であり、本人に近い関係者なわけで、決して学校が断定する問題ではないのです。つまり、マスコミが「いじめがあったか」と学校に聞くこと自体が間違いで、聞くまでもなく「いじめはあった」と言えるわけです。一般的な認識は「いじめはあってはいけないもの」かもしれませんが、「いじめはあるもの」という認識が現在学校にはあり、数ある雑多な仕事の中でも最優先で対応していかなければいけない事柄です。そもそも、「いじめがあった」ら即担任の責任だと結論づけるのは、極論過ぎるとさえ思っています。

自分にも、今の学校に来た年に申し送りで「いじめ」が数件あるクラスであると伝えられ、細心の注意と対応をしたつもりでしたが、根絶には至らず次学年に上げてしまったと言う苦い経験があります。「あの学級は先生だから受け持てるよね」という同僚の一言に、どれだけ救われたか分かりません。毎日朝食は喉を通らず、休みたい・辞めたいという気持ちにも襲われる中、合格点は出ないにしても担任交代に至らず皆勤で努め上げたことは、今でも教師という職に対する自信につながっています。一方で今のクラスでは、2年連続の1年生ということもあり、人間関係も全て統制が取れ、完璧なる手回し根回し見通し安全確認の下で、毎日非常に楽しく過ごしています。同じ1年間。給料も同じ。もし自分が先生だとしたら、どちらのクラスを持ちたいでしょうか。同様に、荒れた学校とそうでない学校、選べるとしたらどちらに行きたいでしょうか。・・・自分は、この10年間次の年の学年や勤務校の人事に口出ししたことも、断ったこともありません。教師という職に携わる以上、やはり「自分が持たなくても誰かが何とかしてくれる」という姿勢は、逃げでしかないと思うからです。いじめを見て見ぬ振りをするのと同じです。特に体育教師であればなおさら困難校へ回され、毎日指導に追われてやりたいことのできない鬱積した日々であったことに想像は難くありません。対応については拙さが漂いますが、学校には地区によって独特の特性があり、人事についてある程度希望も拒否も出せる状況で、「自分が何とかしてやろう」という思いがなければ、おそらくその学校で勤務することもなかったでしょう。この点に関しては、少なくとも特筆に価すると思います。あと、いじめが発生し、エスカレートする原因に、担任の対応不足があることも否定しませんけど、モンスターとも蔑称されて久しい一部の保護者の教育観や、テレビのバラエティや報道にも見え隠れする「いじめは楽しい」価値観から来るとしか思えない表現などについても、少なからず触れるべきだと思います。そもそも教育基本法にある通り、「教育とは“人格の完成”を目指し、父母その他の保護者は、子の教育について“第一義的責任”を有する」のであり、本来、このように“教育”してしまった責任は家庭にあるにも拘らず、担任以上に前に出てこない加害者の保護者に対しては、憤りすら感じます。親ですら自分の子に責任がもてないのに、どうして「等しく普通教育」を行っている学校が誹謗中傷の的になるのか、理解に苦しみます。さらに言えば、まず「うちのバカ息子がとんでもないことをしてかして誠にすいませんでした」の一言がないがゆえに、責任転嫁の迷走に陥っているという分析を、誰もしていないことにも大きな疑問を感じます。

今回の報道により僕が一番危惧するのが、「自殺すれば社会がいじめっ子に対して制裁を加えてくれる」といった間違った認識を、いじめに悩んでいる子どもがもってしまうことです。それは自殺の後押しにつながり、押しているのはマスコミであり、煽っている全ての人達と言うことになります。今回の件は校長なり教育長なりが責任を取るとしても、万が一“次”に同じことが起きたら、マスコミはちゃんと責任を取るのでしょうか。「自殺が相次ぐ」という表現に、後押しされてしまった悲しい事例も過去には何度か見受けられますし、今回のキーワードにもなっている「葬式ごっこ」自体も、1980年代に初めて起こり、マスコミが取り上げて以来、各地でまねをする「負のブーム」となってしまったという事例があります。自分も子どもの頃、何かのマンガで「友達の机の上に花瓶を置く」という表現を見たことがあります。そもそも今回の事件が去年の話なのに、何故今になって騒いでいるのか・・・いろいろ理由はあるのかもしれませんが、自分には、昨年は震災と原発の報道で忙しかったからとか、ここの所いじめ自殺報道の扱いが小さかったからとかの、マスコミのメシの種的な都合としか思えてなりません。

こうしてマスコミで報道された後に類似事件が多発すると言うことに、一体何回繰り返せば気がつくのでしょうか。バラエティでも報道でもインターネットでも、とにかく表現者が「いじめ」を食い物にするのだけは止めてほしいです。

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