鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ワクチン接種騒動と東京オリンピック

2021-05-19 14:27:50 | 日本の時事風景
今朝のテレビ朝日「羽鳥モーニングショー」では、ワクチンの接種問題と東京オリンピックの開催問題について詳しく報道されていた。

まずワクチン接種をめぐっては、高齢者が予約の電話を何回入れても繋がらない、諦めた、というものから、大規模接種の当事者に関して、薬剤師にまで注射の応援が頼めるか、など、かなり具体的な報道だった。

65歳以上の高齢者3600万をひとくくりにして、早い者勝ちの予約は不公平そのものだという観点から、「抽選制」にしてはどうかという案が検討されていた。

抽選制ならたしかに不公平感は払拭されるものの、外れた人に対する二次抽選、また外れた人への三次抽選とおそらく無限に近い回数の抽選が全国いたるところで行われるわけで、そうなるとベラボーな手間暇と費用が掛かりそうだ。

それより、以前に指摘したように、各市町村にある住民台帳を基にして、まず100歳以上の高齢者から接種を始め、次は95歳以上、次は90歳以上・・・・、と年齢別のピラミッドの上部から(接種するしないの判断は個人に任せるが)有無を言わせず接種をしていけばスムースこの上なく、また費用も接種券の発送くらいで済むではないか。

何でこんな単純な接種方法をに気付かないのだろうか。予約だ、いや抽選だと、接種対象者を絞らなければ少ないワクチンなのでどうしようもないと、カッカするのは察するに余りあるが、もう少し冷静になるべきだ。

これを名付けて「ワクチン接種のトリクルダウン方式」。誰か気付かないものか。


次は東京オリンピック中止または延期の話題。

先日の新聞で、英米の新聞各社が東京オリンピックはコロナ感染を拡大するから中止すべきだという論陣を張ったことは承知だったが、フランスでも同じような論調のメディアが現れている。その理由は英米とほぼ変わらないが、一つ「新型コロナワクチンの開発に消極的過ぎる」という理由があった。

これには大いに同調したい。去年の今頃、日本が欧米に比べてダントツに低い感染者数や死亡者数を鼻にかけて「日本の感染回避のやり方は日本モデル(として大いに誇れる)」と言っていた安倍前総理の得意満面が記憶に残っているが、その気の緩みもあってか「ワクチン開発など時間がかかり過ぎて無駄だ。いざとなったらアメリカの製薬会社に頼もう」という他人事のような政府の対応だった。

「どうせオリンピックは1年半後に延期になったことだし、それまでには新型コロナも下火になっているだろう」くらいの危機意識ゼロ対応が、今となっては完全に裏目に出てしまった。オリンピック開催国としてワクチンの開発を急がなければならなかったのにこの有様では、フランス紙でなくても全く歯がゆい思いだ。

いま日本ではオリンピックの開催について、世論調査では常に「中止すべき」がトっプで40パーセントを超え、「延期すべき」が30パーセント、そして「今年やるべきだ」は20パーセントほどと、70パーセントの国民が中止または延期を希望している。

もう今年の強行突破はないと思うが、さて中止になった場合に日本がいくら「違約金」を払うのだろうか。

これについて報道では、IOCの契約で「契約解除」になるのは、「戦争、内乱、ボイコット」という事情があった時、またはIOCが解除すべき「合理的な理由」があると判断した場合、だそうである。

そして特に「違約金」の取り決めは無いという。

問題は最後の「合理的な理由」の解釈だ。今度の場合は「新型コロナ感染はいまだに拡大しており、ワクチン接種の遅れもあって、7月に開催すれば感染拡大の恐れが強いため」という理由になるが、これをIOCが認めるかどうかである。

しかしこれはすんなり認められるだろう。何しろ新型コロナ感染拡大の現象は日本において現実のものであり、オリンピック開催国とするには危ういのは「科学的に明白」だからだ。

バッハ会長は「日本は安全な開催に向けて全力で取り組んでいる」と「エール」を送っているが、日本に止めてもらっては当てにしていた多額の「放映権料」が入らなくなるからそう言っているだけだ。去年の3月31日の時点で延期を決めた時の日本の感染状況は、一日数百人でしかなかったのに、今は6000人を超えている。それなのにやって欲しいと言うのは全くの矛盾もいいところではないか。

もう中止か延期か政府が明確に態度を決め、今年の開催は無理だとIOCに申し入れるべきだろう。

「コロナ感染拡大止まず」という明白な科学的根拠があるのだから、中止してもペナルティ(違約金の支払い)は無いに違いない。

菅総理もここは「泣いて馬謖を切る」の心持で、東京オリンピックを切ってほしい。そして「新型コロナ感染終息に全力を挙げる」と世界に向かって発信すべきだ。そうすれば「男が廃る」ことはあるまい。

邪馬台国問題 第11回(「史話の会」5月例会)

2021-05-17 13:34:25 | 邪馬台国関連
5月16日(日)「史話の会」の5月例会を開催した。場所は東地区学習センター。

昨日は朝早くから南風のせいで気温が上昇し、加えて湿度も半端ではなかったので、初めて冷房を入れて学習した。

前回で魏志韓伝に載る南朝鮮の「三韓」(馬韓・弁韓・辰韓)のうち馬韓の条が終わったので、今回は弁韓と辰韓に入った。テキスト『邪馬台国真論』(拙著・2003年刊)の133ページから150ページまでである。

今回は辰韓の歴史的な建国過程が肝である。


【弁韓と辰韓】(魏志韓伝より)

韓伝の本文に、<弁韓と辰韓とは雑居す>という表現があり、弁韓12国及び辰韓12国とは兄弟国家のような不思議な関係にあることが分かる。国境を越えて自由に往来し交易したり、居住することができたと思われる。

双方で合計24か国が列挙されているのだが、弁韓の部、辰韓の部と分けているのではなく、混合列挙なのも不可解と言えば不可解である。ただし、弁韓の国家群の国名の頭には「弁辰ミリミト国」とか「弁辰セット国」というように、「弁辰」が付されているので、間違うことはないが、それなら初めからそれぞれの12国を分けて書けば良さそうなのだがそうしていない。

これらの条件を考えてみると、弁韓と辰韓の間には次のような関係があることを想定できる。

「弁辰」という表現は、「弁+辰」の意味ではなく、「辰を弁(わか)つ」の意味ではないか。つまり弁韓は辰韓から分かれた国家群であるという事。

すなわち、もともと辰韓12国があったところに、あとから土地の一部を「弁(わか)」って貰って建国したのが弁韓だろうということである。

そういう状況をもたらしたのは「伽耶鉄山」の盛況であったと思われる。本文には

<国、鉄を出す。韓・濊・倭、みな従いてこれ(鉄)を採る。諸市において買うにみな鉄を用う。中国の銭を用うるが如し。また以て二郡に供給せり。>

とあり、伽耶鉄山を開発しつつ、そこで鉄素材の鉄鋋(テッテイ=鉄の延べ棒)に仕上げ、それを貨幣に使っていたこと。また二郡(帯方郡と楽浪郡=魏の半島における植民地)にまで供給していたことが分かる。

それほどの盛況は九州島からの倭人を惹き付けずにはおかず、航海民と言われる北部九州の安曇族や宗像族は無論だが、南九州の鴨族も西九州を経由して半島に渡り交易に従事していた可能性が高い。

1~3世紀の列島への鉄の供給の多くは北部九州にもたらされ、そこで利用(鉄刀・鉄剣・鋤・鍬などに加工)され、あるいは交易品として各地に運ばれた。(※機内では3世紀以降にならないと鉄製品の副葬などは見られない。)

このような交易を支える「文身(入れ墨)」を施した航海民の存在抜きに、この時代の半島と列島との関係を語ることはできないことは肝に銘じておかなければならない。(※列島と半島との間の航路は定期航路に近かったかもしれない。)

さて、辰韓の建国の特異性について書いておこう。

馬韓の条で、<辰王は月支国を治す。>と書くので、当時、辰王は馬韓の一国である「月支国」に君臨していたのかと思えばそうではなく、当時はそこを起点にしてさらに東を開拓し、最初6国から、そしてついには「辰韓12国」を支配する王(韓王)になっていた。

ところが<その後は絶滅し、今は韓人で祭祀を続けるだけの者がいる(に過ぎない)。>とあり、また<辰韓12国は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いてこれ(統治)を作し、世々、相継ぐ。辰王は自立して王と為るを得ず。>というのである。

「辰王が辰韓12国を馬韓人を登用して治めさせている」とあるのは、次の経緯があったからだ。

辰王の先祖でもと北朝鮮にいた箕子「準」が、遼東の漢人で衛満という者が漢王朝建国時代の混乱で半島に入ってから、追い出されるように南方の韓地に移った(紀元前194年)。その時に馬韓が国内の東の地に土地を与え、準王に国を継がせた。

準王はそこから東へ国を広げ、紀元後の2,3世紀には辰韓12国の王(辰王)となった。そこに鉄資源の獲得を求めて大量の倭の海人族が渡来し、辰韓王に鉄資源開発と加工交易に都合の良い洛東江沿いの土地を分けてもらった。それが発展して「小は6~7百戸、大は4~5千家」の小国家群となった。それが弁韓国家群の成り立ちであった。

一方、肝心の辰王に属する辰韓12国における統治では、馬韓人を登用して治めさせている。しかも「辰王が自ら立って王と為るを得ず」というわけで、辰王は当の辰韓国内で君臨してはいないようなのだ。

馬韓人が辰王に重用されるのは、上の傍線部の経緯からいって納得はできる。つまり今でこそ辰韓王となった辰王の先祖は、馬韓の土地を分け与えてもらえなかったら滅亡し、今の辰韓はないのであり、そこに馬韓人に対する非常な恩義を感じているからだろう。

だが、「王と為るを得ず」という表現はかなり強く、あたかも馬韓人がしゃしゃり出て辰王に王座に就かせないようにしているかのような印象だが、馬韓人を宰相の地位に就けて実務を任せ、辰王自身は威風堂々と王座に座っていればいいだけの話ではないか。

そこでここの解釈だが、辰韓12国の王「辰王」は当時すでに辰韓国内にはおらず、朝鮮海峡を渡った九州島に王宮を移動させていた――と私は見るのだ。

では移動した先はどこだろうか。そこを私は多くの邪馬台国研究者が「伊都国」と比定する「糸島市(旧怡土郡)」とする。

この糸島市はもと「伊蘇国」であった。仲哀天皇紀と筑前国風土記逸文には、この怡土郡の豪族として「五十迹手(いそとて)」が登場し、天皇一行に対して恭順しつつ、まめまめしく働いたので天皇の激賞を得て「恪(いそ)しき男である。お前の国を伊蘇国としなさい」と言われ、伊蘇国となった。いま(記紀・風土記編集の時代)は「いとこく」と呼んで、転訛して(なまって)しまったが、これは誤りである――と書かれている。

さらに五十迹手(いそとて)はこうも言う。「私の祖先は半島の意呂(おろ)山に天下りました」と。つまり五十迹手の出身地は半島だったというのである。

「五十」を和風諡号に持つ天皇が二人いる。ひとりは崇神天皇、もう一人は皇子の垂仁天皇である。

崇神天皇の和風諡号は「ミマキイリヒコ五十瓊殖(いそにえ)」で、後半は「五十の地に瓊(玉=王権)を殖やした(拡大した)王」という意味である。

垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリヒコ五十狭茅(いそさち)」で、後半の意味は「五十の地の狭小な茅屋で過ごした(生まれた)王」ととれる。

こう解釈すると崇神天皇こそが辰王であり、3世紀の魏志韓伝時代、すでに半島の南東部辰韓の王宮を捨て、海を渡って糸島に定着していたのかもしれない。また、垂仁天皇は崇神天皇が糸島に渡来した後に、狭小な王宮で生まれた可能性が考えられる。

多くの研究者はこの二人の和風諡号の前半部分だけを見て、「イリ王朝」だと論じ、畿内ではなくよそから入った(イリこんだ)王朝の始祖が崇神天皇である――とするのだが、後半部まで見て全体で解釈しなければ意味がないことを忘れている。


【資料年表】 韓半島の勢力の推移

紀元前 202 劉邦が漢王朝を建国
    194 燕から衛満が半島へ侵入し、北部朝鮮にいた朝鮮王「準」を追放
       準王は南朝鮮に移動し、「馬韓の東界」に入る
    108 漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、四郡(真番・臨屯・楽浪・玄莵)を置く
    82  漢が四郡のうち、真番と臨屯を廃止
   (57  赫居世が新羅を建国)
    37  朱蒙が高句麗を建国
   (17  温祚が百済を建国
紀元後  8 王莽が新を建国(前漢が滅びる)
     23 王莽の死
     25 劉秀が後漢を建国(光武帝)
     57 倭の奴国王が後漢に朝貢(金印)
    107 倭国王帥升が後漢の安帝に貢献
    147~188 桓帝と霊帝の時代に、倭国で大乱。卑弥呼が共立
    204 公孫氏が自立し、半島に帯方郡を置く
    222 大陸は魏・呉・蜀の三国時代に入る
    238 魏が公孫氏を滅ぼし遼東を平定。半島は魏の支配下に入る
    246 三韓は魏に帰順する
    247 ※この頃、邪馬台国と狗奴国が交戦。帯方郡使が渡来
    248 ※卑弥呼の死
    265 魏で司馬炎が即位(晋王朝建国)
    266 倭の女王が晋に貢献する(邪馬台国女王・台与か)
    280 呉が晋に服属し、晋が中国を統一
    313 楽浪郡と帯方郡が滅び、半島は高句麗・百済・新羅の三国時代となる
    316 晋(西晋)が滅び、大陸は五胡十六国時代となる




「大山咋(オオヤマクイ)」と「三嶋溝咋」

2021-05-14 09:58:55 | 古日向の謎
先日のブログ「秦氏と隼人」で京都の下鴨神社の祭神であるカモタケツヌミは「南九州の曽の峰に天下り、大和葛城に定住し、その後、山城国方面に北上して木津川を経て鴨川に入り、さらに北上して現在の地(久我の山基)に至り、そこで祭られた、と書いた。

そして、のちに現在の太秦を含む桂川の左岸地帯を開発した「秦氏」と下鴨神社を司祭する鴨氏との婚姻があり、極めて近しい間柄になった。

そこで雄略天皇の時に畿内各地に散らばっていた秦氏一族を招集させる際に、隼人が活躍して18000余名の秦氏を集めるのに功があった(『新撰姓氏録』山城国・諸蕃)というその理由が分かったのであった。隼人は南九州人のことでもあるからだ。(※ただし、雄略天皇の頃、隼人呼称はなかったから、隼人という呼称を使ったのは編集時の遡及である。当時は別呼称だったはず。)

また南九州人を鴨族といい、朝鮮半島との水運を持っていたから、半島から渡来した秦氏の祖である「弓月君が引率する120県の人民」(応神紀)を運搬したがゆえに、すでにその時点でも南九州鴨族は秦氏とは知己の間柄であったことも、秦氏の捜索に功を奏したのだろう、とも述べた。

上掲の『姓氏録』の記事は、秦氏が雄略天皇に「調布を上納して宮廷の前にうずたかく山のように積んだため、激賞した天皇から太秦という姓を賜った」とあるので、彼らの多く住む土地も太秦(京都右京区)になったという地名譚にもつながっている。

ところで、その太秦の地に勢力を張った秦氏の氏神は太秦から桂川を西に渡ったところに聳える松尾山のふもとの「松尾大社」である。

半島から渡来した秦氏がどんな神を祭ったかと言えば、祭神は「大山咋(オオヤマクイ)」という神である。

この神の属性は「山の中に杭を打ちたてて境界を示し、山を守る」こと、というのが一般的な解釈であり、大社自身もそのように解釈しているようである。

その解釈のため「林業や酒造業」の守り神として崇敬を集めているとのことだが、林業はいいとして、酒造業の方は酒造りに欠かせない「酒樽」の原料はスギであり、酒屋の看板ともいえるのが「杉玉」だから、なるほど縁は十分にある。

しかし「山の中に杭を立てたら、それで山域が守られる」という点には疑問を感じる。杭くらいで境界が完全に守られるのだろうか。

「山を守る」なら、「山の神」すなわち「オオヤマツミ(大山津見=大山衹)」が由緒もあり、著名でもある。

そもそも「大山咋」の「咋」に杭の意味はないのだ。「咋」は音読みで「サク」、訓読みでは「くい」。この訓読みの「くい」が杭の訓読みと同じなので「杭」(立棒)が当てられてしまったに違いない。

「咋」の漢字の意味は、(1)大声で叫ぶ、騒ぐ (2)噛む、喰う であり、「杭」の意味はない。

ではこのうちどちらの意味を採るべきかというと(2)しかない。この時「大山咋」は「大山を喰う」と解釈される。

「大山を喰う」とは「山を開削する」、つまり「山を削って石材などを切り出す」ということだと思うのである。

秦氏が太秦周辺(京都市右京区)を開拓する際に最も必要な事業は「水田を拓き、毎年安定的な収穫を得るための工事」であったはずだ。進んだ鉄器や技術があっても、田への導水及び排水の利に失敗したら水田は機能しないのである。

導水路や排水路は山田では自然の傾斜により難なく設備できるが、傾斜の緩い沖積平野部ではかなり精密な水路が要求される。そこに必要なのが水路に敷く石材だったはずだ。

そのような石材は山地に求めるのだが、その際当然、山を切り裂くことになる。そのような行為は山の神に許しを求めなければならないと当時の人々は思ったに違いない。それでこその「大山咋神」であったと考える。

この「咋」を使った例が、神武天皇の時代に描かれている。

それは「三嶋溝咋」(ミシマノミゾクイ)という人物である(日本書紀ではミシマノミゾクイミミと「ミミ」が付く)。

摂津(大阪府北部)の三嶋というところに勢力をもつ豪族で、この人物の孫娘・ヒメタタライスケヨリヒメは神武天皇の二番目の后になっている(最初の后は南九州のアイラツヒメ)。

この「三嶋溝咋」の意味は、「三嶋地方で用水路を開発する人物」ということである。摂津三島は淀川の右岸、現在の高槻市を中心とする沖積平野の真っただ中にある。

この地方は淀川の氾濫原で、低湿地であり、導水よりも排水に気を付けなければ水田として大々的には拓けない場所である。その難しい大規模工事を行っていたのが「三嶋溝咋」であった。

現在でも三島の地名は残り、「三島鴨神社」や「溝咋神社」(どちらも式内社)が鎮座している。「溝咋神社」は三嶋溝咋一族を祭るのだが、もう一社の方には「鴨」が付くことに注目したい。ここも鴨族の蝟集する所だったことを示している。

また仁徳天皇の時に、この地方で「秦人を使役して茨田(まむた)堤、また茨田三宅を作り、またワニの池・よさみの池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通わし……」と古事記にあるように、河川改修、貯水池建設を行い、難波(淀川下流)では堀を掘削して海へ排水する工事が行われたという。

ここで「秦人を使役し」とあるが、三嶋溝咋のような人物を指導者として秦氏の得意な土木工事を行ったのだろう。この三嶋溝咋も鴨族の豪族であったと思われる。山城国で秦氏と鴨族(南九州人)が懇意の間柄であったように、ここ摂津三島でもそれは維持されていたとしてよいのではないか。

梅雨入り(2021)

2021-05-12 10:03:31 | おおすみの風景
昨日5月11日、鹿児島気象台は南九州が梅雨に入ったと宣言した。

例年が5月下旬から6月初めだから、相当に早い梅雨の入りだ。これは、これまでで二番目に早いそうだ。一番早かったのが1956年の5月1日だから、それよりは10日遅れだが、平年からすると2週間も早い。

今年の現象で同じように2週間ほども早かったものがある。それはソメイヨシノの開花だ。例年なら3月の下旬(最後の週)の頃だが、今年はたしか3月12日だった。

これだと卒業式シーズンにちょうど見頃を迎え、まさに打って付けの年になったはずだった。「はずだった」というのは今年も去年同様コロナ禍の中の式典となり、送る側の在校生の参列はなく、保護者も一人だけ、さらに来賓もなしという寂しい学校がほとんどだったのだ。

そのためかどうかは分からないが、NHKの歌謡番組で当の「桜」を森山直太朗本人が歌っていたのを眼にしたが、やはり卒業式本番の緊張感の中で歌うのとは違う、という思いで見ていた。


それより梅雨入りして二日続けて雨というのも珍しい。たいてい宣言当日は雨模様だが、その後1週間くらいは雨が降らないことの方が多い。


喜んでいるのが紫陽花だ。これはガクアジサイだが、今年は鉢植えにして春先から日のよく当たり、水道栓にも近い場所に置いて水を切らさぬようにしていたら、4,5日前からぽつぽつ開き始めた。

庭の菜園の野菜類も今のところ順調に育っている。

しかし油断は禁物で、去年は今頃苗を購入して植え付けたピーマンが、6月1日に入梅して以降、気温の低さと連日の雨で生育不良となり、花を着けることなく萎れてしまった。

今年はこの異常に早い梅雨の入りと降り続く雨で、同じ轍を踏みはしないかと危惧している。

それはそうと、まだ雨は降らず、時おり薄日もさしていた午前中、愛犬のウメを「洗濯」しておいてよかった。夕方餌を与えた時にはもう完全に乾いていた。

風呂場で洗っていて不思議だったのが、冬毛がほとんど抜けなかったことだ。桜が散ってからの4月中の気温の低さが冬毛を排除しなかった原因だと思われる。

桜の開花と満開が異常に早かったので、今年の春は高温、つまり夏日が早く来るだろうと予測したのだが、全く外れてしまった。全国的にもその傾向だが、鹿屋で25℃を超えた日はまだ数えるほどしかない。

いま降っている雨がいつまで続くのかは分からないが、続けば続くほど気温は低目に推移するだろう。

そうなると心配なのが「長雨」「冷夏」「台風」の三点セットだ。平成5年(1993)の夏がまさにそうだったが、あの年はコメが凶作で、平年の7割に満たなかった。「梅雨明け宣言」も撤回され、夏から秋にかけて1週間ごとに台風が到来し、鹿児島では「8・6水害」が発生し、9月3日には巨大台風13号が大隅半島を縦断して甚大な被害をもたらした。

コロナ禍も大変だが、あの時は個人的にはもっと大変だった。「天災が覚えているうちにやって来る」昨今だが、28年前のあの事態は二度と来てほしくない。

「鴨とふ船」考

2021-05-11 21:24:05 | 古日向の謎
「鴨とふ船」とは奈良時代の初め頃、筑前の守だった山上憶良が残した歌十首の中で使われている言葉である。

山上憶良は神亀年間(西暦724年~729年)に今日の福岡県北半に重なる「筑前国」の守(国司)として赴任していたが、たまたま志賀島の海士「荒雄」(あらお)が対馬に向けて物資を運ぶ仕事に従事していた時に、運悪く海の大しけに遭い、船もろとも沈んでしまったことを、荒雄の家族に代わって歌に残した。

万葉集の3680番から3889番までの十首がそれである。次にその十首を掲げる。

3680番<大君の遣わさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る>
3681番<荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず>
3682番<志賀の山いたくな伐りそ荒雄らが所縁の山と見つつ忍ばむ>
3683番<荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼はさぶしくもあるか>
3684番<官こそさしてもやらめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る>
3685番<荒雄らは妻子の生業をば思わずろ年の八歳を待てど来まさず>
3686番<沖つ鳥鴨とふ船の還り来ば也良の崎守早く告げこそ>
3687番<沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎廻みて漕ぎ来と聞こえ来ぬかも>
3688番<沖行くや赤ら小舟に裏遣らばけだし人見て解きあけ見むかも>

志賀島の海士(航海民)の荒雄が、宗像郡の宗像部の津万呂の代わりに対馬への物資運搬を企て、志賀島の北端の也良の崎から意気揚々と帰還するはずだった。しかし暴風雨に遭ってしまい海の藻屑と消えた。

そのことを知らずに8年もの間荒雄の帰りを待っていたのは家族だった。山上憶良はその家族に代わって十首を詠み、帰りを待ちわびている家族の心情を代弁した。3680番の歌にあるように、「なあに、これくらいの荒波、無事に行ってきますよ」と沖に出て行く船の上から手を振っていたのになあ――と荒雄の最後の姿を印象的に歌い込んでいる。

この中の3686番と3687番の2首に「鴨とふ船」が詠み込まれている。

「鴨とふ船」とは「鴨と言われる船」のことで、秋になると大陸から渡って来る鴨(雁も)が河川の出口付近に多い「葦や蘆の生えた汽水域」をねじろとし、日中に水面を浮かぶ姿がゴンドラ型の船を思わせるので、小船の類を「鴨船」と名付けたのだ。

京都「下鴨神社」由来の「鴨船」(宝船として七福神を乗せている)。関白家が下鴨神社に奉納したらしい。下鴨神社建立の由来は明確ではないが、祭神のカモタケツヌミは南九州から大和へ移り住んだ鴨族の奉斎する神であり、様々な試練を経て奈良の葛城地方から木津川を経て山城(京都)の「久我(くが)」に至り、そこを定住地とした。


刳り舟か「準構造船」かは問わず、このような「鴨」の姿に似た船を操り、北は大分・福岡から、南は奄美・沖縄までを支配したのは志賀島の海士ならぬ南九州の海士の姿でもあった。